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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
最終章 砦の朝

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閑話 家庭訪問 ~社長視点~

 浅井君と瀬戸詩織さん。この若き二人が未来を誓い合い、互いの人生を重ね合わせるための拠点として選んだマンションの一室。そこへ、我ら三兄弟が事前の通告もなく『家庭訪問』という名の奇襲を仕掛けたのは、初夏の陽光が窓辺で眩しく踊る、穏やかな午後のことだった。


(ふむ、接待ゴルフの帰り道、つい足が向いてしまったが……。少々、年甲斐もなく悪戯心が過ぎたもしれんな。)


 私がインターホンのボタンを押し、レンズの向こう側で二人がどのような表情を浮かべるか、内心で少年のように期待を膨らませていた、その時である。


 

 数日前、浅井君と母上、そして詩織さんとご両親が共に私の邸宅へ仲人の正式な依頼に訪れた際の、あの気高くも凛とした彼女の姿が鮮明に脳裏をよぎる。

 しかし、直後にスピーカーから漏れ聞こえてきたのは、そんな私の優雅な推測を粉々に打ち砕く、動揺と混乱が渾然一体となった彼女の喉を震わせる絶叫であった。


 

「か、家庭訪問!? 陽斗さん、モニターに映っているのって、先日お世話になった青崎社長様よね……? でも、後ろに控えていらっしゃるお二人は……」


 その、裏返った高い声が室内の空気を切り裂く。隣にいた浅井君が、努めて冷静に事実を淡々と突きつける。


「ああ、うちの会社の専務と常務だ。……つまり、わが社の経営陣が勢揃いして、このマンションのエントランスに並んでいるということだな」


「えええっ!? しゃ、社長様だけじゃなくて、そんな凄く偉い人たちまで!? どうしよう、陽斗さん、私、今すごく汚い格好で……! あ、あわわ、片付けなきゃ、でもお茶も用意してないし、ううん、それよりまずはお迎えを……どうすればいいの!?」


 マイクが拾う「バタバタ」という、まるで戦場のような凄まじい足音。何かが激しく倒れる鈍い音に続き、「きゃっ、筆が! 絨毯が!」という短い悲鳴が響き渡る。

 

 モニター越しに伝わるこのパニックの極致に、私の背後で控えめに立っていた正二と勇三は、ついに耐えきれず、口元を必死に抑えて肩を激しく震わせ始めた。


「ははは! 正二、勇三、聞いたか。これほどまでに盛大、かつ情緒豊かな歓迎を受けるとはな。接待ゴルフの疲れなど、この一瞬で吹き飛ぶというものだ。これこそ家庭訪問の醍醐味だよ」


 私が小声で囁くと、専務の正二は目尻を下げて「兄さん、いくらなんでも悪戯が過ぎるよ。あのお嬢さんが気の毒だ」と苦笑しながらも、その瞳には隠しきれない愉快そうな色が宿っている。常務の勇三に至っては、噴き出しそうなのを懸命に堪えるため、あらぬ方向の壁を見つめて激しく咳払いを繰り返していた。


 

――――

 やがて、ようやく開いた扉の先で、我々三人が目にしたもの。

 

 浅井君の自宅は、ただ機能性のみを追求し、一切の無駄を排除した、理知的で一点の曇りもないだろうと勝手な想像をしていたのだが、いざ、中に入ると彼女の奔放で力強い感性が鮮やかに、そして情け容赦ないほど上書きした『創造の現場』そのものだった。

 

 リビングの特等席を堂々と占拠する巨大なイーゼル。床には使い込まれた絵具のチューブが色とりどりの宝石のように点在し、窓際を彩る乾燥途中の油彩の香りが、この場所が”生きている”ことを雄弁に物語っている。

 彼が独りで守り抜いていた、温度を感じさせぬ無機質な秩序は、今や彼女の生命力によって、温かくも騒がしい幸福な混乱へと変貌を遂げてたのだろう。


 その中心に立ち尽くす詩織さんは、顔を耳の付け根まで真っ赤に染め、我ら三人の前で直立不動の姿勢を取っていた。


「あ、あの……! 突然のお越しに、お見苦しいところをお見せしてしまって……! 本当に、本当に申し訳ありません!」


 懸命に腰を折って頭を下げる彼女だったが、その白く柔らかな頬には、鮮やかな紅色の絵具が一筋、まるで古の戦士が施す化粧のように力強く引かれている。その姿は、混乱の最中にあっても、彼女がいかに真剣にキャンバスに向き合っていたかを示す勲章のようでもあった。


「青崎様、先日はお忙しい中、お宅へ伺った私共を温かく迎えてくださり、本当にありがとうございました! 仲人の件も、本来であれば改めてこちらから御礼に伺うべきところを、このような……あわわ、筆も持ったまま失礼を……!」


 言葉が縺れ、今にもパニックで溶けてしまいそうな彼女に、私は豪快に笑って応えた。


「瀬戸さん、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。今日はこの弟たちが、君に会わせろとうるさくてな。紹介しよう、専務の正二と、常務の勇三だ。彼らも君たちの結婚式で祝辞と乾杯の挨拶をするんだよ。だから、君に挨拶をしておきたいと言い出してね」


「初めまして、瀬戸詩織と申します! どうぞ、今すぐ最高のお茶を……! 狭いところですが、どうか、どうかお掛けください!」


 詩織さんは半ばパニックを維持したまま、もてなさなければという一心で、我々をリビングのソファへと促す。しかし、そのあまりの主人気取りな慌てように、後ろで見守っていた浅井君が、眉間に指を当てて困惑したような、それでいてどこか嬉しそうな声音で横槍を入れた。


「……詩織。ここは元々俺の家だし、一応は今も俺の家なんだが。いつの間にか君が主人のような立ち振る舞いだな。それに、狭くなったのは、君がそこら中にイーゼルやら画材を並べているからだろう?」


「え……っ!? あ、あああ、そうでした! 陽斗さんのお家でした……! 私、舞い上がっちゃって、自分の家みたいな顔して……! ご、ごめんね、陽斗さん!」



  さらに混乱の深みにはまっていく詩織さんに、浅井君は観念したように首を振りのだが、その瞳には深い慈しみが湛えられていた。


「いいから、一旦落ち着け。……お茶の用意の前に、ほら、頬に赤い絵具がついているぞ。そんな気合の入った武人のような顔でお茶を淹れられては、役員たちも圧倒されてしまうだろう」


「え……? あ、ひゃああっ!? 嘘、鏡、鏡……! いつから!? 私、この顔でご挨拶を……! もう、お嫁に行けない……!」


 顔を覆って絶望の声を上げる詩織さんに、浅井君が呆れたように、間髪入れずに言葉を添える。


「何を言ってるんだ。もう数日前に社長宅へ伺って、仲人を引き受けていただいているだろう。……今更、手遅れだ」


 その冷静かつ情け容赦ないツッコミに、詩織さんはさらに顔を沸騰させるかのように真っ赤にして、その場でフリーズしてしまった。そのあまりにも素直で、裏表のない純粋な反応に、ついに堪え性が切れた正二と勇三が、盛大に笑い出した。


「ははは! 兄さん、浅井君があれほど甲斐甲斐しく世話を焼き、目を細めている理由がよくわかったよ。実に生命力に満ちた、そして何より愛らしいお嬢さんだ。彼の機能一点張りだった空間が、彼女の手によって温かい色彩に書き換えられたわけだ。まさに完璧な『修正プログラム』だな」


 正二が深く感心したように頷くと、洗面所から大急ぎで戻ってきた彼女が、浅井君が大切に保管していた秘蔵らしきコーヒー豆を丁寧に挽き始めた。リビングに広がる芳醇な香りと共に、焼き菓子が皿に並べられていく。その手元はまだ緊張で微かに震えていたが、差し出された一杯のコーヒーからは、彼女の誠実な人柄と、この場所への深い愛情がこれ以上ないほど伝わってきた。



 やがて、正二と勇三は彼女の描きかけのキャンバスや、机の上に無造作に置かれたスケッチブックに視線を落とし、一様に息を呑んで沈黙した。役員として数多の完成された美を見てきた彼らをも、一瞬で黙らせるだけの力が、そこには宿っていた。


「勇三、これを見ろ。あの理屈屋の塊だった浅井君の部屋が、こんなにも色彩豊かで、体温の感じられる場所に変化している。計算や論理、効率といった尺度では決して導き出せない、人生における最高の誤算だな。……いや、これは奇跡に近い変化だ。あんなに感情を表に出さなかった男が、これほど豊かな世界に身を置いているとは」


 正二が深く頷きながら、まるで名画を鑑賞するかのような真剣な眼差しで壁の絵を見つめれば、勇三も同意するように、優しく目を細める。


「本当だなぁ。瀬戸さん、あなたの絵には見る者の胸を直接叩き、魂を揺さぶるような、圧倒的な熱量が宿っているように感じるよ。浅井君が独りで築き、頑なに閉じこもっていた無機質な檻を、君が鮮やかな命の色で塗り替えてくれたのだな。この調和こそが、彼を『人間』として完成へと導いたんだろう。数字だけでは決して得られない、心の充足がここにある」


 その、重役二人からの最大級の賞賛を浴び、詩織さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった後、大きく目を見開いて、今にも震え出しそうな感極まった声で呟いた。


「……私の絵を、そんなふうに言ってくださるなんて。私、ただ、ここで陽斗さんと過ごす時間が楽しくて……それを忘れたくなくて、必死に描いていただけで……」


 専務の正二も追い打ちをかけるように、浅井君の肩を力強く叩いて、ニヤリと不敵に笑った。


「浅井君。君の世界にこれほどまでに力強い色彩が加わったのなら、次期マネージャー候補としてこれほど心強いことはない。技術だけではない、人の心を動かす『何か』を、君は彼女からしっかりと学び取っているようだな。実に見事な、そして素晴らしい化学反応だ。君のキャリアにとっても、これは最大の転換点になるだろう」


 浅井君が微かにだが、自信を持って表情を引き締め、「ありがとうございます。精進します」と深く頭を下げる。その隣で詩織さんが、まるで夢でも見ているかのように、自分の指先の絵具の跡を愛おしそうに見つめていた。


 私は、詩織さんが淹れてくれた、どこまでも香りの良いコーヒーを最後の一口まで啜り、この突発的な家庭訪問が、二人の明るい門出を祝う最高の仲人の仕事になったことを、確信を持って噛み締めていた。

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