閑話 システムエンジニアの脆弱性と美術教師の幸福な決意
【システム開発部・若手社員の視点】
その日の朝、システム開発部の定例会議は、いつになく重苦しい空気で始まった。
進行中の基幹システム刷新プロジェクトは佳境を迎え、メンバーの誰もが寝不足の目に深い隈を浮かべている。議論の焦点はデバッグの進捗管理とリソースの再配分に終始し、キーボードを叩く乾いた音すらもどこか刺々しい。ホワイトボードには、未解決のバグを示す付箋が血の滴りのように赤々と並び、会議室には殺伐とした緊張感が充満していた。
「――以上が今週の進捗報告です。部長、何か補足はありますか?」
浅井さんが、いつも通り、感情を排した硬質な声で締めくくった。手元の資料を整え、速やかに解散して次の実装作業へ移るよう促すその姿は、相変わらず無機質な精密機械のようだ。一刻も早く、山積したコードの海に戻りたい。メンバー全員がそう思っていたはずだった。
だが、報告を受けた部長は資料に目を落とすこともなく、なぜかニヤニヤと締まりのない笑みを浮かべて浅井さんを見ている。
「あぁ、業務については問題ない。だが諸君、一点、重大な共有事項がある。……我らが浅井陽斗君が、ついに年貢の納め時を迎えた。近々、入籍するそうだ」
一瞬、会議室の時が止まった。
エアコンの駆動音だけが虚しく響く中、俺の隣に座っていた後輩が、メモを取っていたペンを床に落とした。カラン、という乾いた音が、静寂を切り裂く爆音のように響き渡る。
「……え、結婚? あの『歩く精密機械』の浅井さんが?」
「相手は!? 相手は人間なんですか、それとも最新型のAIか何かですか!」
静寂は瞬時にして怒号のような喧騒に変わった。
仕事の進捗など、もはや誰の頭にもない。論理回路とコードで構成されているはずのエンジニア集団が、特ダネに群がる記者さながらに浅井さんを包囲する。
「嘘だろ、あの『感情の起伏がデッドロックしてる』って言われてる浅井さんが……」
「先週のあの深夜残業の時も、一言もそんな気配出さなかったじゃないですか! どんな脆弱性を突けば、浅井さんの心にパッチを当てられるんですか!」
「浅井さん、水臭いですよ! 式には俺らも呼んでください!」
「そうです、鉄面の浅井さんの晴れ姿を見届けないわけにはいかないですよ!」
口々に叫び、机を叩いて詰め寄る俺たち。驚いたことに、あの鉄壁のポーカーフェイスを誇る浅井さんの顔が、耳の付け根まで見る見るうちに熱くなっていく。逃げ場を失い、視線を彷徨わせるその姿は、初めて見る生身の人間の反応だった。浅井さんは片手で顔を半分覆い、かろうじて声を絞り出した。
「……恥ずかしいから、勘弁してくれ。それに、身内だけのささやかな式にするんだ。お前らが来たら、まともに誓いの言葉も言えなくなる」
あからさまに狼狽し、人間味を晒したリーダーの言葉に、会議室はもはや祭り状態の沸騰を見せた。
喧騒の背後から、ひょっこりと顔を出したのは高橋さんだった。彼はこのプロジェクトの要所を支える男だが、今は仕事そっちのけで、難攻不落だった浅井さんの牙城にようやく見つけた致命的な脆弱性を逃さぬよう、獲物を見つけた狩人のような鋭い光を瞳に宿している。
「浅井さん、諦めてくださいっす。僕、社長から『現場の証人』としての潜入許可、取り付けるっすから。式の間、浅井さんの指先がどれだけ震えるか、コンマ一秒単位でログ取って皆に共有するためにね。もちろん、新婦に見惚れてフリーズした時間も計測するつもりっすよ」
「高橋、お前まで……。余計なことをするな。……ったく、仕事に戻れ。いいな! 絶対に社長に頼むんじゃないぞっ!」
浅井さんは額を押さえて溜息をついた。だが、その口元はわずかに緩み、瞳の奥には今までに見たことのない穏やかな熱が宿っているように見えた。
結局、式は親族とごく一部の親しい友人、それと社長や役職者。そしてなぜか潜入許可を得た高橋さんのみで行われることになったらしい。
浅井さんは手元のメモ帳に、動揺を隠すためだけの無意味な羅切を書き殴りながら、ふと窓の外に広がる神戸の空を見やった。
あの鉄面のエンジニアが、どんな女性と”生活”という名の設計図を描いていくのか。
俺たちは、猛烈な照れ臭さを隠しきれない上司の背中を見ながら、この後に控える過酷なデバッグ作業さえも、少しだけ前向きにこなせるような気がしていた。
【聖域を共にする親友の独白】
週明け、月曜日の朝。
教職員が揃う定例の職員会議は、淡々と事務連絡が消化され、終盤に差し掛かっていた。
窓の外からは朝練でグラウンドを走る生徒たちの活気ある掛け声が聞こえてくる。私は隣の席で、少し前からどこか浮ついたような、それでいて覚悟を決めたような横顔を見せている詩織を、それとなく観察していた。
議長を務める教頭が一度言葉を切り、前方の中央に座る校長へと目配せをした。校長はいつもの穏やかな笑みを浮かべて頷くと、ゆっくりと立ち上がり、眼鏡の奥の瞳をいっそう和らげて口を開く。
「瀬戸先生、少し前へ」
不意に名前を呼ばれ、詩織の肩がピクリと跳ねた。私は心の中で「いよいよだね」と彼女にエールを送る。職員室中の視線が集中する中、彼女は緊張を隠しきれない様子だったが、それでも吸い寄せられるように会議机の正面へと歩み出た。
詩織は何度も指先でブラウスの裾を整えたり、髪を耳にかけたりしている。その頬は、初夏の陽射しをそのまま吸い込んだかのように、綺麗な朱色に染まっていた。
校長は、居並ぶ教師たちの顔を見渡してから、朗らかな声で告げた。
「最後に、嬉しい報告があります。美術科の瀬戸先生が、この度、かねてよりお付き合いされていた方と入籍されることになりました」
その瞬間、会議室の空気は一変した。
一時の呆然とした静寂ののち、驚きと祝福、そして少しの羨望が混ざり合ったどよめきが沸き起こる。
真っ先に「おめでとう!」と声を上げたのは、いつも彼女を娘のように気にかけていた学年主任だった。それに続くように、周囲の女性教諭たちが一斉に喝采を送る。以前、校門前であの彼が彼女を迎えに来たドラマチックな光景を目撃していた者たちの間では、もはや確実な噂として流れていたけれど、こうして校長から正式に発表されると、やはり感動の重みが違う。
祝福の嵐が一段落したところで、詩織は意を決したように顔を上げ、背筋をピンと伸ばして周囲を見渡した。
「ありがとうございます。あの、それから、皆様。結婚した後も、しばらくは今のまま教職を続けさせていただくつもりです。まだ教えたいことも、生徒たちと一緒に作り上げたい時間もたくさんありますから。名字は変わりますが、これからも変わらず、美術教師としてこの学校で精進いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
その凛とした、それでいて幸せに満ちた決意を聞いて、学年主任が力強く頷いた。
「それは心強い。瀬戸先生がいなくなると、美術部はもとより、うちの学年から彩りが消えてしまうからね。公私ともに充実させてこそ、より深い感性の指導ができるというものだわ」
すると、教頭が周囲の騒ぎを軽く嗜めるように、再び口を開いた。
「式の準備などで、今後、年休をいただくこともあるかと思います。直近の行事予定についても、各教科、ならびに学年での連携を密にお願いしたい。……それと瀬戸先生。これ以上、校門前で生徒たちの下校を妨げるようなドラマチックな光景は、なるべく控えていただきたいものですな。警備員から『目が離せなくて仕事にならない』と、また小言を言われてしまいますから」
職員室にどっと温かい笑いが沸き起こる。
詩織は深々と頭を下げながら、ようやく唇の端に、小さくだが幸せそうな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。……公私ともに精進しますので、よろしくお願いいたします」
会議が終了し、それぞれが教科の準備や教室移動のために席を立ち始める喧騒の中、私は真っ先に詩織の隣へ滑り寄った。
対外的には同僚の瀬戸先生として振る舞いつつ、「緊張してたわね」と、私が揶揄うように言うと、詩織は困ったように眉を下げて視線を泳がせた。
「本当に良かったわね、詩織。今日くらいは自分を褒めて、自慢していいのよ。結婚しても仕事を続けるって、あの彼なら間違いなく全力で背中を押してくれるんでしょ?」
詩織は照れ隠しに私の肩を軽く小突いてきた。
独りで色彩を追っていた彼女が、今はそのキャンバスの向こう側に、誰よりも真っ直ぐな、あの人を感じている。
(さて、私も授業に行かなくちゃ)
詩織は出席簿を大切そうに胸に抱き、少しだけ浮き立つような足取りで、光の差し込む廊下へと踏み出した。その後ろ姿を見送りながら、私は彼女の新しい門出に、心からの拍手を送った。
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