第63話 揺れる好奇心 ~詩織視点~
金曜日の夜。いつものように陽斗さんの部屋で夕食を終え、食後の紅茶を淹れていた時のこと。
キッチンからリビングに戻ると、陽斗さんが椅子から立ち上がらんばかりの勢いで身を乗り出していた。
「詩織、今日会社で高橋から聞いたんだが……」
陽斗さんの声が、まるで難解なパズルを解いたかのような高揚した響きを帯びている。
「今日、休憩ルームで高橋と一緒になってな。俺がこの前の摩耶ケーブルがいかに素晴らしかったかを話したんだ。そうしたら彼が、『浅井さん、それなら須磨のカーレーターも外せないっすよ』と言い出して、スマホで動画を見せてくれたんだ。この前、松本さんと一緒に行った時の映像らしいんだが……これが、とんでもないんだ!」
陽斗さんは、高橋さんのスマートフォン越しに見たというその光景を、身振り手振りを交えて熱烈に語り始めた。
「ベルトコンベアの上に座席を載せて運ぶ、日本……いや、世界でもここだけにしかない極めて稀有な輸送システムだそうだ。動画の中の高橋たちは、椅子が動くたびにガタガタと激しく揺れて、まともに喋ることもできないくらいだった。彼は『乗り心地の悪さがもはやアトラクションっす』と笑っていたが、俺にはそれが、効率を度外視した剥き出しのエネルギーに見えたんだ。あんなに楽しそうに揺られる乗り物が、この令和の日本にまだ残っているなんて!」
「カーレーター……。ふふっ、懐かしい名前が出てきたわね」
私が懐かしさに目を細めると、陽斗さんは弾かれたように目を見開いた。
「詩織、知っているのか!? 高橋は『あんなヤバい乗り物、他にはない』と断言していたが、実在するんだな?」
「ええ、もちろん。神戸で育った子なら、一度は乗ったことがあるんじゃないかしら。私も小さい頃、両親に連れられて、須磨浦公園には何度も行ったことがあるの。あのガタガタ揺れる振動が楽しくて、子供心に『魔法の乗り物』みたいだって思ってたわ。お尻が痛くなるくらい跳ねるのよね」
思い出の中の私は、父の大きな手に引かれながら、あの独特の振動に声を上げて笑っていた。山の上にある遊園地へ続く、少し不思議で、どこかレトロな階段。
「……詩織は、乗ったことがあるんだな。それもご両親と」
陽斗さんは、なぜか打ちひしがれたような顔で深く椅子に沈み込んだ。
「俺は……実家が垂水なのにな。須磨なんて、電車で数分の距離じゃないか。それなのに、今の今までその存在すら認識していなかった。俺の二十数年間、一体何を最適化してきたんだ……。実家の近くに、そんな工学的なロマンの結晶が眠っていたというのに、俺は一度もその振動に触れることなく生きてきたのか!」
陽斗さんの実家、垂水だったわね。あんなに近い場所にあるのに、一度も行ったことがなかったなんて。本当に、今までの陽斗さんは、目的地への最短距離以外、何も見ていなかったのね。
効率と合理性を重んじるあまり、足元に転がっている小さな冒険や、愛おしい無駄をすべて切り捨ててきた日々。
以前の婚約者だった浩美さんとの外出は、常に効率を重視した車移動ばかりで、こうした公共交通機関に揺られるという発想自体が皆無だったという話を思い出し、胸の奥が少しだけ、きゅっと痛む。
すると、陽斗さんが何かに気づいたようにハッとして、少しだけ恨みがましい視線を私に向けてきた。
「……待てよ。詩織、俺たちはこの前、一緒に須磨海浜水族園に行っただろう? あの時、すぐ近くにそんな面白そうなものがあるって、どうして教えてくれなかったんだ? あの水族園の目と鼻の先に、その『カーレーター』があるんだろう?」
「えっ? あ、あの時はお魚を見るのがメインだったし、陽斗さんが乗り物に興味があるなんて思わなかったから……」
「……不覚だ。あの日、水族園で魚を眺めて満足していた自分の隣に、世界唯一のベルトコンベア輸送機があったというのに! あの日教えてくれていれば、もっと早くこの興奮に出会えていたのに。詩織、水族園の近くにあんな熱いスポットがあるなら、一言言ってほしかったな」
陽斗さん、本気で悔しがっている。だけど、眉間に皺を寄せながらも、目は期待に満ちてキラキラしている。
「ごめんなさい、陽斗さん。でも、楽しみは小出しにしたほうが、長く幸せでいられるでしょう?」
私がなだめるように言うと、陽斗さんは「……それもそうか」とようやく納得したように息を吐き、再び椅子から乗り出して熱っぽく語り始めた。
「高橋の動画で見たあの衝撃、急勾配をベルトコンベアで運ばれる感覚……一体どんな気分なんだろうな。今の俺には、最新のリニアモーターカーよりも、その五十年以上動き続けているベルトコンベアの方が遥かに魅力的に見える。詩織、明日だ。明日、すぐに行こう!」
――――
そして迎えた土曜日。私たちは須磨浦公園駅からロープウェイを乗り継ぎ、ついにカーレーターの乗り場へと足を踏み入れた。
薄暗いトンネルのような通路の先に、二人がけの小さな青い座席が、ガコン、ガコンと重厚な金属音を響かせながら流れてくる。
「詩織! あれか!? 本当に、嘘偽りなくベルトコンベアの上に椅子が載っているだけじゃないか! なんて潔い設計なんだ!」
陽斗さんのテンションは、駅に着いた時から最高潮だった。
係員の方に促され、私たちは動いている座席へと飛び乗るようにして腰を下ろした。その瞬間――。
「わわっ!? うおっ!?」
凄まじい衝撃が、お尻から背骨を突き抜けて脳天まで達した。
ガタガタ、ゴトゴトなんて生易しいものじゃない。まるで巨大なマッサージ機の上に放り出されたような、あるいは荒波に揉まれる小舟に乗っているような容赦のない振動。
「す、すごいな、これ……っ! 座っているだけなのに、全身の筋肉が強制的にシェイクされている感覚だ! 詩織、見てくれ、この接続部の段差! 物理的な負荷がダイレクトに伝わってくるぞ!」
陽斗さんは、あまりの揺れに隣の私の肩をがっしりと掴みながら、弾けるような笑顔を見せた。
「見てくれ、詩織! このアナログな加速感! 今の時代、こんなに『乗っている』ことを主張してくる乗り物が他にあるか? 効率? 快適性? そんなものはこの振動の前では無意味だ! このガタつきこそが、生きている証じゃないか!」
「ふふっ、陽斗さん、はしゃぎすぎ! でも本当に、久しぶりに乗ったけれど、記憶の中よりもずっと激しいわね!」
私たちは、揺れる車体の中で肩をぶつけ合い、必死に手すりにしがみつきながら、顔を見合わせて笑った。陽斗さんは窓の外へ身を乗り出さんばかりに(もちろん私が引き止めたけど)、剥き出しの巨大なローラーが力強く回転する様子を食い入るように見つめている。
「高橋の映像で見た以上の迫力だ。これだよ、これ! この『どうしようもなく揺らされている』感覚! これは確かに、乗り心地の悪さが最高のアトラクションだな!」
あまりの楽しさに声を弾ませ、子供のように目を輝かせる陽斗さん。
急勾配を登り切り、ガコンという最後の大きな衝撃と共に平坦な場所へ辿り着いた時、私たちはどちらからともなく深い息を吐き出した。
陽斗さんがこんなに無邪気に、不便なものを「面白い」って笑ってくれるなんて。
浩美さんといた時の陽斗さんは、きっとこんな風に、自分の興味を真っ直ぐにぶつけることなんてできなかったんでしょうね。常に”正解”を求められ、スマートさを演じさせられて。不便なものや、効率の悪いものを楽しむ余裕なんて、これっぽっちも許されなかったはず。
そう思うと、乗り場を降りてからも「今の衝撃、実際に乗ってみないと分からない感動があるな。あのローラーの回転速度とベルトの摩擦係数が……」と、興奮冷めやらぬ様子で早口に振り返る彼が、愛おしくてたまらなくなる。
私は、少しだけ生暖かい目。いえ、慈しみと、ほんの少しの呆れを含んだ視線を彼に向けながら、山頂の潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「陽斗さん、そんなに楽しんでもらえたなら、案内した甲斐があったわ」
「ああ! 最高だったよ、詩織。次は、あの『回転展望閣』だな。あそこもまた、昭和の知恵が詰まった素晴らしい回転機構があるはずだ。早く行こう!」
私の手を引いて、意気揚々と歩き出す陽斗さんの背中。
陽斗さんの”空白”が埋まっていくのは嬉しいけど、時々、その埋まり方が私の想像を遥かに超える速度で加速していくことがある。
いえ、加速というよりは、もはや未知の領域へのダイブに近いかもしれない。
青い空と海を背景に、楽しそうに”空白”を埋めていく陽斗さんの姿を、私はいつまでもスケッチするように、その心に焼き付けていた。
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