第61話 岡本の空に誓う 〜陽斗視点〜
俺の愛車である、あの真っ白なスポーツカーでは今日という日を乗り切ることは不可能だ。四名乗りのために、詩織と、そのご両親、そして俺の母さんを詰め込むわけにはいかない。俺はあらかじめ、三宮駅のすぐ近くにある営業所で、乗り心地の良さと広さを重視したミニバンを借り出しておいた。普段の俺なら選ばない選択だ。
三宮駅近くの待ち合わせ場所。初夏の柔らかな日差しが降り注ぐ中、俺は借り出したばかりの車を停車させ、ハンドルを握る手にわずかな力を込めた。助手席の詩織が、窓の外を見て小さく声を上げる。
「あ、陽斗さん。あそこ」
彼女が指差す先に、正装に身を包んだ瀬戸夫妻と、俺の母さんの姿があった。俺たちは車を降り歩み寄る。
「初めまして。陽斗の母でございます。いつも息子がお世話になっております。本日はよろしくお願い申し上げます」
「こちらこそ、初めまして。詩織の父です。本日はこのような場を設けていただき、ありがとうございます」
三宮の喧騒を背に、両家の親たちが緊張の色を浮かべながらも丁寧に挨拶を交わす。その様子を横で見守りながら、俺は内心で安堵の溜息を漏らした。この顔合わせという最初のプロセスが、今後のプロジェクトの成否を分ける重要なフラグになるからだ。
「さあ、皆さん。車へどうぞ。岡本の青崎社長のご自宅へ向かいます」
俺がドアを開けると、後部座席に詩織のお父さんとお母さん、そして母さんが収まった。全員が乗り込んだのを確認し、俺は慎重に車を走らせる。国道を抜け、阪急岡本駅を北へ。そこから先は、急な坂道が続く山手へと入っていく。標高を上げるにつれて、重厚な石積みの塀や手入れの行き届いた庭木が並ぶ、落ち着いた邸宅街へと景色が変わっていった。
目的地である青崎邸は、その界隈でも際立って重厚な門構えをしていた。高く聳え立つ石壁に囲まれた敷地は、一区画を丸ごと占有しているかのような広大さだ。電動の重い門扉が開くと、そこには手入れの行き届いた広大な日本庭園が広がっていた。
案内された応接室は、天井が高く、選び抜かれた調度品が歴史の重みを語っていた。窓からは神戸の街並みと海が一望でき、ここが選ばれた者のみが許される場所であることを告げている。そこには、和やかな笑みを浮かべた青崎社長と、気品溢れる奥様が待っていた。
まずは、今日ここへ来た真の目的を果たさなければならない。俺は一人の男としての私を意識し、居住まいを正して青崎夫妻を見据えた。
「社長、並びに奥様。本日は突然の訪問にもかかわらず、親族共々快く迎えてくださり感謝いたします。先日、社長室にてお話しさせていただいた通り、私、浅井陽斗と瀬戸詩織は、この度入籍する運びとなりました」
俺は一度言葉を切り、深く、誠実さを込めて頭を下げた。
「改めて、私の社会人としての道標であり、最も尊敬する社長。さらに、常に温かく支えてくださる奥様に、私たちの仲人を務めていただきたく、正式にお願いに参りました。未熟な二人ではありますが、お二人のような、互いを尊重し合える家庭を築いていきたいと考えております。どうか、よろしくお願い申し上げます」
室内を、穏やかな空気が満たす。社長はゆっくりと頷き、俺の言葉を正面から受け止めてくれた。
「よろしい。浅井陽斗君、詩織さん。この大役、謹んでお引き受けしよう」
その力強い言葉に、詩織が、そして両家の親たちが深く安堵の息を吐く。それを見計らったかのように、社長が明るい声で続けた。
「さて、堅苦しい話はここまでだ。浅井君が大切なお客人を連れてくると聞いて、馴染みの料亭に腕を振るわせたんだ。移動も疲れただろう、まずは腹ごしらえといこうじゃないか」
場所を広々とした和室へ移すと、そこには神戸でも指折りの名門料亭から届けられたと思しき、贅を尽くした懐石料理の数々が並んでいた。美しい漆器に盛られた旬の食材が、目にも鮮やかだ。
食事が進み、場が和んできた頃、お父さんが感嘆したように邸内を見渡し、社長に問いかけた。
「しかし……これほどまでに立派なお宅は拝見したことがございません。失礼ながら、相当な歴史があるのでしょうね」
青崎社長は満足げに頷いた。
「この家は、曾祖父の代に建てられたものです。わが青崎家は代々、この神戸の地で新しい風を起こすことを生業としてきましてね。海運に始まり、紡績、不動産、そして現在のIT業……。興した事業はすべて成功させ、次代に繋ぐ。それが一族の矜持なのです」
さらりと言ってのける社長の言葉には、富を誇示するような厭味はなく、積み上げてきた歴史に対する絶対的な自負が宿っていた。単なる資産家という言葉では片付けられない、この街の礎を築いてきた者だけが持つ重み。
詩織や親たちも、その話に圧倒されながらも、真剣に耳を傾けていた。お父さんは深く感銘を受けた様子で言葉を継いだ。
「なるほど、代々の成功を支える哲学があるのですね。陽斗さんも、そんな社長の下で学べているのは本当に幸せなことです」
俺の母さんも、少し照れくさそうに笑いながら口を開く。
「本当に……陽斗は小さな頃から機械いじりばかりで、将来はどうなることかと心配しておりましたが、こうして素晴らしい上司の方に恵まれて。詩織さんと出会ってからの陽斗は、驚くほど表情が明るくなりましたのよ」
その言葉を受けて、詩織のお母さんも微笑む。
「詩織も同じですわ。陽斗さんのことをお話しするときの娘は、本当に幸せそうで。今日、こうして皆様と食卓を囲めることが夢のようです」
社長夫人は、そんな家族たちの話を微笑みながら聞きつつ、詩織に穏やかな視線を向けた。
「本当に、浅井さんは真っ直ぐな方なのね。主人からはもちろん、義弟の専務や常務が家に遊びに来るたびに、いつもお名前を聞いておりましたのよ。一切の無駄を省き、感情に左右されず完璧な仕事を完遂する優秀な若手がいるって。でも、そんな彼が最近は随分と表情が和らいだと、三人が本当に嬉しそうに話していたのよ」
奥様はそう言って、優しく言葉を重ねる。
「今日、詩織さんにお会いして得心がいきましたわ。浅井さんがこれほど真剣な眼差しで、大切な報告にいらした。あなたの存在が、彼にとって仕事以上に守るべきものになった証拠なのですものね。とても素敵なご縁だわ」
「……はい。彼はとても、不器用で温かい人です」
詩織の迷いのない言葉に、俺の胸は熱い衝動で満たされた。
そんな感動的な空気が流れる中、お父さんが少しお酒が入って上機嫌になったのか、ふふっと笑い出した。
「いやあ、詩織も昔はひどかったんですよ。幼稚園の頃なんて、お気に入りのお人形の顔に油性マジックで『お化粧の練習』だとか言って、歌舞伎の隈取みたいにしてしまって……。あれを見た時は、将来は画家か何かにでもなるのかと思いましたが、まさか本当に美術の先生になるとはねえ」
「お父さん! ちょっと、何言ってるの!」
詩織が顔を真っ赤にして、慌ててお父さんの口を両手で押さえた。お父さんは「おっと、これは失礼」と目を丸くし、一同からどっと笑いが沸き起こる。
「わっはっは! それは面白い。浅井君、君のパートナーもなかなかの芸術的センスを秘めていたわけだ」
社長の豪快な笑い声に、室内は一層和やかな雰囲気に包まれた。
「披露宴では、君の不屈の精神について、私からたっぷりと披露させてもらうからな。弟たちも今から手ぐすね引いて待っているぞ」
社長のユーモア溢れる言葉に、俺は思わず苦笑を漏らした。やはり、あの青崎三兄弟のネットワークを完全に遮断することは不可能であったらしい。
帰り道。岡本駅へと続く下り坂、レンタカーの車内には温かな空気が満ちていた。夕陽が神戸の港を黄金色に染め、潮風が山の手まで届く。これでようやく、人生最大のプロジェクトが本格的に始動する。俺はバックミラー越しに微笑む家族たちの姿を確認し、横で安堵の表情を見せる詩織の手を、これまで以上に強く握り締めた。
岡本の美しい街並みの中、俺たちの確かな未来が、今ここから動き出した。
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