第67話 微笑みの審判 ~詩織視点~
叩きつけるような雨がアスファルトを打ち据える音が、ポートアイランドの静かな住宅街に響き渡っている。
陽斗さんをベッドに沈め、少しでも栄養をつけてもらおうと、私は激しい雨の中を近所のスーパーマーケットへ走った。海風は容赦なく体温を奪い、傘を差していても足元がずぶ濡れになるほどだったが、そんな不快感など少しも気にならなかった。重い病人のために消化にいい食材や、熱を奪う冷却シート、それから彼が少しでも口にできそうな果物を慎重に選び、一分一秒でも早く彼の側に戻ることだけを考えて、私はマンションへと引き返した。
あの生真面目すぎる人のことだ。私がいない隙を見計らって、何か無茶をしていないだろうか。胸の奥をざわつかせる嫌な予感を振り払うように、私は重い買い物袋を抱えて玄関の鍵を開けた。家の中に入った瞬間、私を待っていたのは、妙に静まり返った、不自然なほどの静寂だった。
急いでキッチンに荷物を置き、濡れた上着を脱ぐのももどかしく、私は寝室へと足を向けた。
「陽斗さん、ただいま戻りました……」
声をかけながら扉を開けた先に広がる光景は、私が出かける前とは明らかに異なっていた。
丁寧に整えておいたはずの掛布団は乱雑に跳ね除けられ、そこに横たわっていたはずの陽斗さんの姿が忽然と消えている。枕元に置いておいた飲み物も手付かずのままだ。
(……陽斗さん?)
心臓が嫌な跳ね方をした。
三十九度を超える高熱だ。あの状態でふらふらと立ち上がり、どこかで意識を失って倒れているのではないか。床に崩れ落ち、熱に浮かされながら助けを呼ぶこともできずにいる彼の姿を想像し、私は血の気が引くのを感じながら、家中を必死に探し回った。
リビング、洗面所、浴室。どこにも彼の姿はない。最後に辿り着いたのはトイレ。そのトイレの扉が固く閉ざされていることに気づいた。
「陽斗さん? 大丈夫ですか? そこにいるの?」
扉を叩こうとして、私はその寸前で呼吸を止めた。
密閉された空間の奥から、極めて微かな、しかし規則的な音が漏れてきたからだ。
カチッ、カチッ、カチッ、カチッ……。
それは、美術教師である私が図案を作成する際にも聞き慣れている、タブレット専用のタッチペンが液晶画面を叩く独特の硬質な音。陽斗さんが緻密なロジック図を描き出し、集中してペンを走らせる際のリズムだった。普段、仕事机に向かっている彼が放つ、あの研ぎ澄まされた集中力の残滓が、こんな場所から漂ってきている。
(……この期に及んで、まだ諦めていなかったのね)
心配で張り裂けそうだった胸の奥が、急速に別の熱量へと塗り替えられていく。
彼は巧妙に機会を伺っていたのだ。私が買い物に出るのを手ぐすね引いて待ち構え、クローゼットの奥かどこかに隠していたタブレットを、私の監視の目を盗んでトイレという個室へ持ち込んだに違いない。
エンジニアとしての責任感。それは彼の美徳であり、彼を彼たらしめる誇りでもある。しかし、今の私にとっては、徹底的に排除すべき不純物でしかない。
私は、扉の目の前で仁王立ちになる。
腕を組み、足元をしっかりと踏みしめる。怒りと呆れ、そして彼をそこまで追い詰めている仕事という怪物への憤りを、その立ち姿に凝縮させた。彼が言い逃れなど一切できないように、私は無言の圧力を全身から放ちながら、その『脱獄囚』が現れるのをじっと待つことに決めた。廊下の冷気が肌を刺すが、私の中の熱い感情がそれを撥ね退けていた。
やがて、中での操作音がぴたりと止まった。
観念したのか、あるいは一通の送信を終えたのか。カチャリと内側から鍵が開く音がして、ドアがゆっくりと、恐る恐るという形容が相応しい速度で、数センチずつ開いていく。
そこには、額に脂汗を浮かべ、今にも膝から崩れそうなほどに青ざめた陽斗さんが立っていた。
彼は、目の前に壁のようにそびえ立つ私の姿を認めた瞬間、文字通り、飛び上がらんばかりに肩を震わせる。
「ひっ……!? あ、あ、詩織……!?」
いつもなら、どんな緊急障害が発生しても眉一つ動かさず、論理的に最適解を導き出すシステムエンジニアだ。しかし、今の彼は、この世の終わりでも目撃したかのように大きく目を見開き、呼吸を激しく乱している。あまりの衝撃に、指先の力が完全に抜けたのだろう。手に持っていたタッチペンが床に落ち、カランと虚しい音を立てて転がった。
「あ、あわわ……」
陽斗さんは慌ててそれを拾おうとして屈み込んだが、高熱による眩暈に襲われたのか、たたらを踏んで壁に肩をぶつけた。そのまま小脇に抱えていたタブレットを滑り落としそうになり、無様に腕の中でジャグリングするように何度も持ち直す。その必死で、かつ余裕の欠片もない様子が、かえって彼の下心を雄弁に物語っていた。
「……陽斗さん?」
私はこれ以上ないほど、穏やかで透き通った声を出した。
陽斗さんは、あまりの動揺に足をもつれさせ、今度はトイレの反対側の壁に背中を強く打ち付けた。ドン、という鈍い音が廊下に響く。彼の中に構築されていた鉄壁の論理的な防御壁は、今この瞬間の状況を解析できず、完全にフリーズしてシステムダウンを起こしているようだった。
「……あ、いや。これは、その……。あ、悪かった。違うんだ。つい、一箇所だけ、どうしても確認しておかないといけないコードがあって……。一分、いや、三十秒で終わる予定だったんだよ。本当に、すぐ戻るつもりだったんだ」
掠れた声で、彼は支離滅裂な弁明を始めた。語尾が震え、視線は泳ぎ、額からは熱によるものか冷や汗なのか判別不能な滴が絶え間なく流れ落ちている。いつもなら隙のないスーツを完璧に着こなす彼が、今は寝癖のついた髪で、よれよれのパジャマ姿で、私に追い詰められている。
彼はタブレットを背中の後ろに隠そうとしたが、あまりの指先の震えに、再び画面が露わになってしまった。そこには、複雑なシステム構成図と修正指示のログが、非情にも表示されたままだ。
私は無言で、ふわりと、最大限の親愛を込めて微笑んでみせた。
慈愛に満ちた、絵に描いたような美しい微笑み。だが、その瞳だけは一切笑わずに、有無を言わせぬ圧力で彼の全存在を射抜く。美術教師として、言うことを聞かない生徒を教壇から見据える時よりも、ずっと深く、逃げ場のない視線を彼に固定した。
「言葉は必要ありませんよ、陽斗さん。倒れているのではないかと死ぬほど心配しましたが、どうやらペンを走らせる元気だけは余っていたようですね。せっかく引いたはずの熱が、また上がってしまったのではないかしら。……それとも、そのタブレットは熱を冷ますための新しい冷却器具なのかな?」
私の声は、春のそよ風のように柔らかい。しかし、その背後に潜ませた圧力は、物理的な質量を伴って彼を押し潰そうとしていた。
陽斗さんは、もはや言い返す言葉も見つからないようで、引き攣った笑みを浮かべたまま完全に固まっている。彼は絶望したように目を閉じると、震える指先でタブレットを私のほうへ差し出した。それは、エンジニアとしての誇りさえも投げ出した、全面降伏の儀式だった。
「没収ね」
私は彼の指先から、熱を帯びた機械を優しく、しかし拒絶を許さない力強さでグイっと抜き取る。
彼はもはや、立っているのが精一杯のようだった。私の微笑みが放つ圧倒的な”圧”に押されるようにして、ふらふらと大人しく寝室へと戻っていく。その歩調は、先ほどの逃亡時のものとは比べものにならないほど、力なく項垂れたものだった。
再びベッドに横たわった陽斗さんは、もはや私と目を合わせようとはしなかった。
私は彼の枕元に、買ってきたばかりの冷却シートを、少しだけ強く、だけど丁寧に貼り付ける。先ほど、没収したタブレットを私の腕の中にしっかりと抱え直し、二度と彼の手に渡らぬよう、リビングの奥深くに隠すことを心に決めた。
「……悪い。本当に、面目ない。詩織が怒るのも当然だよな。……ごめん」
布団から漏れた小さな、震える呟きに、私はすぐには返事をしなかった。
代わりに、彼の熱い手を、私の両手でそっと包み込んで温める。
この人は、どれほど論理を積み重ねても、自分の命の尊さという最も単純な真理を、仕事という優先事項の前で見落としてしまう。
「陽斗さん。貴方が次にこの画面を開けるのは、その頬の赤みが完全に消えて、私の許可が降りた時です。それまでは、私の監視下で、ただの陽斗さんとして眠りなさい。……いいですね?」
「はい」
私は彼の耳元で囁き、さらに深く、慈愛に満ちた微笑みを上書きした。
窓の外を叩く雨は、彼が不必要な責任を背負い込むのを拒むように、より一層激しく降り続いていた。彼の荒い吐息が次第に穏やかなものに変わっていくのを見届けながら、私は夜が明けるまでその場を離れず、彼の眠りを守り続けることを決めていた。たとえ明日、彼がどんなに仕事をしたいと懇願しても、私の『微笑み』という名の審判が下ることはないのだから。
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