表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
最終章 砦の朝

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
82/98

閑話 外堀を埋められる男、外堀を埋める女 ~高橋・紗代視点~

【外堀を埋められる男 ~高橋視点~】

 週末の旧居留地で、僕の日常は音を立てて崩壊した。

 あの嵐のような女性、松本紗代さんに連絡先を渡してからというもの、僕のスマートフォンはかつてないほどの熱を帯びている。


『高橋さん、今週末の空き時間を教えて。おすすめのお店、予約しておいたわよ』

 

『お仕事中かしら。集中している姿が目に浮かぶわね、頑張って!』


 ……通知が、止まらない。

 

 今まで付き合ってきた女性たちは、もっとこう、様子を伺うような沈黙を挟んできたものだ。既読をつけてから三十分待つとか、遠回しな表現で誘いを待つとか。

 だが、この数学教師には『駆け引き』という概念がインストールされていないらしい。常に真っ直ぐ、常にド直球。


(……やばいな。嫌いじゃないのが自分でも困る)


 画面を埋め尽くすメッセージを見つめながら、僕は自嘲気味に息を吐いた。

 正直、戸惑ってはいる。自分のパーソナルスペースを、勢いよく開拓されているような気分だ。だけど、その裏表のない熱量は、複雑な人間関係に飽きていた僕の心に、不思議と心地よいリズムを刻んでいるのも確かだ。


 とはいえ、このまま一人で対応していては、こちらの処理能力がもたない。

 僕はついに、唯一の全幅の信頼を寄せている上司に知恵を借りるべく、横の席へと声をかける。文字通り、外堀を埋められつつある男の切実な泣きつきである。


「あのぉ~、浅井さん。ちょっとご相談が……」

「なんだ? 仕様で不明点でもあるのか?」

「いや、そうじゃなくって……」

「??」


――――

「……で、どうすればいいんすか、浅井さん。この人、僕が『忙しい』って送っても、『流石ね! 充実している証拠だわ』とか言って、応援のスタンプを連打してくるんすよ」


 

 浅井さんの自宅。

 整然としたリビングのソファに深く沈み込み、僕は手元の携帯端末をテーブルに放り出した。

 キッチンからは、詩織さんが淹れてくれた珈琲の香りが漂ってくる。


「高橋、お前が自分以外のことでここまで狼狽えるのは珍しいな」


 浅井さんは、どこか愉しげに目を細めて僕を見ている。以前までの冷え切った雰囲気はどこへやら、今の彼には、愛する人を隣に置く者特有の余裕たっぷりの空気が備わっていた。


「笑い事じゃないっすよ。数学教師って、みんなあんなにアグレッシブなんすか? もっとこう、論理的で静かで知的な人たちだと思ってたんですけど。完全に計算外っすよ」


「紗代ちゃんはね、高橋さん」


 詩織さんが、出来立ての珈琲を僕の前に置きながら、クスクスと笑みを零した。


「彼女、これだ! って思う目的地が見つかると、そこに至るまでの過程を全部飛び越えて走り出しちゃうの。あの日、高橋さんがスマホを鮮やかにキャッチした姿が、彼女にはよっぽど魅力的な『理想像』に見えたんだと思うわ」


「……いや、あれ。単に僕がアクションゲーム好きで、ついキャラっぽく動いただけなんですよ。大層な理屈なんてないんですって」


 そう。あの時、僕の身体を動かしたのは高尚な美学などではない。数え切れないほどのプレイ時間で染み付いた、虚構のヒーローの反射速度。いわば、趣味が生んだ副産物に過ぎないのだ。


「紗代は、無駄のない動きや、迷いのない判断を何より尊ぶ人だから。それがゲーム由来だろうと、高橋さんのあの瞬間の立ち振る舞いに、彼女は直感で『この人だ』って感じたんでしょうね」


 詩織さんはそう言って、僕を応援するように拳を小さく握った。


「高橋さん、頑張って! 紗代、一度決めたら本当に一途だから。きっと高橋さんのことを、大切にしてくれるわ」


「…………っ」


 詩織さんの純粋すぎるほど真っ直ぐな応援。

 それが今の僕には、ありがたいような、でも同時に逃げ道を完全に塞がれるような、なんとも言えない複雑な重みとしてのしかかる。

 詩織さんにこうまで笑顔で言われてしまったら、これ以上「弱ってます」なんて泣き言は、口が裂けても言えない。内側からも外側からも、着実に堀が埋め立てられていく。


「……浅井さん。詩織さんのその『逃がさない笑顔』、これ反則じゃないっすか?」


「ああ。俺もそれで何度も腹を括らされたからな」


 浅井さんの言葉に、それまでニコニコしていた詩織さんが、ふいっと顔を背けた。

 彼女はリスのようにプクッと頬を膨らませて不満を露わにしたが、それも数秒のこと。すぐに我慢しきれなくなったように、ふふっ、と可憐に笑った。


「もう……陽斗さんまでそんなこと言って。私はただ、みんなに幸せになってほしいだけなのに」


 その光景を目の当たりにして、僕は深く溜息をつく。

 この幸せな空間の重圧と、紗代さんからの猛攻。前後左右、どこを見渡しても退路は見当たらない。僕はあきらめたように珈琲を口にした。


「いいじゃないか、高橋。お前にはそれくらい強烈なパートナーが、ちょうどいい刺激になるだろう。第一、お前自身、その通知を無視していない。それが彼女への返答だ」


「……それは、まあ。面白い人だとは思いますけど」


 自分の人生という静かな流れの中に、突如として放り込まれた予測不能な存在。

 それを排除するのではなく、一つの新しい日常として受け入れざるを得ない状況に、僕は半ば降参していた。

 

 外堀を埋められ、あとは本丸を明け渡すだけ。

 そんな展開に、僕の心拍数は、自分でも驚くほど騒がしく跳ね上がっていた。



【外堀を埋めに行く女 ~紗代視点~】

 数学において、最短距離とは常に直線である。

 そして人生において、欲しい”解”が見つかったのなら、迷わずそこに直進するのが私の流儀だ。


(……見つけた。間違いないわ、あの人よ)


 あの日、旧居留地のカフェ。詩織の婚約者に会うという名目で行ったあの一席で、私の世界に突如として未知の数式が躍り出た。

 

 高橋一成。

 彼が落下するスマホを空中で制したあの瞬間、私の心拍数はかつてない数値を叩き出した。一切の無駄を削ぎ落とし、物理法則に最適化されたあの身のこなし。あれはもはや芸術であり、完璧な理論そのものだった。


 以来、私は自分の直感という名の公理に従い、彼へのアプローチを開始している。


『高橋さん、今週末の空き時間を教えて。おすすめのお店、予約しておいたわよ』


 スマートフォンに文字を打ち込み、送信ボタンを迷わずタップする。

 数学教師としての私は、手順や証明を重んじる。だが、恋における私は、結果から逆算して行動するタイプなのだ。

 彼からの返信は、いつも少しだけ間がある。おそらく、私のあまりの速度に彼の処理能力が追いついていないのだろう。


(いいのよ、高橋さん。あなたのその戸惑いさえ、私には愛おしいんだから)


 彼が「仕事が忙しい」と言えば、その勤勉さを称え、全力で応援のスタンプを贈る。

 彼が「ゲームの動きを真似しただけだ」と謙遜すれば、その謙虚さと意外な趣味の深さにさらに惹かれる。

 逃げ道? そんなものは最初から用意していない。外堀から埋めていくのは、確実に彼を手に入れるための、もっとも効率的な手続きに過ぎないのだから。


 とはいえ、私の計算だけでは見えてこないデータもある。

 私は、高橋さんのことをもっと詳しくリサーチするため、親友であり彼の上司の婚約者でもある詩織に電話をかけた。


『ふふ、紗代? どうしたの?』


「詩織! ちょっと相談があるのよ。あの、高橋さんのことなんだけど……。彼に送るメッセージの頻度とか、内容の難易度についてとか、彼の周囲での評判も聞きたくて」


『あら、紗代。実は今、ちょうど陽斗さんと珈琲を淹れたところなの。……それでね、実は今、その高橋さんも遊びに来ていて……』


 電話の向こうから聞こえたその名前に、私の脳内演算が光速で火花を散らした。

 なんという幸運。なんという確率的必然。


「えっ、高橋さんがそこに!? 嘘、なんてタイミングなの!」


『ええ、なんだか紗代の勢いにタジタジだって、陽斗さんに泣きついてるみたいで……あ、高橋さん、今凄く嫌そうな顔をしたわ。自分の泣き言が、筒抜けだって気づいちゃったみたい』


 詩織の楽しそうな声を聞きながら、私はすでに立ち上がり、クローゼットからお気に入りの上着を引っ張り出していた。

 彼が浅井さんのところで一息ついているのなら、そこはもはや私のための包囲網が完成した場所も同然だ。相談するまでもなく、本人から直接データを取ればいい。


「詩織、そのまま彼を絶対に逃がさないで! 私も今からそっちに行くわ!」


『ええっ、今から!? ポートアイランドまで結構あるわよ?』


「関係ないわ! 鉄は熱いうちに打て、目的地が明確なら直行あるのみよ。待ってなさい、高橋さん。今すぐ合流して、今週末の予定を確定させるんだから! じゃ、詩織。後でね」


 驚く詩織の声を背に、私は迷わず通話を切り、鏡の前で髪を整えた。

 彼が油断して『安全圏』にいると思い込んでいる今こそ、背後から一気に王手をかける絶好のチャンスだ。


「さあ、証明の時間よ」


 私はバッグをひっつかむと、足早に家を飛び出した。

 駅まで歩く時間さえも今は惜しい。大通りに出た瞬間、向こうからやってくる空車のタクシーを見つけ、迷わず右手を高く掲げた。


「運転手さん、ポートアイランドまで! 最短ルートで飛ばしてください!」


 滑り込むように車内に乗り込み、行き先を告げる。

 数学教師・松本紗代の辞書に、『遠慮』という言葉は存在しない。


(待ってなさい、高橋さん。今日のデザートは、私の直接のアプローチなんだから!)


 遠ざかる景色を眺めながら、私は勝利を確信して、不敵に……いえ、これ以上ないほど輝くような笑みを浮かべた。


 

【外堀を埋められる男、外堀を埋める女】

 日曜の午後。ポートアイランドの一角にある浅井家のリビングでは、運命という名の数式が、残酷なまでの正確さで解を導き出そうとしていた。


 ソファで項垂れる高橋一成は、未だに自分の()()が分かっていない。

 彼は先ほどから、「ゲームキャラの動きを真似しただけ」だの「計算外の変数」だのと、もっともらしい理屈を並べては上司の浅井陽斗に泣きついていた。だが、天から俯瞰すれば一目瞭然である。彼がその卓越した反射神経でスマートフォンの落下を阻止したあの日、彼は自らの手で「平穏な日常」という名のセーブデータを上書きしてしまったのだ。


「……もう、無理っすよぉ~。あの人、僕の『予定を確認します』を『快諾』と自動変換してる節があるんです」


 高橋は知らない。その”自動変換”こそが、松本紗代という女性の思考ルーチンにおいて、最も優先順位の高いアルゴリズムであることを。

 そして、その「変数」をリビングに招き入れる引き金を引いたのは、他でもない彼の隣でクスクスと笑う聖母、詩織であった。


「あら、噂をすれば……紗代からだわ」


 詩織がスマートフォンを手にした瞬間、高橋の運命は確定した。

 紗代との電話。筒抜けになる高橋の居場所。そして、「タクシーで向かう」という宣戦布告。

 高橋は血の気が引いた顔で立ち上がり、脱ぎ捨てた上着に手を伸ばす。彼の脳内シミュレーションでは、今すぐこの場を離脱することが生存への最適解だった。


 しかし、その退路には既に、見えない壁が築かれていた。


 詩織の微笑み。それは慈愛の形を借りた、絶対的な拘束命令である。

 高橋は必死に「デバッグ」という名の虚偽の理由を捻り出すが、詩織の視線は容赦なく陽斗へと向けられる。


「そんなの、明日で大丈夫よ。ねぇ、陽斗さん、大丈夫よね?」


「あ、あぁ、大丈夫だよ」


 陽斗のこの短い返答が、高橋の逃走経路に最後の一撃を加えた。

 高橋は、信頼していた上司と、敬愛するその婚約者の完璧な連携プレーの前に、羽織りかけた上着の袖を掴んだまま石化する。


「……浅井さん、詩織さんの微笑みの圧、怖いっす」


 絞り出すような高橋の訴えに対し、陽斗は深く、実感の籠もった声で短く返した。


「うん」


 その肯定を聞いた瞬間、詩織は再びプクッと頬を膨らませて不満を露わにした。

 

(もう! 陽斗さんまで高橋さんに同調して『怖い』なんて失礼だわ。私はただ、みんなの縁を結ぼうとしているだけなのに!)

 

 そんな可愛らしい抗議の表情を浮かべる彼女だったが、その圧こそが、高橋をこの場に留まらせる決定打となったのは皮肉な事実である。


 

――――

 三十分後、インターホンの音と共に、その重力が物理的な実体を持って現れる。

 扉を開け放ち、リビングへと進軍してきたのは、最短ルートをタクシーで駆け抜けた松本紗代だ。


「お邪魔するわね! ……あら、高橋さん。まだいてくれたのね、感心だわ!」


 彼女の瞳には、一切の迷いがない。

 高橋は力なくソファに沈み込み、「わざわざタクシーで来るなんて……」と弱々しい抵抗を口にする。

 だが、紗代の驚くべき点は、その猪突猛進な速度と完璧な社会性を両立させていることだった。


「浅井さん、突然お邪魔して申し訳ありません。これ、あそこのデパートで急いで買ってきたんですけど、皆さまで召し上がってください」


 紗代は、息を切らして飛び出してきたはずのその手で、浅井に品格ある菓子折りの紙袋を差し出した。

 最短ルートを走りながらも、礼を失しないための手土産を用意するという計算高さ。これには、見守る神も彼女の用意周到さに舌を巻かざるを得ない。


「あ、あぁ。わざわざありがとう、松本さん」


 陽斗がそれを受け取った瞬間、高橋の最後の”盾”も消滅した。主人が手土産を受け取った以上、客である高橋が独り勝手に席を立つことは、もはや社会通念上許されない。


「さあ、高橋さん。お店の予約、確定させるわよ。あなたの拒否権は、このタクシー代と、浅井さんに渡した手土産の誠意の中に完全に溶け込んだと思ってちょうだい!」


「……っ、誠意の物理的な強制力が強すぎる……!」


 突きつけられるスマートフォンの画面。

 高橋は、あきらめたように「あ、はい……」と頷くしかなかった。


 観念した部下の様子を眺めながら、詩織は先ほどの不満を忘れたかのように、ふふっ、と可憐に笑った。



 その言葉通り、リビングには確かに『幸福』という名の重圧が満ちていた。

 陽斗は詩織の肩を抱き寄せ、幸せの数式に降伏した部下を静かに見守る。


 天から見れば、すべては必然であった。

 最短距離を突っ走る女と、その直線上から逃げ遅れた男。

 この数式が導き出す『正解』は、もはや誰の目にも明らかであり、覆しようのない確定事項として、この午後の空気に刻み込まれたのである。

ブックマーク、評価をお願い致します。

レビュー、感想等もお待ちしております。

誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ