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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
最終章 砦の朝

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閑話 精密機械の停止と最強の守護者 ~社内視点~

 ポートアイランドに拠点を構える、そのIT企業の開発フロア。いつもであれば、始業のチャイムが鳴り響くと同時に、フロアの最奥にあるデスクから主が叩き出す正確無比な打鍵音が周囲を鼓舞するはずだった。

 しかし、その日の朝は、未だに経験したことのない重苦しい沈黙と動揺に包まれていた。


「おい、高橋。これ、見間違いじゃないよな? 俺の目か脳のどちらかが、致命的なバグを起こしているのか?」

 

 開発部の部長が、自席のモニターに映し出された一通の通知を凝視したまま、絞り出すような声を上げた。眼鏡を外し、レンズを念入りに拭いてから三度目の確認を終えても、そこに表示された文字列は変わらない。その驚愕に満ちた呟きに、周囲の社員たちが一斉に顔を上げる。


「部長、どうしたんすか? 朝からそんな、修復不能なクリティカル・バグでも見つけたような顔して」

 

 浅井陽斗を師と仰ぎ、誰よりもその背中を追い続けてきた後輩の高橋が、コーヒーカップを片手にデスクへ近づいてきた。


「高橋、これを見ろ。……浅井君からだ。()()の連絡が入っている」

 

 その言葉が発せられた瞬間、フロアの空気が文字通り凍りついた。カタカタと響いていた周囲のタイピング音がピタリと止まり、全員が部長のデスクを注視する。


「……えっ? 今、なんて言ったんすか? 浅井さんが、病欠?」

 

 高橋の手からコーヒーカップが滑り落ちそうになった。


「あの、部長。悪い冗談はやめてほしいっす。浅井さんっすよ? 前の会社から数えても、僕、あの人が風邪どころか、鼻を啜っている姿すら見たことないんすから! 精密機械が知恵熱出すようなもんじゃないっすか!」


「そうは言ってもだな、本人からの正式なメールだ。『昨夜からの高熱により、本日は欠勤いたします』だと。あの浅井君が、自分の体調管理に失敗して休みを願い出るなんて……。天変地異の前触れか、あるいは世界がひっくり返る予兆か」

 

 部長が困惑したように頭を抱える中、その衝撃的なニュースは瞬く間にフロア中を駆け巡った。午前中の業務中も「あの浅井さんが三十九度の熱で倒れた」という噂でもちきりになり、誰もが「あの無敵のエンジニアも、やはり血の通った人間だったのか」と、どこか安堵に近い奇妙な感慨に浸っていた。



――――

 昼休みが終わり、午後の始業を告げるチャイムが鳴り響いた直後のことだ。


「部長! ちょっと、これを見てくださいっす! 大変なことになってるっす!」

 

 高橋が血相を変えて、再び部長のデスクに駆け寄った。


「なんだ、今度はなんだ? サーバーでもダウンしたか?」


「それより深刻っすよ! 共有フォルダのプロジェクトログを見てください! タイムスタンプを! ……つい五分前っすよ。しかも、今朝の時点では未着手だった重要バグの修正案と、僕たちメンバー全員への詳細な指示書が、一気に更新されてるんす!」


「……馬鹿な。浅井君は三十九度の熱で寝込んでいるはずだろう?」

 

 部長が画面を凝視し、絶句した、まさにその時だった。


 

「よう、部長。午後の進捗はどうだ? 今日は例の新プロジェクトの詰めだろう。浅井君の完璧なプレゼンを聞きに来てやったぞ」

 

 フロアの入り口から、低く活力に満ちた声が響いた。社員たちが一斉に背筋を伸ばし、最敬礼に近い形で道を作る。現れたのは、この会社を牽引する三兄弟である社長、専務、常務の三人だった。


「ああ、社長。それに専務、常務も……。それが、大変申し上げにくいのですが、浅井が本日、病欠でして」

 

 部長が恐縮しながら報告した。


「「「はぁ? 病欠? あの浅井君が?」」」

 

 三人の重鎮たちの声が、見事なまでに重なり、フロア中に響き渡った。あまりの驚きに、三人は同時に足を止め、互いに顔を見合わせる。


「専務、常務、今のを聞いたか? あの浅井君が病欠だと?」

 

 社長が信じられないといった面持ちで問いかけると、部長が慌てて補足した。


「ええ、それが……今朝、高熱で休むと連絡があったのですが、先ほど、共有フォルダに彼からの修正指示が上がってきたのです。タイムスタンプは五分前です」


「なんだと? 休んでいる最中に仕事をしたというのか?」

 

 社長は驚き、即座に自身のスマートフォンを取り出した。


「……ふむ。ならば、浅井君の【天敵】に連絡をして確認してみるか」

 

 その言葉と共に、社長の脳裏には数ヶ月前の光景が浮かんでいた。彼らは以前、家庭訪問と称して陽斗の家に押しかけた際、瀬戸詩織という芸術家の才能に惚れ込み、同時に陽斗の一番の理解者であり、そして彼が一番頭の上がらない女性として彼女に絶大な信頼を寄せていたのだ。その折、社長自ら彼女と連絡先を交換していたのである。


 プルル、という呼び出し音が数回。スピーカーフォンに切り替えられた端末から、柔らかな詩織の声が響いた。


『はい、瀬戸です。あ、社長さん。ご無沙汰しております。なにか、ございましたでしょうか?』


「瀬戸さん、急に済まない。浅井君の具合はどうかな? 実は今、会社に彼から仕事のログが届いたんだが……」

 

 社長の言葉が終わるか終わらないかのうちに、電話の向こうから、クスッという、どこか艶やかでいて氷のように冷たい吐息が漏れた。


『……ふふ。やはり、届いてしまいましたか。社長さん、ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、もう安心してください。今しがた、彼から『武器』は全て没収いたしましたから』

 

 詩織の声は、春のそよ風のように穏やかだった。だが、その背後に潜む『審判』としての圧倒的な熱量を、スピーカー越しでもフロアの全員が肌で感じていた。


「なに、没収したって?」

 

 社長が問い返すと、詩織は少しだけ声を弾ませて続けた。


『はい。買い物から戻りましたら、寝室に彼の姿がなくて。おかしいと思って探しましたら、なんとトイレに立てこもって、クローゼットに隠していたタブレットで必死にコードを書いていたんです。三十九度の熱があるというのに、本当に困った人でしょう?』

 

 詩織は、彼を追い詰めた際の一部始終を語り始めた。

 カチカチと響くペンの音を捉えたこと。

 扉の前で仁王立ちになり、出てきた彼が腰を抜かさんばかりに驚いて、無様にタブレットをジャグリングしていたこと。

 そして、彼女の『微笑み』を前に、彼が震える手で全面降伏の儀式として端末を差し出してきたこと。


 その光景が手に取るように伝わってくると、社長はもはやこらえきれず、腹を抱えて笑い出した。


「ハ、ハハハハ! あーっはっはっは! 瀬戸さん、最高だ! いや、済まない、腹が痛い……!」

 

 社長はあまりの可笑しさに、全社員が見守る前で、涙を浮かべながらデスクを叩いて爆笑した。


「いい、最高だ! あの浅井君がウイルスに感染した挙句、瀬戸さんの目を盗んでトイレに逃げ込み、必死にタブレットを叩いているところを、一番怖い人間に現行犯で押さえられるとは! あの完璧主義の檻が、今度は風邪菌と彼女の『微笑み』に完全制圧されているじゃないか! ああ、目に浮かぶようだ、あの無様なジャグリングが!」


 社長の爆笑に釣られ、専務も常務も、口元を抑えながら肩を震わせている。フロアの社員たちも、あの無敵の浅井陽斗が家庭内で完敗を喫している様子を想像し、口々に漏れる笑いを堪えきれずにいた。


「最高だ、瀬戸さん! 今、全社員が君の徹底した看病に敬意を表しているよ。浅井君には、私からも『社長命令により、本日は一切の思考を停止せよ』と伝えておいてくれ。あとのことは全て、君に任せた。……いや、もう私の出る幕などなさそうだがな!」


『はい。承知いたしました。今はもう、私の監視下でおとなしく眠っております。……二度と、私の許可なく画面を開くことはさせません。きっちりとお灸を据えておきますので、ご安心ください』

 

 詩織のその言葉には、どのような論理も跳ね除ける、絶対的な守護者としての意思が宿っていた。


「ああ、頼んだよ。失礼する」


『はい。ご心配をおかけいたしまして、申し訳ございませんでした。失礼いたします』

 

 通話が切れた後も、社長は目尻の涙を指で拭いながら、しばらく笑い続けていた。


「よし、これで浅井君の逃げ道は完全になくなったな。あの娘の、剥き出しの命のような熱量なら、浅井君のどんな高度なロジックも一瞬で焼き尽くしてくれるだろうよ」


「社長の仰る通りですよ。今頃は、あの微笑みの前で、最新型のデバイスもろとも完全に制圧されているに違いない。専務、そう思いませんか?」

 

 常務が問いかけると、専務は眼鏡を指先で上げ、満足げに微笑んだ。


「ええ、常務。浅井君の仕事への忠誠心は今さら疑うべくもありませんが、今の彼に必要なのは休息ですからね。……社長、これは披露宴の祝辞の内容に、『不屈の精神(ただし、パートナーの目を盗んで仕事をする場合に限る)』という一節を書き足さなければなりませんな」


「ハッハッハ、その通りだ! 部長、浅井君には正式に伝えておけ。『完治するまで全システムへのアクセスを禁ずる。もし違反した場合は、瀬戸さんに追記の権限を与える』とな!」


 三兄弟は賑やかに、そして実に上機嫌な様子で役員室へと引き上げていった。主を失った開発フロアでは、高橋が、陽斗の執念のログを拝むように開き、作業に取り掛かろうとしていた。


 その頃、当の陽斗が、詩織の瞳の笑っていない微笑みを前に、どのような論理的弁明も通じない、人生最大の仕様変更に直面していることなど、会社の誰もが確信し、そして微笑ましく見守っていた。

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