閑話 鉄の掟 ~女子社員連合視点~
三宮のビジネス街が午後の熱気を帯びる頃、オフィスビルの高層階にある開発フロアでは、キーボードの打鍵音だけが規則正しく響いていた。
その中で、浅井陽斗は周囲を寄せ付けない集中力で画面に向き合っていた。だが、その背後に一人の男が忍び寄る。後輩の高橋である。
彼は陽斗の肩を軽く叩き、不敵な笑みを浮かべた。
「浅井さーん、画面に吸い込まれそうな顔になってますよ。ちょっと休憩ルームでコーヒーでも飲んで、脳みそを再起動させないっすか?」
「……高橋。進捗はどうなっている。今のバッチ処理の検証が先だ」
「もう終わらせてレビュー待ちっすよ! ほらほら、根詰めすぎは非効率だって、浅井さんなら分かるでしょ。行きましょう!」
強引に陽斗を席から引き剥がし、休憩ルームへと連れ出す高橋。その背後で、開発部の女子社員が鋭い眼光を走らせた。彼女はデスクの陰で音もなくスマホを起動し、特注の裏チャットを高速で叩く。
【緊急入電! 緊急入電! ターゲットが休憩ルームに移動! 高橋氏による強行連行を確認! 現在、ガードが緩んでいる可能性大! 各員、至急迎撃(という名の拝観)に備えよ!】
その情報は、瞬時に社内ネットワークの”深部”へと拡散される。発信した彼女自身も、勝利を確信して腰を浮かせる。だが、その行く手を阻むように巨大な影が差した。
「ああ、君。ちょうどいい。この資料の修正、急ぎで頼めるかな。……定時までにだ」
(……部長ォォ! 鬼! 悪魔! 人でなし! 私の貴重な観測機会を奪わないでください!)
部長の無慈悲な笑顔に捕らえられ、彼女は魂の叫びを飲み込みながら、再びキーボードに指を置いた。
一方、そんな攻防を知る由もない陽斗は、休憩ルームのソファへ深く腰を下ろしていた。窓の外に広がる三宮の街並みを眺めながら、手にしたマグカップを一度見つめる。
「……で、浅井さん。もう落ち着いたんっすか? 結婚式の二次会の場所って決まったんすか?」
「……高橋。場所を考えろ」
「隠したって無駄っすよ。社長が食堂であれだけ『抜け殻から中身が戻ってきた』なんて騒いでたんだから。あの鉄仮面の浅井さんが、定時になった瞬間にカバン持って消えるのは、家に愛する彼女が待ってるからだって、全社的に確定事項になってるんっすよ」
陽斗はわずかに眉間を押さえ、溜息を漏らす。否定も肯定もしないその沈黙こそが、今の幸福な生活を何より雄弁に物語っていた。口では疎ましそうにしながらも、気心の知れた高橋との時間は、彼にとって数少ない心休まるひとときだった。
だが、その平穏は、けたたましい足音と共に粉砕された。
「浅井さん! これ、よかったら食べてください! 私の実家から届いた、特別なお菓子なんです!」
「ちょっと、私の方が先よ! 浅井さん、こないだのトラブル解決、本当にかっこよかったです! もっとお話、聞かせてくれませんか!?」
「浅井さん! この後、空いてませんか!? 相談したいことがあって……!」
突撃してきたのは、開発部とは全く接点のない営業三課と宣伝部の新人女子三人組だった。彼女たちは社長の暴露話を知ってなお、一緒に住んでいるくらいならまだチャンスはあるとでも勘違いしているのか、陽斗の周囲に一斉に群がり、我先にとアピールする。その光景は、もはや休憩ではなく暴動に近い。
「……騒がしい。今は休憩中だと言っているだろう。用があるなら正規のルートを通せ」
陽斗のバッサリとした拒絶。だが、三人組は「きゃああ! あの厳しい態度! 逆に燃える!」と、むしろ燃料を注がれたかのようにヒートアップしていく。
しかし。
そんな浮かれた空気を、氷点下の威圧感が切り裂いた。
カツ、カツ、カツ――。
休憩ルームの扉が、まるで精密機械のように同時に開かれる。そこには、秘書課、経理部、総務部と会社の秩序を守る”重鎮”たちの女子社員連合が、逆光を背負って立っていた。その瞳にはハイライトが一切なく、一目散に駆けつけたことによる執念だけが揺らめいている。
「……ちょっといいかしら、新入りさんたち。全員、顔を貸して」
社長秘書の声が、静かにだが、絶対的な重みを持って響く。
「え、あ、先輩方……? なんでこんなに大勢……?」
返事を聞く暇はない。熟練の女子社員連合は、流れるような動作で三人それぞれの左右の脇をガッチリと固めた。まるで、不審者を確保するSPのような鮮やかさである。
「えっ!? ちょっと、何!? どこへ連れて行くんですか!」
「静かに。騒ぐんじゃないわ。……少し、たっぷりとお勉強の時間が必要なようね」
三人の抗議は、周囲を囲むベテラン勢の無言の圧力によって消し飛ばされた。彼女たちの足は物理的に浮き、そのまま滑るようにして休憩スペースから引き剥がされていく。
その様子を呆然と眺めていた陽斗が、ぽつりと呟いた。
「……なんだ、あの一団は。新種の集団訓練か何かか?」
隣で高橋がガタガタと震えながらコーヒーを啜る。
「うわあ……出た。女子社員連合の『強制連行』っすよ。浅井さん、あれ絶対に関わっちゃダメなやつっす……」
戦場は、給湯室へと移る。
バタン! と重々しい音が響き、内側からカチリと錠が下ろされる。
蛍光灯がチカチカと不規則に点滅し、換気扇の音だけが空虚に響く密室。新人三人は、壁際に追い詰められ、十数名の先輩たちの視線に晒されていた。
「さて。新入りさんたち。……今、あそこで浅井さんに何をしようとしていたのか、吐きなさい」
社長秘書が、眼鏡のブリッジを中指でクイと押し上げ、低く問い詰める。
「えっ……何をって、お礼とか、お話とか……親しくなりたいなって……」
「親しくなりたい? 甘いわね。ハチミツの樽に砂糖をぶち込むくらい甘いわ。経理の目は、帳簿の数字一つ、感情の揺れ一つ見逃さないのよ。正直に言いなさい。あなたたちは浅井さんに対して、業務外の不純な動機を持って接触を試みた。……違う?」
経理主任が、逃げ場を塞ぐように一歩踏み込む。三人はシンクの縁に背を預け、震える声で弁明した。
「だ、だって、浅井さんは素敵だし……少しでも仲良くなれたらいいなって……」
「いい、新入りさんたち。一度しか言わないから、その耳に刻みなさい」
社長秘書が、眼鏡の奥の鋭い瞳で彼女たちを射抜く。
「特に……浅井さんに関する『特別警戒事項』を、ね」
「え……警戒事項……?」
「そうよ! あなたたち、社長が食堂であれだけ騒いでいたのを聞いていなかったの!? 浅井さんには、パリに留学していた本命の彼女がいる……それも一年以上も一途に待ち続け、先日ついに自ら空港まで迎えに行き、今はもう『一緒に暮らしている』相手がいるのよ!」
「ええっ!? そんな……本当に同棲してるんですか……?」
「そうなのよ! あの浅井さんが、定時になった瞬間に誰よりも早く職場を去るのは、帰った瞬間に愛する人が待っているからなの! 私たちは今、そのあまりにも理想的で完璧すぎる純愛の事実に、全員が致命的なまでの精神的ダメージを負っているのよ!」
経理主任が、震える手で給湯室の壁をドンと叩いた。
「でもね、新入りさん。勘違いしないで。……私たちは、まだ諦めたわけじゃないわ」
「え……?」
「同棲なんて、所詮は不安定な共同生活に過ぎない。結婚というゴールに辿り着くまでは、まだ可能性はゼロではないのよ! 私たちが今すべきことは、彼の完璧な生活を遠くから見守り、もし万が一、その純愛に綻びが生じた時に、真っ先に彼を支えられる『完璧な同僚』のポジションを確保することなの!」
秘書が、三人のうちの一人の肩をガシッと掴んだ。
「そんなデリケートな潜伏期間中に、あなたたちのような新人が余計な刺激を与えて、彼の均衡を崩したらどう責任を取るつもり!? 私たちが一縷の望みをかけて守っている、この静かなる秩序を乱すことは、自分たちの未来を自分たちで潰すようなものよ!」
秘書は、指を一本立てる。
「暗黙のルールその一。浅井陽斗を『安易な恋愛対象』として見ることは、全女子社員に対する宣戦布告と見なす。彼は仰ぎ見るべき概念であり、同時に私たちがいつかその隣に並ぶ奇跡を夢見るための聖域なのよ。たとえ彼に同棲相手がいようとも、その牙城が崩れるその日まで、私たちは秩序正しく待機しなければならないの!」
次に二本目の指を立てる。
「その二。彼に個人的な接触を試みる際は、必ず我々『監視委員会』の検閲を通すこと。不用意に彼を不快にさせたり、幸せそうな彼を余計な雑音で苛立たせたりするような真似は、私たちの未来の可能性を摘む行為よ」
そして、三本目の指を立てる。
「その三。……もし、彼と話す機会があっても、自分を特別な存在だと思い込まないこと。彼は今、唯一の女性のためにのみその人生を捧げている。私たちが入り込めるのは、まだ、仕事という名の信頼関係だけなんだから」
そして、秘書はさらに声を低め、念を押すように続けた。
「そして最後にして最大の『鉄の掟』よ。……来たるバレンタイン、浅井さんにチョコを渡すことは、たとえ義理であっても、たとえ感謝の印であっても、厳禁とする! 渡していいのは、全女子社員名義で用意された、一個の完璧な無機質で事務的な記念品のみ。個人の感情という名の不純物を混ぜた甘味を彼に与えることは、彼の生活を土足で荒らす暴挙であり、私たちの『一縷の望み』を自ら断つ愚行と見なすわ。いいわね?」
あまりの熱量と、絶望の中でも捨てきれない執念に圧倒され、新入りたちはただガタガタと震え、小さく頷くことしかできなかった。
「……わ、わかりました……。浅井さんは、いつか奇跡が起きるその日まで、誰も汚してはならない聖域なんですね……」
「そうよ。……理解できたなら戻りなさい。二度とあのような、色気づいた隙を見せないこと。……いいわね?」
鍵が開けられ、三人は魂が抜けたような顔でフラフラと給湯室を去っていった。
残された十数名は、深く、長く溜息をつき、冷めたお茶を啜った。
「……あの子たち、もう少しで私たちの逆鱗に触れて、この会社にいられなくなるところだったわね」
「ええ。浅井さんの幸せを壊しかねない無作法は、このオフィスでは死活問題ですもの。でも、同棲か……いつか、その生活に飽きが来る日を待つなんて、私たちも相当業が深いわね」
「……その日が来るまで、三宮の海を私たちの涙で枯らさないようにしておかないとね」
数日後、彼女たちが、高嶺の花である陽斗の隣に並ぶ美術教師・詩織の正体を知り、絶望のどん底で三宮の居酒屋をハシゴすることになるとは、この時の彼女たちはまだ知る由もなかったのである。
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