第69話 特等席の招待状 ~詩織視点~
本格的な夏の足音が聞こえ始めた、七月の放課後。美術室には、古びた扇風機の首振り音と、キャンバスを叩く筆の音だけが、どこか気怠げなリズムを刻んでいた。
窓の外、遠くに見える神戸の海は、午後の強い陽光を反射して白く霞んでいる。湿り気を帯びた潮風が揺らすカーテンからは、長年染み付いた油絵具の独特な香りと、風に乗ってきた潮の香りが混ざり合って漂っている。
「ねぇねぇ、しおちゃん先生! 来週の『みなとこうべ海上花火大会』、どこで見るか決めました? 今年は五日間も分散開催されるんですよね!」
ふいに静寂を破ったのは、筆を休めた由紀ちゃんだった。パレットを置いた手で、少し額に張り付いた髪をかき上げながらこちらを振り向く。
その瞳は、夏のビッグイベントへの期待で、まるで真夏の太陽のようにキラキラと輝いている。隣で石膏像のデッサンに没頭していた香奈ちゃんも、我が意を得たりとばかりに、鉛筆を動かす手を止めて身を乗り出してきた。
「あ、もうそんな時期なのね……。うーん、実はまだ何も考えていなくて。気づいたら当日になっていそう」
「えぇーっ! もったいないですよ! 先生の実家って、王子公園の北側の住宅街ですよね? あそこなら山に近いし、以前住んでた北野のアトリエからも、遮るものなく見えたりしないんですか?」
「そうね、実家の方は落ち着いていて大好きな場所なんだけど、少し奥まっているから花火は難しいのよ。北野のアトリエも、建物に遮られて音だけが響く感じなの。山肌に反響する『ドンッ』ていう地響きみたいな音は迫力があって面白いんだけど、肝心の花火が見えないのは寂しいわね」
私が苦笑いしながら答えると、二人は顔を見合わせて、それからニヤリと確信に満ちた悪戯っぽい笑みを浮かべた。その表情には「私たちは知っているんですよ」という茶目っ気がたっぷりと含まれている。
「……先生、忘れてませんか? 私たち、一度先生のマンションにお邪魔したことありますよね。あの方角、あのリビングの大きな窓……あそこなら、絶対にハーバーランドの花火がド正面に、しかも特等席で見えるはずですよ!」
「そうですよ! もう、羨ましすぎて想像しただけで倒れそうですっ。冷房の効いた部屋で、冷たい飲み物を片手に、陽斗さんと二人きりで花火なんて。最高にロマンチックじゃないですか! それとも、もう二人だけの『予約済み』だったりして?」
二人の猛烈な勢いに圧倒されながら、私は改めて頭の中で陽斗さんの部屋からの景色を思い浮かべた。
確かに、あの高層階のマンションからは神戸の港が一望できる。ポートタワーの赤い格子、海洋博物館の白い屋根、その背後に広がる深い紺色の海。あそこなら、夜空に咲く大輪の花が、視界を遮るものなく、こちらに迫ってくるような迫力で広がるだろう。
しかし、当の陽斗さんはといえば……。
「それがね、陽斗さんはあんまり興味がないみたいで。混雑するし、テレビの生中継で十分じゃないかって言うような人だから。あの日もきっと、いつも通りに過ごすつもりだと思うわよ。彼らしいでしょう?」
「信じられない……。あんな宝の持ち腐れがあっていいんですか……。神様、浅井さんに代わって私がその窓の権利を行使したいですっ!」
由紀ちゃんが絶望したように大袈裟に頭を抱え、香奈ちゃんがそれをなだめるように肩を叩く。そのやり取りがおかしくて、私は小さく声を立てて笑ってしまった。
その時だった。手元に置いていた私のスマートフォンの通知音が小さく鳴った。画面を覗き込むと、陽斗さんからのメッセージが表示されている。
『今、美術部の由紀から直接メッセージが届いたんだが……』
その後に転送されてきたスクリーンショットの内容を見て、私は思わずその場で吹き出してしまった。
そこには、『浅井さん! しおちゃん先生から聞きました! 花火大会の日、香奈と一緒に先生のマンションに突撃してもいいですか!? あの特等席を私たちに開放してください! 一生のお願いです! 美味しいケーキ持っていきますから!』という、あまりにも勢いのある、遮る隙を与えない直談判が記されていたのだ。
「ふふっ、あはははっ! 由紀ちゃん、行動が早すぎ! 今の今、その話をしていたところなのに」
「えっ、先生!? どうしたの、急に」
「ごめんなさい、由紀ちゃん。……今、陽斗さんから連絡が来たわ。由紀ちゃん、陽斗さんに直接お願いしたんですって? いつの間に?」
私が画面を二人に見せると、由紀ちゃんは「あちゃー」とはにかみながらも、ちゃっかりとピースサインを作った。
陽斗さんからは、さらに続けてメッセージが届く。
『……これほど真っ直ぐに外堀を埋められては、もはや拒否する余地など微塵もないな。本来なら静かに過ごす予定だったが、ここまで言われては仕方がない。詩織、君が構わないと言うのなら、当日は観念して彼女たちを迎え入れることにするよ』
降参したような彼の言葉に、思わず口元が緩む。さらに、通知がもう一度跳ねた。
『それから、由紀に伝えておいてくれ。メッセージにあった美味しいケーキは忘れるな、とな。あと、花火は五日間あるから、彼女たちは三日目に来るように調整してくれ。他の日は……その、不可抗力な予定が全て埋まってしまった。帰ったら話す』
「由紀ちゃん、香奈ちゃん。陽斗さん、観念したみたい。当日、二人で来るのを許可してくれるって。ただ、花火の期間が長いから、三日目に来てほしいんですって」
「やったぁぁぁ! 三日目ですね、了解ですっ!」
「あ、でもね。陽斗さんから重要な伝言よ。メッセージに書いてあった『美味しいケーキ』は、絶対に忘れないでね、だって」
私がそう伝えると、由紀ちゃんは一瞬きょとんとした後、今度は顔を真っ赤にして笑い転げた。
「あははは! 浅井さん、しっかりチェックしてる! 任せてください、とっておきのやつ選んで持っていきますから!」
飛び跳ねて喜ぶ二人を見ていると、こちらまで元気をもらえる。賑やかにみんなで夜空を見上げるのも、今の私たちには相応しい気がした。
その日の夜。帰宅した陽斗さんは、玄関で私と目が合うなり、力なく肩を落として見せた。
「……由紀のメッセージは、まだ序の口だったよ、詩織。俺のマンションが、いつの間にか公共施設か何かのように予約で埋め尽くされているんだ」
「ええっ? 三日目の由紀ちゃんたち以外にも何かあったの?」
陽斗さんはリビングのソファに深く腰掛け、手帳を確認しながら指を折った。
「まず一日目は、ようやく確保した二人きりの時間だ。これだけは死守する。だが二日目が問題だ。……俺の母さんから連絡があってな。どういうわけか詩織のおかあさんとすっかり意気投合したらしく、俺の意見など一切聞かずに『みんなでそっちへ行くから』と事後報告を受けたんだ」
「ええっ!? おかあさんたちが? ふふっ、確かに仲良しになってたもんね」
「……三日目が由紀と香奈。そして四日目は、会社で捕まってな。専務夫妻と常務夫妻だ。祝辞や乾杯をお願いしている立場上、断れるはずもない。さらに最終日の五日目は、仲人を依頼した社長夫妻だ。……もはや俺に拒否権など存在しないよ」
陽斗さんは天を仰いだ。以前の彼なら、こんな予測不能なスケジュールの乱れに眉を顰めていたはずなのに、今の彼は「本当に仕方がない」と零しながらも、どこか誇らしげですらある。
この『特別指令』の経緯を陽斗さんに聞かされた時、お腹を抱えて爆笑してしまった。
「あははは! 陽斗さん、もう完全に接待会場のオーナーね! でも、社長さんたちも可愛いところがあるのね。奥様孝行に必死だなんて」
「笑い事じゃないぞ、詩織。当日の軽食や飲み物の手配を、ゲストの顔ぶれに合わせて最適化しなければならないんだ。だが、決まった以上は中途半端なことはできない。それぞれの日に合わせた飲み物と、彼女たちが、そして上司たちが喜びそうな軽食も用意しておく必要があるだろう。当日の動線を逆算して、完璧な準備を整えなければ」
そんなふうに、口では「やれやれ」と首を振りながらも、すでに五日間の完璧な、おもてなしのシミュレーションを始めている彼。
陽斗さんはきっと、自分の居場所で大切な人たちが笑っているのを眺めるのが、本当は一番の幸せなのだ。
数日後に迫った花火大会。
夜空に咲く花火も楽しみだけれど、この部屋で繰り広げられるであろう賑やかなひとときの方が、ずっと心に残る鮮やかな彩りになりそうな……そんな温かな予感に包まれながら、私は忙しなく準備の段取りを語る彼の隣で、優しく微笑みを返した。
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