第60話 幸福なる包囲網 ~陽斗視点~
三宮の街並みを眼下に見下ろす自社ビルの最上階。重厚な木目調の扉を前に、俺は一度、深く息を吐いてからノックを刻んだ。
普段なら、簡潔な進捗報告を携え、数分で退室する場所だ。しかし、今日の俺の胸中にあるのは、どんな仕事の成果よりも温かい事実だ。
「失礼します、社長。浅井です」
入室の許可を得て足を踏み入れると、そこには実の兄弟である社長と専務が並んで座っていた。机の上には書類が広げられているが、俺の姿を認めるなり、二人は筆を置いて顔を上げた。
「おお、浅井君か。今日はなんだか顔つきが晴れやかじゃないか。何か良いことでもあったのか?」
社長が快活に笑い、専務もまた探るような視線をこちらへ向ける。俺は居住まいを正し、真っ直ぐに二人の視線を見据えた。
「本日は、個人的なご報告に参りました。先日、以前よりお付き合いしておりました瀬戸詩織さんと、正式に婚約を交わしました。私を信じ、居場所をくださったお二人には、真っ先に筋を通したく存じます」
一瞬の沈黙。直後、社長と専務は顔を見合わせると、同時に相好を崩した。
「……そうか! ついにやったか! あの君が、一生を共にしたいと思える女性に出会えたのだな」
「兄さん、聞いたかい? あの無味乾燥だった彼の生活に、ついに春が来たんだ。これは我が社にとっても、歴史的な快挙だよ」
二人は身を乗り出し、自分のことのように喜び始めた。その様子に、俺の胸の奥がじんわりと熱くなる。以前、貝村興産という砂上の楼閣にいた頃の俺なら、こんな風に誰かに私生活の幸せを報告し、共に喜ぶ日が来るなんて想像もできなかっただろう。
「……お聞き届けいただき、感謝いたします。ただ、一点お願いがございます。部署内や周囲には、まだ私自身の口から適切な時期に伝えたいと考えております。ですので、お二人とも、どうか他言は無用にお願いいたします」
俺が念を押すと、社長はニヤニヤとした笑みを浮かべたまま頷いた。
「分かっているとも。私は口の堅さには自信がある。なあ、専務?」
「ええ。他人に言いふらすなんて、そんな野暮な真似はしませんよ。……おや、ちょうどいいところに来ましたね」
専務の視線の先、ノックの音と共に扉が開いた。現れたのは、本来この話を知るはずのない常務だった。
あぁ、三兄弟が揃ってしまった。
「社長、例の件で至急確認したいことが……おや、浅井君じゃないか。何か重要な会議中だったかな?」
常務は手に資料を抱え、不思議そうにこちらを見た。そこで切り上げればよかったのだが、専務がニヤリと口角を上げた。
「常務。今、浅井君から『人生における最も重要な契約』についての報告を受けていたところなんですよ」
「人生における……契約?」
常務が首を傾げる。専務のあからさまな匂わせに、俺はこめかみが引き攣るのを感じた。このままでは妙な憶測を呼び、余計な騒ぎになりかねない。俺は覚悟を決め、常務に向き直った。
「……常務。実は、以前からお付き合いしていた方と婚約いたしました。まだ公にする段階ではありませんので、ご内密にお願いしたく存じます」
一瞬、常務は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、次の瞬間、資料を机に放り出す勢いで俺に詰め寄った。
「何だと!? あの浅井君が、ついに結婚を決めたのか! いやぁ~、これはめでたい! 今日一番の吉報じゃないか!」
「常務! 声が大きすぎます!」
俺の制止などどこ吹く風。常務は俺の肩を力強く叩き、その顔を上気させて喜んでいる。この時点で、俺の『極秘報告』は、経営陣という名の強固な包囲網によって完全に掌握されてしまった。
――――
定時を告げるチャイムがフロアに響き渡る。
俺は正確に作業を切り上げ、鞄を手に立ち上がった。一刻も早くこの場を離れ、詩織に会いたかった。今の俺にとって、彼女と過ごす時間は、明日への何よりの糧なのだ。
「お疲れ様っす、浅井さん。今日、なんか変に落ち着かない様子でしたけど、大丈夫っすか?」
隣の席の高橋が、心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「いや、何でもない。先に失礼する」
そう言って歩き出そうとした瞬間、フロアの入り口がにわかに騒がしくなった。
視線の向こう、およそこの部署には似つかわしくない人物たちが立っていた。社長、専務、および常務。会社の頂点に立つ三人が、揃って俺の部署に足を踏み入れてきたのだ。
「あっ……社長? なぜ、わざわざこちらへ」
「ちょっとな。おぉ、いたいた。間に合ったようだな」
フロア中の社員が作業を止め、呆然として彼らを見つめている。そんな空気の中、社長は一直線に俺のもとへ歩み寄り、逃がさないと言わんばかりに腕を組んだ。
「浅井君、今夜は空いているな? 祝いだ。北野の馴染みの店を予約してある。断ることは許さんぞ」
社長の朗々たる声が、静まり返ったフロアに響き渡った。
「い、いや、あの、帰りますので……。今日はどうしても外せない用事があるんです」
俺が必死に抵抗し、脇を抜けようとした、その刹那。
専務が俺の隣に並び、周囲には聞こえないほどの極めて低い声で囁いた。
「……いいのかな? ここで我々の誘いを無下にするなら、明日の朝礼で、君がどれほど彼女を熱烈に愛しているか、私がうっかりと全社員の前で話してしまうかもしれないなぁ」
俺の心臓が、一瞬で跳ね上がった。
この人たちは、俺が何を一番恐れているかを完璧に理解している。ここで拒否を貫けば、明日には全社員の前で、俺のプライベートが白日の下に晒されることになる。
「……分かりました。行けばいいんでしょう、行けば!」
俺の降伏宣言を聞くやいなや、社長は「よし!」と声を上げ、俺の肩を抱き寄せた。
「よし、行こう! 浅井君、今夜は君の門出を祝して、最高の酒を酌み交わそうじゃないか!」
三人の重役に囲まれ、拉致されるようにフロアを去る俺の姿を、高橋たちが驚いた表情で見送っている。
「……おい、浅井さんが社長たちに連行されていったぞ」
「一体、何が起きたんだ? 浅井さん、何かとんでもない不祥事でも起こしたのか?」
「いや、待てよ。社長、いま『祝いだ』って言わなかったか? それに『門出』って?」
「祝い? 浅井さんの祝いってなんだ? 特大の受注か、それとも昇進か!?」
背後で飛び交うあらぬ憶測と期待に、俺は胃のあたりが重くなるのを感じたが、もはや抗う術はなかった。
――――
連れて行かれたのは、北野の高台に佇む、会員制の高級料亭だった。
外を歩けば、異人館の街並みにしっとりと夜霧が降り立ち、北野坂の街灯が幻想的な色彩を投げかけている。
「さあ、飲め! 今日は無礼講だ」
社長が最高級の日本酒を惜しげもなく注ぐ。座敷という密室に入った瞬間、三人の口調は一変した。
「兄さん、注ぎすぎだよ。浅井君が困ってるだろ」
専務が苦笑しながら、自分のグラスを社長に向けた。
「いいじゃないか。今日はめでたいんだ。お前もそう思うだろ?」
「もちろん。俺も混ぜてくれよ。浅井君、兄貴たちは相変わらず強引だけど、今日は勘弁してやってくれ。みんな本当に嬉しいんだよ」
常務が末っ子らしい気楽さで笑い、俺の隣に腰を下ろした。
「さあ浅井君。白状しろ。一体どこで、どんな風に彼女と出会ったんだ?」
専務がニヤリと口角を上げ、俺の顔を覗き込む。
「兄貴、そりゃ野暮だよ。……でも、確かに気になるな。あんなに頑なで、効率という鎧に閉じこもっていた君をこれほど変えた女性だ。馴れ初めから何から、隠さずにすべて答えてもらおうか」
彼ら三兄弟には、あの日、俺と詩織の窮地を救ってもらった計り知れない恩がある。社長が「光を護ることは、我が社にとっても当然の投資だ」と言い切り、専務が「君の心を守るためなら、弁護士の一人や二人、いくらでも使いなさい」と背中を押してくれたからこそ、今の俺と詩織があるのだ。
(……専務、そんなことまで聞いてくるのか。だが、この三兄弟には足を向けて寝られないほどの恩がある。社長があの日、詩織を護るために動いてくれなければ、今の俺たちはなかった。彼らがただの経営層ではなく、本当の意味で俺の居場所を護ってくれた家族のような存在だと知った今、隠し立てする理由なんてどこにもないな)
俺は覚悟を決め、グラスを傾けた。透明な液体を喉に流し込むと、アルコールの熱が全身を巡り、強張っていた心が解けていく。
「始まりは……北野の坂の上、窓際にいた彼女の影を見つけたことでした。……それから、諏訪山の瞬くような光を、二人で見上げました」
あの日、前の会社を理不尽に追われ、絶望の底で死んだ魚のような目をしていた俺に、光を与えてくれたのは詩織だった。そして、その光が消えないように、物理的にも法的にも鉄壁の布陣で守り抜いてくれたのは、目の前にいるこの三兄弟なのだ。
「ほう、窓際の影か。ロマンチックじゃないか。それで? その後はどうしたんだ」
社長が身を乗り出して尋ねる。俺は、夜の北野での再会、自販機の明かりの下で震えていた彼女の姿、ヴィーナスブリッジで投げかけた言葉のすべてを語った。
「最低な言い草ですよね。でも、彼女はその言葉から逃げなかった。……内定を勝ち取ったとき、真っ先に報告したのも彼女でした。アトリエの狭いキッチンで、不器用なりに鶏肉を焼いて、二人で安物の缶ビールを空けて。……あの時間は、どんな贅沢よりも価値がありました」
「……そうか。二人で泥臭い道を歩んできたんだな」
専務がしみじみと頷き、自身のグラスを重ねる。
「一度は自分の弱さが怖くなって、彼女を突き放し、拒絶してしまったこともありました。ですが、彼女がいない生活は、ただの墓場に思えるほど寒かった。結局、なりふり構わず学校まで走って、門の前で何時間も待ち続けて……。汗と泥にまみれた俺の手を、彼女は握り返してくれたんです」
三人は黙って俺の話を聞いていた。時折、互いに顔を見合わせ、深く頷きながら、まるで自分の若い頃を思い返すような優しい表情を見せていた。
「……浅井君。君は良い女性を選んだよ。いや、彼女が君を選んでくれたんだな」
社長が空になった俺のグラスに、今度はゆっくりと酒を注いでくれる。
「兄貴、俺も一杯くれよ。浅井君、君の話を聞いて確信した。君たちの縁は、この神戸の街が引き合わせた本物だ」
常務がそう言って笑うと、社長も満足そうに頷く。
「全くだ。浅井君。君が瀬戸さんのために見せた執念、彼女が君に与えた勇気。それは我が社の誇りでもある。これからも、彼女を、そして君自身の幸せを一番に考えるんだぞ」
次々に注がれる最高級の酒と、三人の包み込むような温かな言葉。
これまでの苦悩も、不当な扱いに耐えた日々も、すべてがこの瞬間のためにあったのではないかと思えるほど、胸のつかえが取れていくのを感じる。
「……ありがとうございます。今の私がエンジニアとして前を向けているのは、彼女という光があったからです。そして、その光を消さないために力を貸してくださったお三方には、感謝してもしきれません。……あの時、専務が警備員を手配し、タクシーチケットを握らせて背中を押してくれなければ、私は彼女を抱きしめることができなかったと思います」
「よせよ、それは君の実力だ」
専務が照れくさそうに顔を背ける。
「いや、兄貴。兄貴のあの機転は、うちの社風そのものじゃないか。浅井君、兄貴は、ああ見えて、君が瀬戸さんの元へ向かった後、『彼は我が社の宝だ』と何度も言っていたんだぞ」
常務の暴露に、専務はさらに顔を赤くし、社長は愉快そうに声を上げて笑った。
「……本当に、ありがとうございました」
俺は再びグラスを傾けた。
以前、俺を道具のように扱い、その心を壊そうとした連中とは違う。この人たちは、俺という一人の人間の幸せを、家族のように心から喜んでくれている。
明日、会社で高橋にどのような釈明をすべきか考えると頭が痛いが、重役たちの賑やかな笑い声に包まれながら、俺は自分の口元がわずかに緩んでいることに気づいた。
窓の外、神戸の街はどこまでも鮮やかに輝き、俺たちの新しい未来を祝福しているようだった。
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