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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
最終章 砦の朝

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第66話 精密機械の誤算 ~陽斗視点~

 オフィスのフロアを支配する沈まり返った空気は、二十時を過ぎるといっそう重みを増す。天井の蛍光灯が放つ無機質な白い光が、誰もいなくなった開発部の机を等間隔に照らしていた。カタカタと響くキーボードの打鍵音だけが、この空間に命が通っている唯一の証だ。


(……よし。これで、明日の朝には正常に動くはずだ)


 俺は最後の一行を書き加え、エンターキーを静かに叩いた。画面上で流れるログを確認し、不適切なメモリエラーが消えたことを見届ける。これは俺の担当箇所ではない。数日来、若手社員が頭を抱えていたロジックの不備だ。彼は「原因が分からない」と今にも泣き出しそうな顔をしていたが、コードを丁寧に追えば、例外処理の些細な見落としであることは明白だった。


  わざわざ恩を着せるつもりはない。明日の朝、彼が自分の過ちに気付き、それを自力で修正したという形になればそれでいい。システムが完璧に動くことこそが、エンジニアとしての俺の至上命題なのだから。

 席に修正箇所の特定方法と修正内容を記載し、机の上に置いておく。若く経験の少ない社員によくあることだが、往々にして一か所のみを追いかけてしまう。この特定方法と修正内容で、改めて全体像を見るように考えられれば、それでいい。

 

  

 俺は端末をシャットダウンし、上着を手に取った。重い鞄を肩にかけ、誰もいないフロアの主電源を落とす。一気に訪れる暗闇の中、非常口の緑色の光だけが誘導灯のように冷たく揺れていた。


 一階のロビーを出た瞬間、湿り気を帯びた熱風が肌にまとわりついた。空を見上げると、街灯の光に照らされた雲が不気味に低く垂れ込めている。神戸特有の強い海風が、嵐の到来を告げるように吹き荒れている。


 会社を出ると同時に、天を裂くような閃光と共に、凄まじい雷鳴が轟いた。その直後、まるでバケツをひっくり返したような土砂降りが襲いかかってくる。アスファルトを叩きつける激しい雨音に、視界は一瞬で白く塗り潰される。


(……厄介なことになったな)


 鞄の中から折り畳み傘を探すが、今朝の予報を信じて持って来ていないことを思い出す。近くのコンビニまで走るか。だが、ここからでは少し距離がある。買いに行く間に、間違いなく全身が濡れるだろう。


 ポートライナーの駅までは、信号に捕まりさえしなければ、全力で走れば五分もかからない。幸い、俺の住むマンションは駅に直結している。改札を抜けてしまえば、自宅の玄関まで雨に打たれることはない。


(計算上は、今すぐ走るのが最も効率的だ)


 俺は意を決し、雨のカーテンの中へと飛び出した。スーツの肩が瞬く間に水を吸い、重くなっていく。足元は水たまりを跳ね上げ、靴の中に冷たい感触が広がった。全力疾走する俺の横を、傘を差した人々が通り過ぎていく。


 駅の階段を駆け上がり、改札を抜けた時には、俺は文字通り、ずぶ濡れ状態だった。滴る水滴が駅の床を濡らし、周囲の乗客が驚いたようにこちらを見ている。だが、そんな視線を気にする余裕はなかった。じわじわと背筋を這い上がってくる悪寒に、俺は奥歯を噛み締めた。


 

――――

 玄関の鍵を開けると、家の中からは温かい味噌汁の香りが漂ってきた。


「お帰りなさい、陽斗さ……えっ、どうしたの、その格好は!」


 廊下へ出てきた詩織が、俺の姿を見るなり目を見開いた。彼女の手にはキッチンペーパーが握られており、今しがたまで料理をしていたことが分かる。


「……ああ。急な雨に降られた。運が悪かったな」


「運が悪いなんて、そんな呑気なことを言っている場合じゃないでしょう! こんなに濡れて、顔色も真っ青。いいから今すぐお風呂に入って。追い焚き、すぐに入れますから!」


 詩織は慌てて浴室へと駆け込み、テキパキと準備を整えていく。俺は彼女に促されるまま、重い衣類を脱ぎ捨てて浴室へ向かった。


 熱い湯船に浸かると、強張っていた筋肉が少しずつ解けていくのが分かる。だが、体の芯に残る奇妙な震えだけは、どうしても消えてくれなかった。



―――― 

 翌朝。いつもの時間にアラームが鳴り、俺は意識を浮上させる。だが、体が鉛のように重い。まぶたの裏側が熱く、呼吸をするたびに肺が燃えるような感覚に襲われる。


(……まずいな。これは)


 思考が霞んでいる。時計を見ると、普段なら既にリビングで詩織と朝食を摂っている時間だ。寝室の扉が静かに開き、詩織が顔を覗かせた。


「陽斗さん? 珍しいですね、まだ起きてこないなんて……」


 彼女が俺の顔を覗き込み、表情を険しくした。


「……陽斗さん、顔が真っ赤ですよ」


 ひんやりとした彼女の手が、俺の額に触れる。その心地よさに、思わず意識を手放しそうになった。


「ひどい熱……。今日は無理です。会社は休んでください」


「……いや。今日は重要な会議がある。資料の最終確認も……」


 俺は無理やり体を起こそうとした。視界が激しく揺れ、胃のあたりから込み上げてくる不快感に耐える。クローゼットへ向かい、震える手でシャツを手に取ろうとしたその時だった。


「陽斗さん!!」


 寝室の空気を切り裂くような鋭い声が響いた。驚いて動きを止めると、そこには今までに見たこともないほど、怒りの表情をした詩織が立っていた。彼女の瞳には、一切の妥協を許さない本気の怒りが宿っている。


「どこへ行くつもりなの!? 自分の姿を鏡で見てちょうだい! そんな状態で仕事なんて、できるわけがないでしょう!」


 詩織の言葉には、有無を言わせない迫力があった。美術教師として、普段は穏やかな微笑みを絶やさないと聞いている彼女が、これほどまでに感情を剥き出しにして、俺を真正面から叱りつける姿を俺は知らない。


「……詩織」


「黙って! 陽斗さんはいつも、自分の限界を過信しすぎです。今の貴方は病人なのですよ。その体は、陽斗さん一人のものではないと、どうして分からないの!」


 彼女の怒声は、俺の甘えや責任感という名の慢心を一喝する。俺が無理をして倒れれば、どれほどの損失になるか。プロジェクトの遅延ではない。今、目の前で本気で俺を叱り、俺の身を案じてくれているこの女性の心を、どれほど踏みにじることになるのか。


「……悪い。俺が間違ってた」


 俺が力なく答えると、詩織は厳しい表情を崩さないまま、救急箱から体温計を取り出してきた。


「口を動かす前に、まずは熱を測ってください。……いえ、私がやります」


 詩織は俺の反論を封じるような手つきで、強引に体温計を脇に差し込んだ。

 数分後、非情な電子音が寝室に響き渡った。


 示された数値は、三十九度三分。


(……三十九度、三分だと?)


 俺がこれまでの人生で経験したことのない、未知の領域の数字だった。精密機械のように体調を管理してきた俺の自負が、一瞬で瓦解していく。


「……見てください。これでも仕事に行くって言うの?」


 詩織の声は低く、そして揺るぎない。俺はもはや、頷くことしかできなかった。


――――

 会社へ欠勤の連絡を入れた後、詩織が手配してくれたタクシーで近くのクリニックへと向かった。待合室の椅子に座っているだけでも意識が遠のきそうになる俺を、彼女はずっと隣で支え続けてくれた。その手には、まだ消えない怒りと心配が入り混じった力が込められていた。


 診察の結果、やはり過労による免疫力の低下が主因だった。そこへ昨晩の土砂降りと寒冷刺激が加わり、重症の風邪を引き起こしたのだという。インフルエンザや流行病ではなかったのが、唯一の救いだった。


「数日は絶対安静にしてください。薬を飲んで、とにかく眠ること。いいですね」


 医師の言葉に、詩織は無言で力強く頷いた。その横顔には、完治するまでは、一歩も外に出さないという断固たる決意が刻まれているようだった。


 帰宅した俺の足取りは、クリニックへ行く前よりも重かった。リビングで薬を飲み、何となく手持ち無沙汰でソファに腰掛けようとしたところで、詩織と目が合った。


 彼女は一言も発しない。代わりに、ふわりと花が咲くような満面の笑みを俺に向けた。ニッコリと、どこまでも慈愛に満ちた、絵に描いたような美しい微笑み。だが、その瞳だけは一切笑っていない。その射抜くような強い視線が、物理的な圧力さえ感じるほどの重さで俺を寝室へと促していた。


(……分かった。すぐに寝室へ行くよ)


 その微笑みの圧に、俺は抗うことを完全に諦めた。これ以上ここに留まれば、彼女の『沈黙の命令』がどのような変貌を遂げるか、想像するだけでも恐ろしい。俺は大人しく、そして這うようにして寝室へと戻った。


 厚手の布団に潜り込むと、詩織が氷枕を運び、甲斐甲斐しく看病の準備を整え始める。


「……詩織、すまない。心配をかけた」


「今は喋っては駄目。……どこか、苦しいところはない? 少しでも変だと思ったら、すぐに言ってね」


 彼女の口調は、まだ少しだけ硬い。だが、俺を見つめる眼差しには、先ほどの烈火のような怒りは消え、深い心配だけが残っていた。


 意識が混濁していく中、俺は彼女の温かい手のひらが、俺の手を握りしめているのを感じていた。仕事のことも、ロジックの修正も、今は全て遠い世界の出来事のようだ。


 この部屋に満ちる、詩織の穏やかな気配。それだけを唯一の道標にして、俺は深い眠りの中へと落ちていった。

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