閑話 陥落する男、陥落させた女 ~高橋・紗代視点~
【陥落しそうな男 ~高橋視点~】
定時を告げるチャイムが社内に響き渡ると同時に、僕は音もなく席を立った。
狙う先は、隣の席で手際よくデスクトップのウィンドウを閉じている上司である。
「あの、浅井さん。今日、この後……ちょっとだけ、飲みに行かないっすか?」
周囲に悟られぬよう、声を潜めて切り出すと、浅井さんは一瞬、意外そうに眉を上げた。
「俺とか? 悪いが、今日は真っ直ぐ帰りたいんだ。詩織が新しい料理に挑戦すると言ってたからな」
予想通りの返事。今の浅井さんにとって、定時退社は愛する婚約者の元へ急ぐための至上命題なのだから。
しかし、今日の僕は引き下がるわけにいかない。
「……そこを、なんとか。一杯だけでいいっすから。お願いっす」
僕は縋るような視線を送った。
自分でも、相当に追い詰められた目をしている自覚はある。
浅井さんは僕の表情をじっと見つめ、ため息を一つ吐くと、観念したように手元のスマートフォンを取り出した。
「……何かあったのか? 分かった。詩織に少し遅れると連絡を入れる。騒がしい居酒屋より、静かなラウンジの方が話しやすいだろう」
十五分後。
僕たちは会社近くのホテルにある、落ち着いた照明のラウンジにいた。
琥珀色の液体が満たされたグラスが運ばれてくると、浅井さんは背もたれに体を預け、僕を促してくる。
「で、相談とはなんだ。仕事の悩みには見えないが」
「……例の、数学教師のことっすよ」
僕は一口もつけていないグラスを指先で弄びながら、重い口を開いた。
「先日、彼女が予約したという店に、ついに連行されたっす。料理は確かに美味しかったし、店内の雰囲気も完璧だったっす。でもね、デザートを食べ終わる頃に、彼女がこう言ったんすよ。『たまには高橋さんの方から誘ってほしいわ』って」
「普通なら、喜ばしい進展じゃないか。何が問題なんだ?」
「普通なら、そうっすよね。でも僕、思わず言い返しちゃったんす。『たまにはって……今日が初めての食事っすよね』って。そもそも、まだ一度目なんすよ」
一回目のデートで、既に十回目くらいの親密度を要求されているようなものだ。
「それで、なんとかその場の主導権を取り戻そうと思って……っていうか、二人きりの空間から逃げるために、こう提案したんす。『それじゃあ、次は浅井さんと詩織さんも一緒なら行くっす』って。流石にダブルデートなら、彼女も少しは遠慮して、諦めると思ったんすよ」
「……ほう」
浅井さんの目が、同情を通り越して「詰んだな」とでも言いたげに細められた。
「そしたら彼女、間髪入れずに『いいわね! 賛成よ! 詩織にも私から連絡しておくわ!』って……。断るどころか、光速で承諾されたんす。僕の想定していた『照れ』とか『遠慮』という変数が、彼女の演算には一文字も入っていなかったっす」
僕は頭を抱えた。
「このままじゃ本気で外堀を更地にされると思って、わざと子供っぽい場所を言ってみたんす。『次は動物園にするっす』って。大人の男性がデートに選ぶには少し不釣り合いな場所なら、難色を示すだろうと思ったんすけど。……でも」
「でも?」
「『私、動物園は大好きなの! 檻の中の動物たちの行動パターンを観察するのって、最高にワクワクするわ!』って、目を輝かせて返されたっす……」
僕は力なくテーブルに突っ伏した。
「浅井さん。僕、もうどうすればいいんすかぁ〜。動物園のチケット、彼女がもうオンラインで四人分、確保しちゃったみたいなんす」
【陥落させそうな女 ~紗代視点~】
数学において、解に至る最短の証明は最も美しいとされる。
高橋さんとの初めての食事。私はメインディッシュが運ばれてくるまでに、今日の会話の目標値を”次回の約束”に設定していた。
目の前でフォークを動かす彼の所作は、無駄な角度が一切ない。その正確さに惚れ惚れしながら、私は食後のコーヒーが冷める前に最後の一手を打った。
『たまには高橋さんの方から誘ってほしいわ』
これは、彼という未知数の積極性を引き出すための問いかけだ。
高橋さんは「まだ一度目じゃないですか」と計算違いを指摘するように困惑していたが、そんなことは些細な誤差に過ぎない。
すると、彼が防戦一方だった姿勢を崩し、苦し紛れに条件を提示してきた。
『浅井さんと詩織さんも一緒なら……』
私の脳内で、複雑な数式が瞬時に組み上がっていく。
二人きりが無理なら、四人に人数を増やす。一見すると距離が開いたように見えるが、それは大きな間違いだ。
『友人同士』から『家族ぐるみの付き合い』へと、一気に次元を上げることができる。この機会を逃す手はない。
『いいわね! 賛成よ! 詩織にも私から連絡しておくわ!』
彼の『遠慮』という解を期待した顔が、驚きで固まったのを見逃さなかった。
さらに、彼は追い詰められた末に、驚くべき目的地を口にした。
『次は動物園にしましょう』
おそらく彼は、私が「もっとお洒落なバーがいい」などと文句を言うのを期待していたのだろう。
だが、彼は分かっていない。
動物園。
それは、種族ごとに割り振られた空間の中で、予測不能な動きをする個体を観察できる最高のフィールドワーク会場だ。
それに、家族連れやカップルで密度が高まった空間なら、自然と二人の距離を”ゼロ”に近づける理由がいくらでも作れる。
(動物園なんて最高だわ。フラミンゴの片足立ちの角度を測りながら、あなたの隣を歩けるなんて!)
私はその場でスマートフォンを操作し、最速の手続きで四人分の入園チケットを確保した。
高橋さんは必死に逃げ道を探しているようだけど。
その必死な抵抗が描く軌跡さえ、私にとっては、正解に辿り着くための美しい補助線でしかないのだ。
「待ってなさい、高橋さん。当日、あなたの心拍数を二倍に跳ね上げる計算は、もう済んでいるんだから」
私は帰りのタクシーの中で、動物園のマップと当日の行動表を脳内で重ね合わせながら、会心の笑みを浮かべた。
【陽斗視点】
玄関の鍵を開けると、柔らかな明かりと共に出迎えてくれたのは、香ばしい珈琲の香りと詩織の穏やかな笑顔だった。
予定より少し遅れた帰宅となったが、彼女は嫌な顔一つせず、冷えた体を労わるように風呂を勧めてくれた。
湯船で凝り固まった思考を解きほぐした後、俺はリビングのソファに腰を下ろす。
目の前には、詩織が淹れてくれたばかりの湯気を立てるカップが置かれていた。
「お疲れ様、陽斗さん。高橋さん、随分と困っていたみたいね」
詩織は隣に座り、首を傾げながら俺を覗き込んできた。
俺は珈琲の苦味を舌に転がし、先ほどラウンジで繰り広げられた部下の嘆きを思い出す。
「あぁ。高橋の奴、完全に計算が狂ったと頭を抱えていたよ。紗代さんに、次の行き先を提案したらしいんだが……」
「あら、高橋さんから? それは大きな進歩じゃないの」
「それが、二人きりの状況を回避したくて、わざと俺たちを誘ったり、子供っぽい場所を指定したりと、必死に抵抗を試みた結果、次は四人で動物園に行くことになった」
俺の言葉に、詩織は「あらら」と小さく声を漏らして、唇に手を当てた。
その反応には、どこか高橋の不運を予見しているような響きが含まれている。
「どうした? 確かに高橋にしては不似合いな場所だが、何か気になることでも?」
「うふふ。高橋さんは、紗代に『難色を示される』ことを期待して動物園を選んだのでしょう? でも、それは逆効果だったかもしれないわね」
詩織は懐かしむように目を細めた。
「紗代ね、実は以前、動物が苦手だったのよ。何を考えているか分からないし、予測できない動きをするから怖いって、ずっと避けていたくらい」
意外な事実だった。最短距離を突き進むあの数学教師が、動物に怯えていたとは。
「それがどうして、高橋に『大好きだ』と即答するまでになったんだ?」
「前にね、私が写生のために動物園に行った時、彼女が同行してくれたことがあったの。その時、ふれあいコーナーで一匹のウサギを抱っこしたんだけど……。その瞬間にね、彼女の中で何かが弾けたみたい」
詩織は楽しそうに、自分の膝の上で何かを抱えるような仕草をした。
「温かくて、トクトクと心臓の音が聞こえて……。命が一生懸命に動いているのを感じて、理屈抜きで可愛いって思えたんですって。それからは、動物たちの生命力を観察するのが、彼女の新しい楽しみになったのよ。もう一人で、何度も通ったって言ってたわ」
俺は納得すると同時に、救いようのない部下の顔を思い浮かべた。
高橋が繰り出した、『苦手なはずの場所』という一手は、紗代にとっては『自分の価値観を変えてくれた愛着のある場所』という、最悪のカウンターに変わってしまったわけだ。
「……高橋は、自分の放った矢が、倍の速度で自分に向かって飛んでくることに気づいてないんだろうなぁ」
「紗代の熱量に、動物たちの生命力が加わるのね。当日は、賑やかになりそうだわ。あっ、そうそう、お弁当も作らなきゃ」
詩織は可憐に笑いながら、俺の肩にそっと頭を預けてきた。
高橋の受難を思うと不憫ではある。
だが、こうして妻となる女性と過ごす穏やかな時間の中に、彼もいつか辿り着くのだと思えば、見守る側の責任として、動物園の一日を全うしてやるのも悪くないと思えた。
【陥落した男 ~高橋視点~】
ペンギンの群れが眩しい水飛沫を上げるのを、僕はただぼんやりと眺めていた。隣を歩く紗代さんの足取りを意識しながら、数歩後ろを追う。
当初の目的は、この喧騒に紛れて、彼女の猛攻で熱くなった日常を冷やすことだった。しかし、現実はまるで正反対だ。
「高橋さん、見てっ! あの子、さっきからずっと私の後を追ってくるの。すっごく人懐っこくて可愛い!」
柵に身を乗り出して、幼子のように声を弾ませる彼女。そこには、数学教師としての堅苦しさなんて、微塵も感じられない。ただ純粋に、目の前の生き物と触れ合う時間を、心の底から楽しんでいるようだ。
「……ペンギンに好かれるなんて、紗代さんらしいっすね。なんだか、見てるこっちまで楽しくなってくるっす」
僕が思わず応えると、彼女は不意に足を止め、こちらを振り返った。
西日に照らされた彼女の瞳が、真っ直ぐに僕の視線を射抜く。
羞恥を滲ませながらも、迷いなく感謝を伝える彼女を見て、僕の胸の奥は、アクションゲームのボス戦直前みたいに激しく鼓動を刻み始める。
外堀を埋められているとか、逃げ道を塞がれているとか。そんな卑屈な邪推は、彼女の放つ真っ直ぐな言葉の前では、あまりに無力で醜悪な逃げ口上に思えてくる。
ふれあいコーナーの片隅で、彼女がウサギを優しく撫でている。
少し離れた場所では、浅井さんと詩織さんが珍しい鳥類の展示に没頭しており、こちらには気づいていない。今、この空間には、僕と彼女だけの時間が流れていた。
「……紗代さん。僕、今までずっと、自分のペースを乱されるのが怖くて、他人と距離を置いて生きてきたんすよ。適当に波風を立てず、楽な方へ逃げてばかりで」
僕は一歩、彼女との境界線を踏み越えるように、距離を詰めた。
「でも、紗代さんの全力で真っ直ぐなところに触れて……。このまま逃げ回っているのは、自分でも情けないと思ったんすよ。僕の毎日に、紗代さんは欠かせない存在になっちゃったみたいっす。……もう、降参っす。紗代さんのことが好きになったみたいっす。……僕と、付き合ってくれないっすか」
(完全に陥落したっす。でも、不思議と胸のつかえが取れた気分っすね)
喉の奥が震えていた。
高橋一成、これほどまでに自身の心音を制御不能に陥らせたのは、今までの人生で、それこそ難攻不落のミッションに挑む時ですら一度もなかった。
紗代さんは驚愕に目を見開き、抱えていたウサギを静かに地面へ下ろした。そのまま、彼女の頬が真っ赤に染まっていく。
「……私、その言葉を、ずっと待ってたの。……こちらこそ、よろしくお願いします。高橋さん」
蚊の鳴くような震える声で、彼女が答えてくれた。
俯く彼女の肩が、愛らしく揺れている。それを見て、僕はようやく、この心地よい敗北を、誇らしい気持ちで受け入れたんだ。
【陥落させた女 ~紗代視点~】
水槽を縦横無尽に駆けるペンギンの軌跡。その鮮やかな動きに目を奪われながらも、私の意識の半分は常に、隣を歩く男性の気配を追いかけている。
彼が用意した逃げ道としての動物園。それは皮肉なことに、私たちが日頃の肩書きを脱ぎ捨てて素顔を晒すための最高のステージへと変貌を遂げている。
ふとした瞬間に視線が重なる。彼は困ったように眉を下げて、それでいて全てを包み込むような眼差しを向けてくる。その無防備な優しさに触れるたび、私の中の理性の堤防が、凄まじい音を立てて崩れていくのが分かった。
いままでの私は、正しい数式の中にしか安らぎを見出せなかった。今は、この不確定で、それでいて温かな時間の虜になっている自分を認めざるを得ない。
震える声で「ありがとう」と告げた時、彼は一瞬、呼吸を忘れたかのように固まった。夕暮れの光が、私たちの間の空白を、さらに濃密なオレンジ色に染め上げていく。
辿り着いた『ふれあい広場』は、嵐の前のような不思議な静けさに満ちていた。
詩織たちは遠くで色彩豊かな鳥たちに心を奪われていて、偶然にも私たちの周囲は、世界から切り離された二人の特別な空間と化している。
膝の上で動くウサギの鼓動を数えながら、私は彼が次に放つであろう言葉を、期待という名の極限状態で待っていた。
そして、その瞬間が訪れた。
彼が自らの手で、ずっと守り続けてきた心の防壁を取り払った。
不器用で、一切の飾りを排した彼の告白が、私の世界を根底から塗り替える。
「……僕と、付き合ってくれないっすか」
待ち望んでいたその言葉を耳にした瞬間、私の思考回路は許容範囲を超えて、完全にショートしてしまった。
指先が震え、慌ててウサギを下ろした。全身を駆け巡る熱を抑えることは、もう不可能だった。
「……私、その言葉を、ずっと待ってたの。……こちらこそ、よろしくお願いします。高橋さん」
(キタ、キタ、キタわよ! キター! 高橋さんの方からの告白という、最大級の特異点! 私の生存戦略、完全勝利! よっしゃぁぁぁぁーーーーっ!!)
蚊の鳴くような、これ以上ないほど淑やかな返答しかできなかった。
私の内側は今、勝利の歓喜で拳を振り上げている。それと溢れんばかりの幸福感で、新しい世界が誕生したかのように爆発しそうだった。
――――
一見すれば、それは夕暮れ時の動物園に溶け込む、絵画のように美しい光景に過ぎないだろう。
殊勝に視線を伏せ、微かな震えを湛えながら沈黙を守る彼女。その慎ましやかな外殻の奥底で、野心に満ちた勝利の咆哮が、天井知らずの音量で木霊していることなど、今の彼には知る由もない。
遠くからは、陽斗と詩織が他愛ない会話に興じ、屈託なく笑い合う声が風に乗って届く。
茜色に塗り潰されゆく情景の中で、初めて力強く繋ぎ合わされた二人の手のぬくもり。その温かさだけが、これから始まる恋路の確かな幕開けを告げているかのようだった。
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