第65話 幸福を祝う食卓 ~詩織視点~
ポートアイランドの夜景が窓の外に宝石を散りばめたように広がる、陽斗さんのマンション。その洗練されたリビングで、私は親友の紗代と並んでソファーに腰掛け、玄関の扉が開く音を今か今かと待ちわびていた。
今日は陽斗さんにとって、これまでのシステムエンジニアとしてのたゆまぬ研鑽と執念が最高の形で実を結んだ、マネージャー昇進という輝かしい記念日なのだ。
キッチンからは淹れたての香ばしいお茶の香りが柔らかく漂い、それとは対照的に、紗代が身振り手振りを交えて興奮気味に語る恋人への熱い想いが、部屋の温度を一段と引き上げている。
それらが混ざり合い、部屋の空気は春の陽だまりのような優しさと、どこか浮き足立ったような独特の高揚感に包み込まれているようだ。
「ねぇ。詩織ってばぁ、聞いてる? 高橋さん、最近すごく優しいんだから。仕事が山積みで大変なはずなのに、私のことを一番に考えてくれて……もう、本当に素敵なの」
「ふふ、さっきからずっと聞いているわよ。高橋さんのこと、本当に大好きなのね」
紗代の止まらない惚気話に、私は心からの微笑みを浮かべて耳を傾けていた。
親友の幸せそうな姿を見るのは、私にとっても何よりの喜びだからだ。
二人で過ごす時間がゆったりと流れていく中で、やがて玄関の鍵が回る音が鮮明に響いてくる。
廊下を歩いてくる、規則正しい、耳に馴染んだあの足音。
私は自然とソファーから立ち上がった。
「ただいま」
リビングの扉が開くと、そこには少しだけ疲労の色を滲ませた顔をした陽斗さんが立っていた。
そしてその斜め後ろには、身体を縮めるようにして、所在なげに視線をあちこちへ彷徨わせている高橋さんの姿も見える。
「おかえりなさい、陽斗さん。本当にお疲れ様でした」
「おかえりなさーい、浅井さん! 待ってましたよー!」
私と紗代の声が重なり、リビングの温度が一気に数度上がったかのように華やいだ。
陽斗さんは私たちの歓迎に微かに頷くと、一歩横に避けて、気恥ずかしそうに立ち尽くしていた高橋さんを室内へと促す。
彼が遠慮がちに、不慣れな場所に迷い込んだ子供のような足取りで顔を出した瞬間、紗代の瞳がパッと輝き、吸い寄せられるように彼のもとへと駆け寄っていく。
「一成!」
弾んだ声で愛称を呼ばれた高橋さんは、不意打ちを食らったかのように、その身体をビクンと震わせた。
職場の陽斗さんの前では、いつも自信満々で、陽斗さんのことを『人の皮を被った精密機械』と呼んで憚らないほど饒舌だと聞いている。
だけど、今の彼は首筋から耳の裏までを一気に朱に染め、消え入りそうな声で精一杯の挨拶を絞り出すのがやっとの様子だった。
「ま、松本さん……こんばんはっす。お邪魔するっす」
その余所余所しい、あまりにも他人行儀な挨拶に、紗代は即座に不満を露わにした。
彼女はプクッと両頬を可愛らしく膨らませて、不機嫌を隠そうともせずに唇を尖らせる。
「……もう、松本さんなんて。いつもは紗代ちゃんってよんでくれるのに。浅井さんの前だからって、格好つけてるの?」
「あ、いや、それは……その、タイミングとか、色々と大人としての事情があるじゃないっすか……!」
必死に弁明しようと言葉を詰まらせ、額に玉のような汗を浮かべている高橋さんを見て、陽斗さんが珍しく、口角を僅かに上げて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうか。普段は『紗代ちゃん』と呼んでいるのか。へぇー、そうなのかぁ~。職場では一切聞いたことがないが、実に良好な関係のようで何よりだなぁ」
「あ、浅井さんまで!? 勘弁してくださいよぉ……」
絶望したように項垂れる高橋さんが可笑しくて、私はつい陽斗さんのそばに歩み寄り、彼が帰ってくるまでのリビングでの秘密を明かすことにした。
「そうなの。陽斗さんが帰ってくるまで、紗代から高橋さんのノロケ話をずっと聞かされていたのよ。もう、本当に凄かったんだから」
「ちょっと、詩織! それは内緒って言ったじゃない!」
顔を真っ赤にした紗代が、慌てて私の口を塞ごうと手を伸ばしてくる。
室内は一気に騒がしさを増し、私たちらしい賑やかな笑い声に満たされた。
陽斗さんもその様子を黙って見守っており、いつもよりずっと柔らかな空気が流れている。
そんな騒ぎを、どこか満足げに見守りながら、陽斗さんはスマートフォンを操作して何やら手配をしてくれていた。
しばらくして玄関のチャイムが鳴り、届けられたのは、漆塗りの桶に美しく並べられた特上の握り寿司だった。
それは目にしただけで溜息が出るほど見事で、一つ一つのネタが誇らしげに輝いている。
「うわぁ……すごいっす! 浅井さん、これ、マジっすか!?」
「すっごーい! 浅井さん、ありがとうございます!」
高橋さんが子供のように歓声を上げて桶を覗き込み、紗代も身を乗り出してネタの美しさに感嘆の声を上げる。
私は手際よく人数分のグラスを並べ、よく冷えた飲み物を準備した。
高橋さんの調子のいいお喋りは、美味しい食事とお酒が進むごとに本来の軽やかさを取り戻して滑らかになり、それを紗代が時に嗜め、時に笑い飛ばしている。
陽斗さんは、賑やかな彼らのやり取りを、眩しそうな視線で見つめている。
その横顔には、以前の彼がまとっていた、周囲を寄せ付けないような硬さは跡形もなく消え、穏やかで深い充足感が宿っているようにも見える。
四人で囲む食卓から立ち上る、この上なく幸せな熱量。
それは理屈ではなく、私の心の奥底までを優しく温めていく。
窓の外には神戸の深い夜の帳が下りていたけど、この部屋に満ちる笑い声は止むことを知らず、これまでにないほど深く濃い幸福感とともに、時間はゆったりと流れていく。
寿司のネタを口に運ぶたび、会話はさらなる熱を帯びていく。
高橋さんは、会議での陽斗さんの辣腕振りを身振り手振りを交えて誇らしげに語り、紗代はそれを感心したように、時に茶化しながら聞いている。
陽斗さんはそんな二人を眺めながら、時折私と視線を合わせ、小さく微笑んでくれた。
その一瞬の視線の交差に、私は言葉にできないほどの幸せを感じる。
この場所が、この時間が、永遠に続いてほしい。
以前は孤独を良しとしていたかもしれない彼の隣に、今こうして私がいて、大切な友人たちがいて、笑い合っている。
その事実が、何よりも尊い宝物のように思えた。
宴が深まるにつれ、話題は真剣な仕事の話から、彩り豊かな未来の話へと移っていく。
高橋さんが熱っぽく語る大きな夢、紗代が描く幸せな青写真。
それを聞く陽斗さんの表情はどこまでも優しく、見守るような深さを湛えている。
私はそっと、テーブルの下で陽斗さんの手に触れてみた。
彼は一瞬驚いたように私を見たけど、すぐにその大きな手で私の手を包み込んでくれた。
その温もりは、どんな言葉よりも強く私の心に響き、揺るぎない安心感を与えてくれるのだ。
今夜の祝宴は、単なる昇進祝いではない。
それは、私たちが新しい一歩を踏み出すための、大切な儀式だったのかもしれない。
賑やかな笑い声に包まれたこのリビングで、私たちはそれぞれの絆を確かめ合い、これからの日々を共に歩んでいく覚悟を分かち合っていた。
夜が更けても、四人の絆を繋ぐ糸は解けることなく、さらに強く、深く結ばれていく。
それは、これまで積み重ねてきたどの瞬間よりも鮮やかで、かけがえのない人生の大切な一ページだった。
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