64話 辞令と新しい役割 ~陽斗視点~
三宮の喧騒を階下に置き去りにした、本社ビルの大会議室。月に一度、全社員が強制的に顔を揃える全体会議の空気は、独特の重圧に包まれていた。
俺は列の端で、淡々と議事進行に耳を傾けていた。中途採用としてこの会社に入り、システム開発の最前線でコードと向き合い続けて二年以上が経過している。ただひたすらに、目の前のシステムという迷宮を最適化することだけに没頭してきた日々が脳裏をかすめた。
(……何だ、この空気は)
会議は滞りなく進んでいたが、俺の胸中には拭い去れない焦燥感があった。
数日前、詩織との婚約を社長、専務、常務の三役には報告済みだ。社内の一般社員にはまだ伏せているつもりだが、もしや専務がこの公の場で、不用意な言及をするのではないか。
技術的な難題には動じない俺も、私生活の領域を公にされることには慣れていない。俺は微かに奥歯を噛み締め、平静を装うことに全神経を注いだ。
「――最後に、人事発令を行う。開発部門、浅井陽斗君、前へ」
専務の声に応じ、俺は微かに喉を鳴らして壇上へと向かった。辞令が出るなどとは微塵も思っていなかった。周囲からは、入社時期を考えればあり得ないスピード出世に対する驚きの声が漏れるが、俺自身の困惑の方が遥かに大きかった。
壇上に上がり、専務と対峙する。彼は俺に辞令を渡す直前、身体を僅かに寄せ、他には聞こえない低い声で囁いた。
「……瀬戸さんとのことは、我々以外には内緒にしているつもりだろうが、安心したまえ。余計なことは言わないよ」
一気に心臓が跳ねる。
分かっているなら、なぜこの最も緊張するタイミングで揺さぶりをかけてくるのか。冷静さを装う俺の顔が、その瞬間だけは強張った。だが、専務は悪戯が成功した子供のような笑みを一瞬だけ浮かべると、すぐに厳かな表情に戻り、辞令を読み上げた。
「浅井陽斗。君を本日付で、開発部門のマネージャーに任命する」
会場に、爆発的なざわめきが広がった。
この抜擢はあまりにも早すぎる。だが、そのどよめきは反発ではなく、むしろ納得の色を含んでいた。背後から、同僚たちのひそひそ話が耳に届く。
(……浅井さん、もうマネージャーか。実力なら当然だよな)
(ああ。先月のシステム障害の時も、俺たちが手詰まりになっていたバグを無言で、しかも完璧に修正してくれていたんだ。あの正確さと速度は、もはや現場を指揮すべきレベルだろ)
俺自身は、自らの言動を冷淡だとは思っていない。業務上のコミュニケーションにおいて冗長な表現は不要な混乱を生むリスクに過ぎず、常に簡潔で的確な伝達を心がけているに過ぎないのだ。
だが、周囲からは『鉄面皮』や『精密機械』と揶揄されることが多い。後輩の高橋に至っては、事あるごとに「人の皮を被った精密機械」と呼んでくる始末だ。合理的に話すことが、それほどまでに人間味を欠いて見えるのだろうか。
俺が辞令を手にし、専務と向き合ったその時、会場からは自然と温かな拍手が沸き起こった。
それは異例の抜擢を称賛するだけではない。彼らの目には、俺がこれまで積み上げてきた技術への深い信頼が宿っていた。
専務は満足げに頷くと、再び俺にだけ聞こえる低い声で告げた。
「浅井君。君の鉄面皮をこれほどまでに揺らす存在が現れるとはな。我が社のマネージャーが、まさか一人の芸術家に完敗する姿を見ることになるとは、実に面白い変化だ」
俺は微かに眉を動かした。専務の言葉は、俺の生活に加わった詩織の存在が、俺自身の在り方を塗り替えたことを見抜いているようだった。
(完敗か。確かに今の俺には、それを否定する言葉は見当たらないな)
詩織と出会う前の俺なら、組織の管理という役割を、効率の悪い仕事だと断じていただろう。だが、彼女を守り、彼女が送る柔らかな日常をこの手で支えたいと切望する熱が、俺の中に組織を牽引するための新しい力を芽生えさせていた。
「過分なお言葉です。ですが、その責任の重み、真摯に受け止めさせていただきます」
俺は淀みのない声で答え、深く一礼した。
――――
全体会議が解散となり、俺は騒がしい廊下を通り抜けて自席のある開発フロアへと戻った。
椅子を引き、いつも通りキーボードに手を置こうとしたその時だった。
「浅井マネージャー。おめでとう」
声をかけてきたのは、開発部長だった。普段は冷静な部長の顔に、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「ありがとうございます。精一杯、務めさせていただきます」
俺が居住まいを正して答えると、それを合図にしたかのように、周囲の社員たちがどっと俺のデスクを囲んだ。
「浅井さん、おめでとうございます! 今日からはマネージャーって呼ばなきゃいけないんですかね?」
「ちょっと前に入ってきたばかりなのに、もう俺たちのボスですか。納得ですけどね」
口々に祝福の言葉を投げてくる同僚たち。その輪の中から、一際大きな声を上げたのは高橋だった。
「おめでとうございます! 流石っすよ、浅井マネージャー! 『人の皮を被った精密機械』も、ついに組織を管理する側に回るわけっすね」
高橋の軽口に、フロアがどっと沸いた。俺は小さく溜息をつき、彼を見据えた。
「高橋。その無駄な語彙をコードの最適化に使え。仕事が溜まっているはずだぞ」
「ほら出た、最速指摘っす! 了解っす。しっかりついていくんで、よろしくお願いするっす!」
軽口を叩きながらも、高橋の瞳には確かな敬意が宿っているように見える。
俺は一旦、彼らを制してスマートフォンを取り出した。ポートアイランドで待つ詩織に、昇進の報告を入れるためだ。
『……マネージャーになった。今日は少し帰りが遅くなるかもしれない』
簡潔にメッセージを送ると、すぐに既読がついた。返ってきたのは、弾むような祝福の言葉と、意外な提案だった。
『陽斗さん、おめでとうございます! もしよろしければ、高橋さんも一緒に、うちでお祝いしませんか?』
俺は眉を寄せた。さらにメッセージが続く。
『ちょうど紗代とも連絡をとっていたんです。高橋さんも一緒なら、四人でお祝いしましょう!』
詩織の親友であり、同僚の数学教師でもある松本紗代。そして彼女と恋人同士になった高橋。
「……賑やかになりそうだな」
そう呟いてしまった。
――――
定時を過ぎ、周囲が帰り支度を始める中、俺は自分のデスクを片付けていた高橋に声をかけた。
「高橋。今日、予定はあるか?」
「え、特にはないっすけど。どうかしたんすか?」
「詩織が、お前も一緒に祝いたいと言っている。松本さんも呼ぶそうだ」
俺の言葉に、高橋はあからさまに表情を輝かせたが、その口からは驚くべき言葉が飛び出した。
「マジっすか! 紗代ちゃんと一緒にお祝いできるなんて最高っすね!」
聞き慣れない親密な呼び方に、俺は思わず眉を動かした。
「……紗代ちゃん?」
俺がそのまま問い返すと、高橋は自分が口にした言葉の重みに今更気づいたのか、持っていたカバンをデスクに落とした。
「あっ……! い、いや、それは……!」
普段の調子の良さはどこへやら、高橋は見たこともないほど顔を真っ赤にして激しく動揺し始めた。
「そ、そんな事はもういいっすから! とにかく、詩織さんの手料理と紗代……松本さんが一緒なら、行かない理由がないっす! ほら、早くいきましょう!」
支離滅裂な勢いで言葉を畳み掛けながら、高橋は俺の後ろに回り込み、グイグイと背中を押してくる。
その慌てふためく背中を感じながら、俺はわずかに口角が上がってしまった。
ビルを出ると、三宮の空には鮮やかな夕映えが広がっていた。
俺は彼女に「今から高橋を連れて帰る」と返信を打ち込み、マネージャーとしての新しい第一歩を踏み出した。
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