第68話 重役たちの溜息 ~陽斗視点~
「はい。開発一部、浅井です」
デスクの隅で鳴り響いた内線電話を取り、俺は短く応じた。ディスプレイに並ぶ膨大なソースコードから視線を外さず、受話器を肩で支える。
「お疲れ様です、浅井さん。社長室秘書課です」
耳に届いたのは、温度を一切感じさせない、事務的で淡々とした女性の声だった。
「今から五分後、社長がお呼びです。すぐにこちらまでお越しいただけますか」
「……社長がですか? 承知しました。すぐに向かいます」
「ええ、他の方も同席されますので。失礼します」
こちらの返答を待たず、有無を言わせぬ調子で通信は切れた。
時計を見る。昼休憩が終わってからまだ一時間も経っていない。大規模なシステムトラブルの報告は受けていないが、社長秘書の声があまりにも無機質だったことが、かえって得体の知れない予感を加速させた。
俺はパソコンをシャットダウンし、最上階にある社長室へと向かった。
重厚な木目調のドアをノックし、室内へと足を踏み入れる。そこには社長だけでなく、専務と常務までもが応接セットに腰を下ろしていた。
まるで会社の存亡を懸けた緊急の経営会議でも始まるかのような、刺すような緊張感。俺は無意識に背筋を伸ばし、最悪の事態、つまりは、大規模なシステムダウンや、重大なセキュリティ案件の可能性を脳内でシミュレーションしながら問いかけた。
「失礼いたします。何かシステム上の致命的なトラブルでも発生したのでしょうか?」
俺の問いに、三人は顔を見合わせた。それから示し合わせたように深く、底の見えないほど重いため息を同時についた。まず沈黙を破ったのは、眉間に深い皺を刻んだ社長だった。
「いや、浅井くん……仕事の話であれば、どれほど楽だったことか。実はな、我々の家内たちが完全に結託してしまったのだよ」
社長は眼下のテーブルをじっと見つめ、何か耐えがたい屈辱を飲み込むように言葉を継いだ。
「最近、三人で会うたびに『たまには豪華な旅行に連れて行け』『仕事ばかりで家庭を蔑ろにしている』と、まるで連合軍のように攻め立ててくるのだ。浅井くんも知っての通り、今は次期基幹システムのプロジェクトが佳境だろう?」
社長はそこまで言うと、一度言葉を切って深く背もたれに体を預けた。
「長期の休暇など、今の私たちに捻り出せるはずもないのは明白なのだが、彼女たちにはそんな理屈は通用せんのだよ」
社長が苦虫を十匹ほど噛み潰したような顔で天を仰ぐと、隣に座る専務が、普段の厳しい役員の顔をどこかに置き忘れたような、情けない視線をこちらへ向けてきた。
「我々だって、夫としての責任を果たし、妻孝行をしたい気持ちはやまやまなのだよ。だが、現場がこれほど忙しい時期に、私一人だけが優雅に海外へ……なんてわけにはいかん。それを正直に伝えたら、家内の機嫌が氷河期のように冷え切ってしまってな」
専務は膝の上で組んだ手をわずかに震わせ、まるで暗闇で救いの糸を求めるように言葉を絞り出す。
「そんな折に、夕方のニュースで花火大会の告知を見かけたのだ。近場の神戸で、それも今年は五日間も分散開催されるという。これなら、遠出をせずとも少しは格好がつくのではないかと考えたのだよ」
しかし、と常務が身を乗り出した。その目には、追い詰められた男の悲哀が宿っている。
「浅井くん。君も知っての通り、あの花火大会の人混みは異常だ。我々の年齢であの雑踏の中に飛び込み、蒸し暑い中で汗だくになりながら立ち見をするのは、もはや娯楽ではなく苦行……いや、肉体的な限界を試される修行に等しい」
常務は額に浮いた脂汗をハンカチで拭い、切実な声で言葉を重ねた。
「せっかくの埋め合わせのつもりが、人混みに酔って疲労困憊で終わってしまっては、かえって火に油を注ぐことになりかねん。なにか、人混みを避けつつ優雅に鑑賞できる名案はないかと三人で頭を抱えていたんだが……」
そこで常務は一旦言葉を切り、意を決したように、俺の目を見つめた。
「……ふと思い出したのだよ。以前、家庭訪問と称して君のマンションに伺った時の、あの言葉を失うほど素晴らしい眺望をね」
三人の視線が一斉に俺に集中する。その圧力は、数億円規模の予算承認会議よりも遥かに重苦しかった。
「あそこなら、冷房の効いた快適な部屋で、妻たちも満足して大輪の花火を楽しめるはずだ。人波に揉まれることもなく、冷えた飲み物を片手にゆったりと夜空を眺める……。そんな贅沢な体験をさせてやれれば、家内たちの凍りついた機嫌も少しは解けるのではないかと。浅井くん、厚かましくも考えてしまったのだよ」
次の瞬間、俺は自分の目を疑った。
この会社の意思決定権を握り、千人以上の社員を牽引する三人の重役が、示し合わせたように応接テーブルの天板に額を擦りつける勢いで、深く、深く頭を下げたのだ。
「浅井くん、この通りだ! 本当に、本当に申し訳ないと思っている! 公私混同も甚だしく、君のプライバシーを侵害する願いであることは重々承知している!」
必死な声を上げたのは社長だ。続いて専務も、テーブルに額を押し付けたまま、なりふり構わず叫ぶ。
「浅井くん、君だけが我々の救いなのだ! このままでは、私の今年の夏休みは家から追い出されるか、食卓に私の皿が並ばなくなるかの二択になってしまう。君のマンションという名の『救助船』に、我々夫婦を乗せてはもらえないだろうか!」
さらに常務までが、絞り出すような、今にも泣き出しそうな声で続けた。
「君の婚約者……詩織さんにも、どうか平に、心の底から低頭してお詫びすると伝えてくれ! 決して職権乱用で無理強いするつもりはないと言いながら、こうして無理を言っている自分が情けないが、我々にはもう後がないのだ……!」
板張りのテーブルに額が当たる微かな音が、静まり返った社長室に虚しく響く。
仲人を依頼した社長。祝辞を頼んでいる専務。さらに乾杯の音頭を託している常務。
これほどの重鎮たちが、一介のシステムエンジニアに対して、会社での威厳も立場もかなぐり捨てて必死に懇願している。
もはやこれは業務上の指示ではなく、人生における『回避不能な最高難度クエスト』であり、同時に絶対に断ることのできない、崖っぷちに立たされた男たちの魂の叫びであろう。
「……分かりました。皆様には日頃から、公私ともに多大なる御配慮をいただいております。皆様の家庭の平和を守ることが、結果として弊社の業務円滑化に繋がるのであれば、喜んでお引き受けいたします。ですから、どうか頭を上げてください」
「本当かね!? 助かるよ、浅井くん! 君は我が社の、いや、我々個人の恩人だ!」
社長が弾かれたように顔を上げた。続いて専務と常務も、巨額のプロジェクトを受注した時以上の心底救われたという安堵の表情を浮かべる。その目には心なしか、感謝の色すら浮かんでいるように見えた。
「ただし、いくつか条件がございます。皆様一度に来られては、私のマンションの床の積載荷重的な問題はさておき、婚約者の詩織が気疲れしてしまいます。幸いにも、分散開催される五日間の日程がございますので、分けてお越しいただけないでしょうか」
「もちろんだとも! 負担は最小限にする。こちらの勝手すぎる願いを叶えてもらえるのだから、スケジュール管理は全面的に君に一任しよう。食事や飲み物の用意も、君の手を煩わせないようこちらで手配しても構わない!」
俺の提案に、三人は口を揃えて快諾した。
その結果、四日目には専務夫妻と常務夫妻。そして最終日の五日目は、大トリとして仲人の社長夫妻をお迎えすることに決定した。
(……やれやれ。これで五日間のうち、四日までが確定してしまったな)
残る二日目には、すでに俺の母と詩織の両親が来る予定になっている。どうやら俺の母が詩織の母親とすっかり意気投合してしまったらしく、俺の意見など一切聞かずに、親睦を深める絶好の機会だと誘ってしまったのだ。
こうなれば、初日の第一日目だけは、何としても死守しなければならない。システムエンジニアとしての全リソースを注ぎ込み、一日目だけは詩織と二人きり、誰にも邪魔されない穏やかな時間の中で花火を眺める時間を、鉄壁のファイアウォールで守り抜くことを心に誓った。
俺は、忙しなく当日の詳細なタスクリストとタイムスケジュールを脳内で構築し始めた。
穏やかな花火大会を望んでいたはずの俺の夏は、どうやら想像以上に賑やかで、そして本当に仕方がない幸せに満ちたものになりそうだった。
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