閑話 外野たちの強襲
それは、陽斗が詩織に指輪を贈り、正式に婚約を交わしたという特大の例外処理が、彼の日常に割り込んだ数日後のことだった。
【駅前の居酒屋・数日前の夜】
すべてはこの夜の失言から始まった。
プロジェクトの大きな山場を越え、陽斗は珍しく部下の高橋と二人で酒杯を交わしていた。
いつもなら仕事の話か、高橋の軽口を切り捨てるだけで終わる席。だが、その夜の陽斗は、自分でも制御しきれないほどの昂揚感の中にいた。
数日前、詩織に指輪を渡し、彼女の薬指でそれが輝いた瞬間の残像が、網膜から離れない。
「……浅井さん、今日なんか怖いくらい機嫌いいっすね? 納品が無事に終わったからっすか?」
高橋の探るような視線。本来の陽斗なら「当然だ」と一蹴しただろう。
だが、五杯目のグラスを飲み干したとき、鉄壁を誇る彼のセキュリティゲートが、幸福という名のオーバーフローによって一時的にダウンした。
長年、誰にも頼らず孤独に生きてきた男が、初めて手に入れた世界で一番誇らしい実績。それを、ほんの少しだけアウトプットしたくなってしまったのだ。
「……指輪を買った」
ぽつりと、だが確かな熱量を持って陽斗は呟いた。
「えっ?」
「彼女に、最高級のものを贈った。……驚くほど、似合っていた」
言ってから、陽斗はハッとして口を噤んだ。羞恥心が遅れてやってきて、耳の裏まで熱くなる。
だが、手遅れだった。目の前の敏腕エンジニアは、獲物をロックオンした捕食者のような目でニヤリと笑った。
――――
【システム開発部・現在】
静まり返ったフロア。僕は画面を流れるログの山を追いながらも、全センサーの八割を隣に座るマネージャー、浅井陽斗に向けていた。
相変わらずの鉄面皮。規則正しく、一切の淀みもない打鍵音。一見すれば、いつも通りの完璧な浅井マネージャーだ。
だが、僕のデバッグ能力を舐めてもらっちゃ困る。
先ほどから、浅井さんの指先がコンマ数秒、エンターキーの上で泳いでいる。
彼が画面をスクロールする際、普段なら最短経路で動く視線が、わずかに、本当にわずかに左斜め下、そう、自分の鞄が置いてある方へと逸れている。
何かがある。あの鞄の中には、仕事用の端末や書類以外の何かが紛れ込んでいる。
本人は無意識のつもりだろうが、視線の解像度が明らかに違う。まるでそこに、世界で一番価値のあるソースコードでも隠してあるかのような、慈しむような眼差し。
おそらく、先日話していた戦果の証拠品か何かだろう。宝石店の領収書か、あるいは主を失って空になった指輪のケースか。
詩織さんの指に収まった本物の代わりに、その幸福なバグの余韻を確認せずにはいられないらしい。
(……間違いない。あれは『隠しきれない幸福』という名の致命的な脆弱性だ)
僕は画面のコードを見つめたまま、声を潜めて隣へ割り込みをかけた。
「浅井さん。……一応確認っすけど、数日前のあの居酒屋での話、まさか冗談じゃないっすよね?」
打鍵音が止まった。
浅井さんの指がキーボードの上で固まる。それは彼にとって、どんなログよりも雄弁な”肯定”の証拠だった。
「……冗談で婚約などと言うか。業務に戻れ、高橋」
声は冷淡だ。けれど、視線は再び一瞬だけ、吸い寄せられるように鞄の方へと落とされた。
「無理っすよ。あの鉄壁の浅井さんが、酒の勢いとはいえ自分から指輪の自慢なんてしたんすから。今も仕事中だってのに、視線が鞄の方へダダ漏れじゃないっすか。よっぽど大事なものでも入ってるんすか?」
「……お前の観察力が、不要な方向に特化しているだけだ」
浅井さんは強引にキーボードを叩き始めた。必死に、いつもの自分を再起動しようとしているようだ。
「嫌っすねー。自分からノロけておきながら、情報の隠蔽工作っすか。いいっっすか、浅井さん。今週末、僕をその婚約者さんに会わせてください。会わせるまで、僕は全ての提出書類の承認印の横に『おめでとうございます』って付箋を貼って回るっすよ」
隣から、深くて重い溜息が漏れた。マネージャーの眉間に、深い溝が刻まれる。
「……お前、それは業務妨害だぞ」
「愛ゆえの越権行為と言ってくださいっす。さあ、場所と時間を。拒否するなら、僕は今から社長室に行って報告してくるっすよ。社長が来たら、もっと面倒なことになるっすよ?」
「………………」
長い沈黙。
浅井陽斗という鉄壁のシステムが、僕という執拗なバグを排除するよりも、妥協というパッチを当てる方が効率的だと判断した瞬間だった。
「分かった。……今週末だ。余計なことを言ったら、その場でデバッグするからな」
「了解っす! 応答速度、最高っすね、マネージャー!」
――――
【授業中・美術室】
午後の柔らかな日差しが差し込む美術室。いつもなら筆がキャンバスを撫でる音だけが響く穏やかな空間だ。
しかし、今日の美術の授業は、そんな長閑な雰囲気とは無縁であった。
「……ねえ、あれ。やっぱり見間違いじゃないよね?」
私の隣の席で、スケッチブックを広げたままの手を止めた友人が、声を潜めて囁く。視線の先には、教壇で教科書を開いている瀬戸先生がいる。
この時間は美術部の先輩たちも不在で、私たち普通科の生徒ばかり。女子高特有の鋭い観察眼が、一斉に先生の左手へと集中していた。
先生がチョークを手に取り、黒板に遠近法と大きく書き記す。
その瞬間、窓からの光を反射して、パッと火花が散るように何かが光った。
「――っ! また光った!」
クラスのあちこちで、女子生徒たちの肩がビクッと跳ねる。
先生の左手。その薬指に、細身ながらも確かな存在感を放つプラチナの環が、誇らしげに鎮座していた。
「先生! その指輪、どうしたんですか!」
「もしかして、ご婚約ですか!?」
一人がたまらず声を上げると、教室内は一気に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。女子高という閉鎖空間において、憧れの瀬戸先生の恋愛事情は、どんな流行よりも重要なニュースなのだ。
「あ、これ……? ええと、これは……その、自分で買ったの」
先生はあからさまに動揺し、視線を激しく泳がせた。
声は震え、頬から耳の付け根まで林檎のように真っ赤に染まっている。普段の凛とした先生からは想像もつかないリアクションだ。
「自分で買ったって、左手の薬指にですか?」
「あ、ええ。ええと……サイズがここしか合わなかったのよ」
「そんなの嘘です! 先生、さっきから右手の指と見比べて動揺してるじゃないですか!」
「それにそのデザイン、昨日雑誌で見たブライダルラインにそっくりですよ? 自分で買うには意味深すぎます!」
一度火がついた女子高生の追及は止まらない。
先生は真っ赤な顔のまま、教科書で左手を隠そうとしたり、無意識に背中に手を回したりと、挙動不審な動きを繰り返している。クラス中から「怪しい!」「先生、白状してください!」と容赦ない追及の嵐が飛んだ。
「も、もう……授業を進めるわよ! 次は消失点についての説明を……」
「先生の独身生活が消失しそうなんですけど!」
「もう……!」
先生はついに、説明を投げ出すように黒板に向き直ってしまった。チョークを持つ手が小刻みに震えているのが、後ろからでもはっきりとわかる。
その必死な逃げの姿勢が、かえって私たちの確信を深める結果になった。
「……ねえ、これ絶対事件だよね?」
「うん。先生のあの様子じゃ、これ以上聞いても赤くなって固まっちゃうだけだよ」
「よし、作戦変更。数学準備室に行こう」
私たちの次の狙いは、瀬戸先生の同期で親友、そして唯一の弱点とも言われる数学の松本紗代先生だ。
授業が終わるなり、私たちは掃除のチャイムももどかしく、数学準備室へと全力で詰めかけた。
「松本先生! 大変です! 緊急事態です!」
ノックもそこそこにドアを開けると、採点中だった松本先生が「何事?」と声を上げた。
「瀬戸先生が! 瀬戸先生の左手の薬指に、とんでもなくキラキラした指輪がついてるんです!」
「本人は自分で買ったなんて震えながら言ってますけど、絶対嘘です! あんなの絶対誰かからもらったやつに決まってます!」
鼻息を荒くして報告する私たちの言葉を聞いた瞬間、松本先生の瞳が計算高い鋭さでギラリと光った。
「……ほほう? 左手の薬指に、ねぇ。しかも自分で買ったなんて、彼女らしい杜撰な隠蔽工作ね」
松本先生はニヤリと、どこか楽しげで、それでいて逃げ場を塞ぐ狩人のような笑みを浮かべた。
「よく報告してくれたわ、あなたたち。その未解決事件、この私が責任を持って捜査してあげる。……ふっふっふ。さて、詩織。逃げられると思わないことね」
ペンを置き、立ち上がった松本先生の背後には、私たち生徒全員の期待が渦巻いていた。美しき美術教師の秘密が白日の下に晒されるのは、もはや時間の問題だ。
「さあ、みんな! 放課後の捜査結果を楽しみにしていなさい!」
私たちは心の中で快哉を叫んだ。女子高の長い午後は、これからさらに熱い展開を迎えそうだった。
――――
【放課後・美術準備室】
放課後の静かな美術準備室。私は親友である詩織の逃げ道を塞ぐように、机を叩いて詰め寄った。
「詩織! 逃げても無駄よ! その左手に光る指輪の出所を、洗いざらい白状しなさい!」
「紗代、声が大きすぎるわ……」
詩織は顔を赤らめ、イーゼルの陰に慌てて左手を隠したけれど、薬指の輝きまでは隠しきれていない。数学教師である私の耳には、すでに包囲網からの報告が届いている。
「無理よ、もう隠しきれてないわ! さっきの休み時間、私を慕って数学準備室に来る女子生徒たちが、鼻息を荒くして報告しに来たんだから。『瀬戸先生が黒板に文字を書くたびに、左手がキラキラして授業どころじゃなかった!』ってね。『先生、あの指輪どうしたんですか!』『婚約ですか!?』って詰め寄られて、あなた『自分で買ったの』なんて震える声でスルーしたんですって?」
「……あの子たち、本当に目ざといんだもの。紗代にまで報告しに行くなんて……」
俯く詩織を見て、私の胸騒ぎは確信に変わる。あの日、ボロボロになって、ネクタイも歪ませたまま校門前に立ち尽くしていたあの彼。あの執念の塊のような男が、本当に指輪を持ってくるなんて。
「信じられないわ。あんな破壊力抜群の美形に、勢いで言いくるめられてるんじゃないかって、親友として心配なのよ!」
「そんなこと……。でも、彼は本当に真剣だったの。これを渡された時も、手が少し震えていて……」
詩織の口から漏れるノロケ話に、私はさらに椅子を引いて距離を詰めた。
「その真剣さを至近距離で見極めさせなさい! いい? 今週末、必ず彼を連れてきなさい。会わせなさい。さもなければ、私、次の職員会議で『瀬戸先生の左手の指輪について』を正式に議題として提出するわよ!」
「そんなこと、絶対にやめて……! わかった、わかったわよ、今週末……ちゃんと引き合わせるから」
ようやく観念した詩織の返事を聞き、私は心の中で作戦の成功を確信した。あの男が私の厳しい審査をパスできるか、今から手ぐすね引いて待たせてもらうわ。
【ポートアイランド・マンションの自宅】
「「ハァァァ~」」
その日の夜、リビングのソファに並んで座る陽斗と詩織は、互いに深い溜息を吐き出していた。
「……高橋が、どうしても婚約者に会わせろと言って聞かないんだ。あの日、飲みに行った際に、自分でもどうかしていたと思うが……。ポロッと、指輪のことを口にしてしまったのが運の尽きだった」
陽斗は片手で額を押さえ、消え入りたいほどの羞恥心と闘っている。詩織もまた、困ったように眉を下げた。
「実は、私のところもなの。紗代が、今週末に陽斗さんを連れてこないと、職員会議で婚約発表をするって……」
「職員会議だと? 全く、どいつもこいつも極端すぎるな」
陽斗は天井を仰いだ。孤独を愛した彼にとって、周囲のこの喧騒はあまりに計算外だったが、詩織の手を包み込むその力だけは、決して緩まなかった。
「……不本意だが、一度引き合わせて黙らせるしかなさそうだな」
【運命の交差・週末の午後】
神戸、旧居留地。テラス席に陣取った私は、目の前の敵陣を鋭く観察していた。
……といっても、そこに座っているのは二人だけなのだけれど。
遅れて到着した私を待っていたのは、どこか居心地が悪そうに背筋を伸ばした陽斗さんと、その後ろで爽やかに笑う男。
どうやら私が来る前、陽斗さんの部下だというその男は、すでに約束の三十分も前から到着して、詩織と和やかに挨拶を済ませていたらしい。
テーブルの上には、詩織が彼から勧められたというここの名物のケーキが並んでいた。
人見知りとまではいかないけれど、初対面の相手にはどこか丁寧な壁を作りがちな詩織が、その男と、まるで旧知の仲のように談笑している。
しかも、耳を疑ったのはその呼び方だ。
「高橋さん」「詩織さん」と、ごく自然に呼び合っている。
(……この男、かなりデキる男ね。あの詩織の懐に、三十分やそこらでもう入り込んでるなんて。浅井さん以外で、こんなに早く彼女のガードを解く男がいるなんて想定外だわ)
第一印象は、そつのない仕事人。陽斗さんが居住まいを正し、私に向かって丁寧な口調で紹介を始める。
「……お待たせしました。改めて紹介します。私のチームの部下、高橋です。……私のわずかな隙を突いて指輪の存在を暴き出した、本当に余計なことしかしない男ですが」
「いやぁ~、光栄です。浅井さん、指輪を買った自慢をした時の顔、最高だったんですから」
高橋一成。私は、このスマートそうな男に対し、無意識に身構えた。親友を射止めた男の連れが、どんな人物か見極めてやるという使命感に燃えていた。
だが、挨拶を交わそうとしたその刹那。
テーブルから滑り落ちそうになった携帯端末を、高橋さんが手元も見ずに、一切の無駄なく空中でキャッチした。流れるような手捌き。一切の迷いがない、完成された所作。
(……えっ?)
私の心拍が、突如として激しく打ち鳴らされる。
精神論や感情論が飛び交う泥臭い教育現場にいる私の日常に、一筋の透き通った青い閃光が突き刺さったようだった。
「紗代? どうしたの? 顔が真っ赤よ」
「……ちょっと、高橋さん!」
私は椅子を引き、テーブルに身を乗り出した。本来の審査など、すでに頭の隅に放り出していた。
「あなた、その無駄のない指先の動きの秘密、全部私に教えなさい! 今すぐ連絡先を。拒否権はないわよ!」
「ええっ!? ちょ、ちょっと待ってください、なんの話ですか? 話が飛びすぎですよ!」
狼狽する高橋さん。それまで端正な顔立ちを崩さなかった陽斗さんの肩が、不意に大きく揺れた。
「……くっ、ふふ……あはははは!」
我慢しきれないといった様子で、浅井さんが声を上げて笑い出した。
「あははは! 陽斗さん、見て! 二人とも、なんてお似合いなの!」
詩織の声も重なり、孤独を纏っていたはずの二人が、私たち親友が引き起こす騒ぎを前に、これ以上ないほど幸せそうに笑い声を響かせた。
「高橋、残念だったな。お前の想定を超える存在は、どうやらここにもいたらしい。……詩織、確かにこれは一つの正解だな」
陽斗さんは笑いすぎて少し潤んだ瞳を細め、隣で笑う詩織の手を、愛おしそうに握り直した。
だが、私はそれどころではない。目の前の洗練された動きの主を、絶対に逃すわけにはいかないのだ。
「……あの、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。さっき挨拶した時はあんなに普通だったじゃないですか! 僕、あなたの名前をさっき聞いたばかりなのに、いきなり連絡先なんて言われても……」
高橋さんが、引きつった笑みを浮かべながら小声で呟く。その戸惑った顔すら、今の私には新鮮な興味の対象にしか見えない。
「私は、詩織の同僚の数学教師の松本紗代! はい、改めて言いましたよ! 名前も職業も、詩織との関係も完全に開示したわ! さあ、今度はあなたの番よ。連絡先を教えなさい!」
「うわ、話の飛び方が凄すぎる……! 数学教師なら、もっとこう、なんて言うか、段階を踏んだ手順とかあるんじゃないんですか!? それに、いくら詩織さんの親友だからって、いきなり個人の番号を教えるのは心の準備ができていないというか……!」
必死に防衛線を張ろうとする高橋さんを、私はさらに目力で押し込む。
「手順なら今踏んだじゃない! 連絡先の交換は、お互いを知るための最短距離よ。いいから、出しなさい!」
「えっと、えっと……! 浅井さん、助けてください! このままだと僕、完全に押し切られちゃいますよ!」
高橋さんが、藁をも掴む思いで上司に救いの目を向けた。
だが、上機嫌な浅井さんは、どこか楽しげな笑みを浮かべて、短くこう言い放った。
「ガンバレー」
「ちょ、浅井さん!? 雑です! 応援が雑すぎますよ! 普段の的確な指示はどこに行ったんですか!」
上司に見捨てられた高橋さんは、最後の手として、詩織に向かって縋るように手を合わせた。
「詩織さん! さっきはあんなに優しく挨拶してくれたじゃないですか! 助けてください! 松本先生、ちょっと勢いが過ぎるっていうか、僕の意見を完全に無視してるんですよ!」
必死の形相で救援を請う高橋さん。
それを受けた詩織は、彼の方を向いて、とびきり優しく、そして元気な笑みを浮かべて握りこぶしを作った。
「高橋さん、ガンバっ!」
「……っ!? 詩織さんまで……! このテーブル、僕以外全員が敵なんですか!?」
絶望に染まる高橋さんと、彼を逃がすまいとさらに一歩踏み込む私。
春の旧居留地に、新しい『騒がしい日常』の足音が、一段と大きく響いていた。
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