第62話 白と彩りに揺れる午後 ~詩織視点~
三宮の喧騒を少し離れた路地裏。そこに、ひっそりと佇む完全予約制のブライダルサロンがある。
重厚な木製の扉を押し開けた瞬間、外の蒸し暑さは消え去り、淡いアイボリーと、どこか懐かしいバラの芳香に満たされた空間が私を迎えてくれた。
天井からは、幾千もの結晶を散りばめたシャンデリアが吊るされ、その光が壁一面に並んだドレスの海に反射している。シルク、オーガンジー、繊細なレース。それらが幾重にも重なり合い、まるで宝石箱をひっくり返したような眩い輝きを放っていた。
(いよいよ、今日という日が来てしまった……)
鏡に向き合う私の心臓は、朝からずっと高い鼓動を刻み続けている。
美術教師として教壇に立ち、多くの生徒たちの前で話す時でも、これほどまでに動揺することはないというのに。
視界に入るものすべてが非日常で、この空間に流れる時間そのものが、私の肌を優しく締め付けてくる。
そんな私の緊張をよそに、隣のフィッティングスペースでは、陽斗さんが試着している。
「よし。肩のラインも理想的だ。生地の重厚感、光沢の度合い、そして会場の調度品との親和性……。すべてにおいて計算通りだな。これでいい」
カーテンの向こうから現れた陽斗さんは、光沢を抑えたチャコールグレーのタキシードを、まるで誂えたかのような完璧さで着こなしていた。
彼は鏡の前で一度だけ襟元を整え、手元の時計を確認して、一切の迷いなく淡々と言い放つ。
「男の服選びなんて、選択肢を絞ればすぐに決まる。さあ、次は詩織の番だ。覚悟しておけよ。あっちの熱気は、俺の予測を遥かに超えている」
陽斗さんの視線の先。そこでは、主役であるはずの私を完全に蚊帳の外に置いて、二人の女性がドレスのラックを占拠していた。
私のお母さんと、陽斗さんの母である陽子さんだ。
先日、岡本の社長宅を訪れた帰り道。偶然にも二人が同い年だと判明した瞬間から、まるで数十年来の親友だったかのような距離感で打ち解けてしまった二人。
今ではもう、出会った当初の丁寧な言葉遣いなどはるか彼方に消え去り、すっかり意気投合してしまっている。
「ねえ見てよ、陽子さん! このAラインのドレス、清楚で詩織にぴったりだと思わない?」
「あら本当! 素敵ね、瑞穂さん。でも待って、こっちのマーメイドラインもしおちゃんのスタイルの良さを引き立てると思うのよ。このシルエット、絶対綺麗に決まるわ」
「それもそうね! あっ、でもこの胸元のレースは少しデザインが古めかしいかしら。刺繍の密度が今の流行りとは違うわね。ちょっと、詩織、ぼーっとしてないで、まずはこれとこれを試着室に持っていきなさい!」
お母さんと陽子さんの連携はあまりに完璧で、私の好みや意見を聞く隙なんて存在しない。
特に陽子さんに至っては、いつの間にか私を『しおちゃん』と呼び始め、本当の娘のように可愛がって……というよりは、新しい最高級の画材を見つけた少女のような無邪気さで楽しんでいる。
(……仲が良いのは本当に嬉しいけど、この勢いに飲み込まれそう。まさか陽斗さんのお母様が、私のお母さんと一緒になって私を『着せ替え人形』にして盛り上がるなんて。予想外の展開だわ)
有無を言わせぬ勢いで背中を押され、私はフィッティングルームへと押し込まれた。
重厚なカーテンが閉まり、スタッフの方々に囲まれて、一着目の準備が始まる。
まずは一着目。王道の純白のウェディングドレス。
ふわりとしたチュールが幾重にも重なり、歩くたびに雲の上にいるような不思議な感覚に陥る。
「……どうかな?」
カーテンを開けると、待ち構えていた二人の視線が鋭い鑑定士のように光った。
「うーん、悪くないけど……。詩織、なんだか袖のフリルがちょっと重たいわね。せっかくの若々しさが隠れちゃうわ。もう少し軽やかな方が、あなたの良さが出るんじゃない?」
「そうね。しおちゃんの綺麗な首筋が見えないのはもったいないわ。このデザインだと、せっかくのデコルテラインが死んでしまうわね。はい次、しおちゃん、これ着てみて!」
間髪入れずに差し出されたのは、二着目。都会的で洗練されたスレンダーライン。
シルクの光沢が、身体の線を艶やかに強調する。
「……これはどう?」
「あら、ちょっと落ち着きすぎかしら。これじゃあ学校で授業をしている時の詩織と変わらないじゃない。今日はもっと、特別な『花嫁さん』って感じがいいわ」
「同感だわ! 陽斗もそう思うわよね? もっとパッと華やぐ、これにしましょう!」
三着目、四着目……。
試着を繰り返すたびに、私の体力はみるみる削られていくけれど、二人のボルテージは下がるどころか上がる一方だ。
陽子さんは目を輝かせて、奥のラックから次々と新作を持って来るように頼んでいる。
「しおちゃん、次はこれ! このサテンの独特な光沢なら、格式高い教会でも絶対に見劣りしないわよ! むしろ、存在感があるわ」
「陽子さん、流石だわ! その視点はなかった。詩織、急いで着替えて!」
スタッフさんに手伝われながら、何度もドレスを脱ぎ着する。
鏡を見るたびに、美術教師としての自分がその素材の良さや造形美として納得しそうになるけれど、二人の「イメージと違う」という鶴の一声ですべてが却下されていく。
五着目を過ぎ、ようやく運命の一着に出会ったのは、予定の時間を大幅に過ぎた頃だった。
真っ白なシルクに、職人の手作業で施された繊細な刺繍。
光を孕んで柔らかく輝くそのドレスは、驚くほど私の身体に馴染み、鏡の中の自分を、今まで見たこともないような『誰か』に変えていた。
「まあ……! 綺麗じゃない。やっぱり私の目に狂いはなかったわ。詩織、これが一番あなたらしいわよ」
「本当、見違えるわね。ねえ陽斗、あなたも黙っていないで何か言いなさいな。さっきから置物みたいになってるわよ」
陽子さんに促され、ソファで二人の勢いに圧倒されていた陽斗さんがゆっくりと立ち上がった。
彼は真っ直ぐに私を見つめ、それから一歩だけ、静かに近づいてきた。
「……ああ。計算外だな。写真のカタログで見るのと実物では、光の反射率も存在感も全く違う。今の君は、どの美術品よりも価値がある。俺の妻になる女性として、申し分ない」
陽斗さんらしい、理系的で独特な賛辞。
それでも、その瞳に宿る熱い光と、隠しきれない賞賛の色に、私は耳まで熱くなる。
しかし、その甘い空気を陽子さんが一瞬で塗り替える。
「ちょっと陽斗! まーた、そんな小難しい理屈ばっかり言って。一言『綺麗だ』って、そう言いなさいよ。全く、誰に似たのかしらねえ。そんなんじゃ、しおちゃんに愛想を尽かされちゃうわよ」
陽子さんの呆れたような突っ込みに、私のお母さんも
「本当ね、陽斗さんは真面目なんだから」
と笑い転げている。
陽斗さんはバツが悪そうに視線を逸らしたが、その耳の先が少しだけ赤くなっているのを私は見逃さなかった。
彼なりの精一杯の言葉だということが、今の私にはよくわかる。
「さあ、安堵している暇はないわよ! 次は披露宴用のカラードレス! 仲人をお願いする社長夫人だって、あなたの晴れ姿を楽しみにしているんだから」
「そうよ。さっきの淡い青はイメージより少し印象が弱かったわね。次はもっと鮮やかな赤にしましょうか。それとも、神戸の海を思わせるエメラルドグリーンがいいかしら。ねえ、しおちゃん、次はこっちを試してみて!」
キャッキャッと楽しそうに笑い合いながら、新たなドレスの山を抱えてくる二人。
私は陽斗さんと視線を合わせると、心の底からの幸せを噛みしめながら微笑んでくれた。
(お母さんたちがこんなに楽しんでくれているなら、今日は一日中、着せ替え人形になってもいいかな。これも一つの、最高の親孝行なのかもしれないし)
窓から差し込む午後の柔らかな光を浴びながら、私は心地よい疲れを予感して、もう一度鏡の中の自分を見つめ直した。
岡本の空に誓った未来が、今、白と彩りの中で、誰にも壊せない確かな形となって動き出そうとしていた。
三宮の街に夕刻の影が忍び寄る頃、私たちの幸せな試着会は、まだ終わる気配を見せていなかった。
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