第71話 重役たちの家庭事情 ~陽斗視点~
分散開催される花火大会も、ついに四日目を迎えた。
初日の詩織との穏やかな時間、二日目の親同士の賑やかな会合、三日目の美術部員たちの喧騒。それらを乗り越え、おもてなしシステムは連日のフル稼働によってオーバーヒート寸前である。
だが、今日からは本当の正念場。会社の上層部であり、実は三兄弟でもある重役たちを、その奥様方と共に迎えるという、今期最大級の重要ミッションが控えている。
「陽斗さん、そんなに固くならないで。大丈夫、私がついているわ。お酒の準備も万全なんだもん」
リビングで準備を整える詩織が、少し強張った俺の肩を優しく叩く。彼女の落ち着いた微笑みだけが、今の俺にとって唯一の安定したサーバーのような存在だった。
俺は、あの日社長室で見た三兄弟の悲壮な顔を思い出し、システムエンジニアとしての情報収集能力をフルに活用していた。次男である専務が密かに愛飲している希少な山形の純米大吟醸、そして三男の常務が「これ以外は認めない」と公言しているアイラ島のシングルモルト。それらを事前にリサーチし、この日のために最高のコンディションで取り寄せておいたのだ。
定刻、インターホンが鳴る。俺がドアを開けると、そこには所在なげな顔をした専務と常務、そして気品漂う奥様方が立っていた。
「いらっしゃいませ。本日は我が家へようこそお越しくださいました」
俺が丁寧にお辞儀をして顔を上げると、恵美子さんと真理子さんの動きが同時に止まった。二人は吸い寄せられるように俺の顔を凝視し、それから弾かれたように顔を見合わせた。
「まあ。……ちょっと、恵美子さん。お義姉さんが言っていたこと、本当だったわね」
「ええ、真理子さん。話半分に聞いていたけれど、これは想像以上だわ。ねえ貴方、浅井さんってこんなにお顔立ちが整っていたの? 社内報の不鮮明な写真じゃ、この輝きは全く伝わっていないわよ」
恵美子さんはそう言うと、お上品に口元を抑えながらも、値踏みするように俺を上から下まで眺めた。その視線には、隠しきれない好奇心と、おばちゃん特有の熱っぽさが混じっている。
「失礼するよ、浅井くん。……済まないね、家内たちが。君の顔があまりに良いものだから、少々興奮しているようだ」
専務が苦笑いしながら割って入ると、恵美子さんがパッと表情を明るくして詩織の方を向いた。
「詩織さん、初めまして。主人がいつもお世話になっております。義姉の美智代さんから『それはもう可憐な奥様よ』とは伺っていたけれど、お二人並ぶとまるで絵画かドラマのワンシーンのようね。目の保養どころか、心臓に悪いわ」
真理子さんも深く頷きながら、詩織の手をそっと取った。
「本当にそうね。美智代さんが『お手本のような美男美女』と自慢していた理由が今ようやく分かったわ。浅井さんが大切にされている理由も、この並びを見れば一目瞭然。美男美女って、見ているだけで寿命が延びそうな気がするわね」
奥様方の直球かつ熱烈な称賛に、詩織が「まあ、そんな。社長夫人には勿体ないお言葉をいただきまして」と頬を染める。その初々しい反応に、恵美子さんと真理子さんは顔を綻ばせ、慈しむような眼差しで目を細めた。
リビングへと案内すると、専務と常務は奥様方の顔色を伺いながら、慌てて風呂敷を解いた。
「これ、私たち二人で分担して作ってきたの。お口に合うか分からないけれど、食べてちょうだい」
重箱の蓋が開けられた瞬間、食欲をそそる香りが広がる。彩り鮮やかな煮物、手間暇かけられたことが一目でわかる出汁巻き卵。熟練の技術を感じさせる逸品ばかりだ。
夜空に最初の一発が打ち上がる。
ドン、と山肌に反響する重低音がリビングの窓を揺らした。ハーバーランドの夜空に、黄金色の枝垂れ柳がゆっくりと広がっていく。
「……なんて綺麗なのかしら」
恵美子さんが感嘆の声を漏らす。窓の外、漆黒の海を背景に、光の粒が宝石を散りばめたように降り注ぐ。その輝きがリビングの壁や豪華な重箱を鮮やかに彩る。
「浅井くん、この煮物は出汁を取るだけで丸一日かけているんだ。真理子義妹さんが担当したこの出汁巻きも、卵の選定からこだわったそうでね」
常務も横から深く頷く。
「そうなんだ。真理子も、昨夜は遅くまで台所に立っていた。……いや、その姿を見ていたら、あの日社長室で頭を下げて本当に良かったと思ったよ」
俺は取り寄せたばかりの純米大吟醸を専務のグラスに注いだ。
「おや、これは。私の好きな銘柄じゃないか」
専務の顔が輝いた。常務にも琥珀色のアイラ・モルトを差し出すと、「私の好みを完全にトレースしているじゃないか」と驚愕の声を上げた。
俺は奥様方の料理を一口いただいた。
(……美味すぎる。演算不可なレベルの美味さだ)
詩織も「なんて美味しいんでしょう。この隠し味は何かしら」と目を輝かせている。
「あら、嬉しいわ。いつでも教えに伺うわね」
恵美子さんが微笑み、詩織と料理の話題で盛り上がり始めた。専務と常務は、花火よりも奥様方の機嫌が良くなったこと、さらに自身の愛好する酒が用意されていたことに心底喜び、ようやく肩の力を抜いて笑い始めた。
――――
そして翌日、最終五日目。大トリを務めるのは、長男であり仲人を快諾してくださった社長夫妻だ。
昨日とは打って変わって、社長は手ぶらで現れた。すぐに詩織と階下までお出迎えに向かう。その社長の背後には見慣れぬ黒塗りの車が止まっている。
「浅井くん、詩織さん、お邪魔するよ。昨日は弟たちが手料理で攻めたらしいが、うちの美智代は『私は料理より、最高のご馳走を届けるわ』と言い出してな」
社長が苦笑いしながらリビングに入ると、しばらくして老舗料亭の料理人たちが出来立ての会席料理を運んできた。陽斗のマンションのリビングが、一瞬にして高級料亭の個室へと書き換えられたかのような錯覚に陥る。
「浅井さん、詩織さん。今日は花火を肴に、最高のお料理を楽しみましょう」
社長夫人の美智代さんの気品溢れる言葉に、俺と詩織は圧倒されながらも、運ばれてくる繊細な味の数々に舌鼓を打った。俺は、社長がかつて「人生の節目にはこれだ」と語っていた、最高級ヴィンテージ・シャンパンのボトルを抜いた。
「ほう。浅井くん、これを用意していたのか。今日のこの日にこれほど相応しい酒はないな」
社長の満足げな笑みが、黄金色の泡と共に弾ける。
「青崎様、今日は本当にありがとうございます。こんなに素晴らしいお料理をいただけるなんて」
詩織が感動した面持ちで礼を述べると、美智代さんが優しく彼女の手を包み込んだ。
「いいのよ、詩織さん。あの日、主人があまりに必死な顔で『浅井くんの家に行きたい』なんて言うものだから。でも、こうしてあなたたち二人の幸せそうな姿を見られて、私も本当に嬉しいわ。恵美子さんや真理子さんにもね、『浅井さんのところの詩織さんは本当に素敵な方よ』と伝えておいたのよ。もちろん、旦那様の陽斗さんがどれほどの男前かも含めてね。みんなに自慢したくなっちゃうくらいなんですもの」
「美智代夫人にそう仰っていただけるなんて、光栄です」
フィナーレを飾る花火が打ち上がる。
視界の端から端までを埋め尽くさんばかりの特大の『千輪菊』が、時間差で次々と鮮やかな極彩色に変化していく。その圧倒的な光の奔流は、窓ガラスを通じて肌にまで熱を伝えるかのようだ。
空を埋め尽くす光が、料亭の器を照らし出し、シャンパングラスの中で踊る気泡を虹色に染め上げる。
「浅井くん、見ておけ。この一瞬の輝きのために、裏では膨大な計算と準備が行われている。システム開発と同じだ」
社長は満足げに腕を組み、夜空を焦がす火の花を見つめている。
美智代さんは詩織と楽しげに談笑し、時折上がる歓声に瞳を輝かせている。彼女は詩織の手を取り、「何か困ったことがあったら、いつでも私に言ってちょうだいね」と優しく微笑みかけていた。
五日間におよぶ花火接待。
始まった当初は、静寂な夜を死守できなかったことに落胆もしたが、こうして大切な人たちの笑顔がリビングに溢れているのを見ると、これ以上ない最適解だったのだと思えてくる。
「陽斗さん、本当にお疲れ様。完璧なホストだったわよ」
最後のお見送りをして、静まり返ったリビング。詩織がそっと俺の手を握った。
窓の外では、花火大会も終わり、いつもの静かな神戸の夜景が戻っていた。
俺は、ようやく訪れた二人きりの静寂の中で、残った冷たいシャンパンを一口含み、彼女に優しく微笑みを返した。
俺の計算を遥かに超えた賑やかな夏は、最高の充足感とともに静かに幕を閉じた。
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