閑話 数学教師の計算違いと独壇場 〜松本紗代視点〜
午後一番の、微睡を誘うような柔らかな日差しが教室の床に細長く伸びている。
黒板には、私がチョークで描き出した二次関数の美しい放物線。その軌跡は数学的に一点の曇りもない秩序を示しているというのに、目の前の生徒たちの意識は、座標平面とは全く別の次元、すなわち、下世話で、それでいて最高に刺激的な”恋の噂”へと霧散していた。
「……というわけで、この頂点の座標を求めるには、まず平方完成を――」
「先生! そんな無機質な数式、今は誰も求めてません! 約束を忘れたとは言わせませんよ!」
最前列に陣取る生徒が、シャーペンを叩きつけて身を乗り出してきた。それを合図に、教室内は一気に沸騰する。
女子高という閉鎖空間は、一度恋の予感が漂えば、どんな難解な証明問題よりも熱心にその『正解』を求める狩人たちの集会場へと変貌するのだ。
彼女たちの標的は、数日前に美術室で自爆に近い形で左手の薬指を輝かせてしまった、私の親友・瀬戸詩織の衝撃的な事件である。
「そうですよ! 松本先生、この間『事情聴取してくる』ってあんなに自信満々に言ってたじゃないですか!」
「瀬戸先生、本当は誰からあんなキラキラした指輪をもらったんですか!? 自分で買ったなんて、あんなに動揺してたんだから絶対嘘ですよね!」
「相手はどんな人!? やっぱり美形!? それとも、どこかの御曹司!? 先生、知ってることを全部吐いてください!」
蜂の巣をつついたような騒ぎに、私は手に持っていたチョークを黒板の溝に置き、深くため息をついて見せた。
(……全く、この凄まじい好奇心の熱量を少しでも計算問題に向けてくれれば、次の模試の平均点は確実に跳ね上がるというのに)
私は観念して、教卓に両肘をついた。
「わかったわよ。少しだけ、本当に少しだけよ。……いい? 瀬戸先生のあの指輪についてだけど、あれはやっぱり、彼女が苦し紛れに言っていたような『自分へのご褒美』なんていう可愛い等式で済むものじゃなかったわ。案の定、あの男が強引にね――」
詩織の婚約者、あの精密機械のように整った顔立ちをしながら、詩織のことになると途端にバグを起こすシステムエンジニア、浅井陽斗。彼のことを話し始めようとした、その瞬間だった。
ふと、最前列の生徒が机の横に掛けていた鞄に目が吸い寄せられた。
そこには、先日、私がこの手で触れたものと同じ、白くて丸っこい兎のぬいぐるみのストラップが、ゆらゆらと揺れていた。
(――っ!?)
その瞬間、私の脳内に、暴力的なまでの鮮明さで『あの日』の情景がフラッシュバックする。
夕暮れの茜色に塗り潰されゆく動物園。ふれあいコーナーの片隅で、私の膝の上でトクトクと小さな鼓動を刻んでいた、あの温かな命の感触。
そして、それ以上に熱い体温を持って、私の視線を真っ直ぐに射抜いた、あの不器用な男の震える告白。
『僕の毎日に、紗代さんは欠かせない存在になっちゃったみたいっす。……もう、降参っす。紗代さんのことが好きになったみたいっす』
「……っ、……っぅ!!」
私の体温が瞬時に沸点を超え、顔面が真っ赤に燃え上がっていく。
心拍数は全速力で階段を駆け上がった時のように跳ね上がり、呼吸の仕方を一瞬忘れる。あまりの衝撃に、指先がピクピクと震え、教卓の上に置いていた出席簿を無意識に強く握りしめていた。
「……先生? 急に黙って、顔が爆発しそうなくらい赤くなってますよ?」
「え、何!? 瀬戸先生の話をしてるのに、なんで松本先生がそんなに悶えてるんですか!? もしかして、相手がそんなにとんでもない破壊力の持ち主なの!?」
「違う……違うのよ。瀬戸先生の話も確かに大ニュースだけど……それ以上に、私の中で『想定外の極値』が観測されたっていうか……もう、計算が追いつかないのよ……っ!」
私はもう、自分を制御することができなかった。
親友の詩織を問い詰め、彼女の防壁を崩す側だったはずの私が、今や彼女と同じ、あるいはそれ以上の”陥落”という名の甘美な泥沼に沈んでいるのだ。
この溢れ出しそうな、胸の奥を激しく揺さぶる幸福な変数を、誰かに叫び、共有せずにはいられない。
「……聞いて! ついに、降伏させたわ! あの、隙あらば最短ルートで私の包囲網から逃げようとしていた彼を、私の完璧な数式の……。いいえ、計算を遥かに凌駕する熱量で、私の軍門に降らせたのよ!」
「……は? 先生、何を言ってるんですか?」
「ちょっと待ってください。その『彼』って誰!? 瀬戸先生の話じゃないんですか!?」
生徒たちが一斉に首を傾げ、教室内には困惑の霧が立ち込める。当然だ。彼女たちは、私がいつの間にか自分の戦勝報告を始めたことにまだ気づいていない。
「高橋さんよ! 高橋一成さん! 仕事は完璧なくせに、私と向き合う時だけは、まるで未知数に遭遇した新米数学者みたいにオロオロして、挙句の果てに逃げ場所として動物園を選ぶような、最高に愛すべき男性よ! あの日、彼がどれだけ耳の付け根まで赤くして、私の瞳を真っ直ぐ見て『付き合ってほしい』って言ったか……。その時の彼の声の震えと、私の体温の上昇率をグラフにして、今すぐこの黒板にプロットしてあげたいくらいだわ!」
「ええっ!? 誰!? 高橋ってだれよ!」
「先生、まさか自分の惚気!? 瀬戸先生の『事情聴取』の結果はどうなったんですか!」
教室内は、先ほどとは質の違う騒然とした空気に包まれた。だが、私はそれを華麗な数式処理のように完全に無視し、手に取ったチョークで黒板の余白に「高橋一成という男の魅力」を、まるで定理の証明のように書き殴り始めた。
「先生! ストップ、ストップ! 私たちは瀬戸先生の婚約者の正体が聞きたいんです!」
「ああ、詩織の彼? あれはあれで、一見すると血も涙もないように見えるけれど、実際は詩織に対してだけ定義不能なほどに揺らぐ、面白い個体よ。でもね、私の高橋さんは、もっと深い次元での驚きがあるの。あんなに合理主義の塊みたいなシステムエンジニアが、私の前でだけは論理的な思考を放棄して、真っ赤になって固まるんだから。もう、そのギャップが私という関数の定義域を軽々と突破して、宇宙の果てまで発散していくのよ……っ!」
「先生、話が完全にすり替わってる!」
「高橋さんだか何だか知らないけど、いつの間にか松本先生の激しすぎる独演会になってるんですけど!」
生徒たちの叫びのような抗議は、もはや私には心地よい祝福のファンファーレにしか聞こえない。
(あぁぁ、思い出すだけで、私の脳内にある恋愛のアルゴリズムが、解けないほど複雑に、それでいて最高に美しく絡み合っていくわ……)
「いい? みんな。人生において、最も美しい解答は、いつだって計算を超えた瞬間に訪れるのよ。今週末、また彼とデートの予定なんだけど、次はどんな変数を投げかけて、彼の制御不能な表情を解析してあげようかしら……。ふっ、ふふふ、あーっはっはっは!」
「……先生、完全に壊れた」
「瀬戸先生の話、ぜんぜん収穫がなかったね……」
結局、授業終了を告げるチャイムが鳴り響くまで、私は高橋さんという名の『人生最高の解』について、全方位に向けて誇らしげに、そして傲慢なまでに幸せそうに語り続けた。
教壇を降り、出席簿を脇に抱える私の背後で、女子生徒たちが「結局、瀬戸先生の旦那さんの正体は謎のままだし」「でも、松本先生のあの浮か浮かれきった顔を見たら、もうお腹いっぱいだよ」と溜息混じりに囁き合っていた。
(ごめんね、詩織。あなたのノロケは、また別の機会にたっぷりと徴収してあげるわ。今は、私の人生史上、最も輝かしい解答を噛みしめるので精一杯なのよ)
私は圧倒的な勝利の余韻に浸りながら、誰よりも軽やかな足取りで、次なるノロケの標的である職員室で待つ独身教員たちの包囲網を攻略するために、教室を後にした。
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