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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
最終章 砦の朝

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第59話 虹の架け橋 ~詩織視点~

「ねぇねぇ、陽斗さん。明日は久しぶりに、山の上からスケッチをしたいなって思ってるんだけど」


 金曜日の夜。陽斗さんの部屋で、明日の予定を相談していた時のことだ。私の言葉に、陽斗さんはノートパソコンの画面に向けていた視線をこちらへ戻し、少し不思議そうに首を傾げた。


「山か? 六甲山の方は車で通りかかることもあるが……。具体的にどこか、おすすめの場所でもあるのか?」


「掬星台へ行きたいの。あそこから見下ろす神戸の街並みと、空の境界線を、今の私の感性で捉え直してみたいと思って。陽斗さんは、行ったことないの?」


「きくせいだい……? すまない、名前すら初めて聞いた。有名な場所なのか?」


(あんなに綺麗な場所なのに、陽斗さんは知らなかったのね……)


 私は、彼の中にまだ私の知らない空白があることに、どこか喜びを感じながら微笑んだ。


「ええ。手で星を(すく)えるほど夜景が綺麗だと言われている、本当に素敵な展望台なの。以前、学校の美術部の顧問として、由紀ちゃんや香奈ちゃんたちと一緒に写生会で行ったことがあって。生徒たちが夢中で鉛筆を動かしている横で、私もいつか大切な人とここへ来たいなって、ずっと思ってたの」


「美術部の生徒たちと……。そうか、詩織にとっては思い出の場所なんだな。よし、分かった。すぐに行き方を調べる」


 陽斗さんはそう言うと、手慣れた手つきで検索を始めた。彼はいつだって、私の願いを叶えるために最善の準備を整えてくれる。

 だが、画面をスクロールしていた陽斗さんの指が、ふと止まる。


「……待てよ。詩織、これを見てくれ」


(陽斗さん……?)


 画面を凝視する彼の瞳が、見る間に知的な熱を帯びていく。


「摩耶ケーブル……三宮からバスで繋がっている駅があるらしいんだが、最大勾配が二十九度もあるそうだ。二十九度といったら、スキーのジャンプ競技の助走路に近い傾斜だぞ。この急斜面をレールの上でどう制御し、動力を伝えているのか……」


 陽斗さんは画面に吸い込まれそうな勢いで、さらに情報を読み取っていく。


「俺、ケーブルカーというものに一度も乗ったことがないんだ。これまでの生活では、目的地に最短で行くことしか考えていなかったからな」


 聞けば、以前の婚約者だった浩美さんや今までの元カノたちとの外出は、常に効率を重視した車移動ばかりで、こうした公共交通機関に揺られるという発想自体が皆無だったという。


「行きましょうよ、陽斗さん。その二十九度を一緒に体感しに行きませんか?」


 私の提案に、陽斗さんは「いいのか?」と確認するように私を見つめ、それから子供のように顔を綻ばせた。



――――

 明けて翌日。私たちは三宮からバスに乗り継ぎ、摩耶ケーブル下駅へと降り立った。

 大正時代からの歴史を刻む駅舎を目にした瞬間、陽斗さんの関心は既に最高潮に達していた。


「見てくれ、詩織。あの軌道の真ん中にある滑車を。あんな単純で力強い機構が、重力に抗って車両を引き上げているんだ。この太い鋼鉄のワイヤー一本に、乗客の命と数トンの鉄塊が委ねられている……」


 ホームに入ってきた色彩鮮やかな車両に、陽斗さんは吸い寄せられるように近づいていく。


「工学的な観点から見ても、これほど無駄がなく、信頼性の高いシステムは他にないぞ」


 普段は落ち着いた振る舞いの彼が、車両の下部を食い入るように見つめたり、急勾配を見上げて「なるほど、車輪のフランジ構造が……」と独り言を漏らしている。その姿に、私の胸の奥が熱くなる。


 ガタン、と車体が音を立て、ゆっくりと斜面を滑り出す。

 ぐんぐんと高度を上げ、木々のトンネルを抜けるたび、陽斗さんは窓にかじりつくようにして外を見つめていた。


「すごいな……、窓の外の木々が斜めに生えているように見える。いや、俺たちのほうが傾いているのか。詩織、この感覚、物理的な負荷を肌で感じるぞ。それに、この単線の中央ですれ違う瞬間の挙動!」


 陽斗さんは興奮を抑えきれない様子で、窓の外を指さした。前方から、鮮やかな青色を基調とした別の車両が近づいてくる。


「単線なのにどうやって衝突を避けるのかと思えば、この中間地点だけ線路が分かれているんだな。正確には『単線二両交走式』という方式か。一本の線路の途中に、この『行き違い場所』を設けているんだな」


 上下の車両が同時に動き出し、真ん中の交換所で互いをかわす。その精緻な動きに、彼は目を細めた。


「見てくれ、あちらが一号車の『ゆめあじさい』、そして今俺たちが乗っているのが二号車の『にじあじさい』か。緻密に計算された設計が物理現象として顕現している。これは、単なる移動手段じゃない。芸術に近いシステムだ」


「ふふっ、陽斗さん、落ち着いて。でも、そんなに喜んでもらえるなんて。生徒たちと来た時も賑やかだったけれど、陽斗さんの反応はそれ以上に新鮮だわ」


(浩美さんたちといた時の陽斗さんは、きっとこんな風に無邪気な一面を見せる余裕もなかったんでしょうね……)


 虹の駅でケーブルカーを降り、そこから摩耶ロープウェーへと乗り継ぐ。

 今度は地面から離れ、宙を舞うような感覚。搬器が支柱を通過するたびに起こる小さな揺れにさえ、陽斗さんは興味津々の様子だった。


 ロープウェイが星の駅に到着し、私たちは昼前、ついに掬星台へと降り立った。

 展望台に立つと、目の前には視界を遮るもののない、圧倒的なパノラマが広がっている。


「……陽斗さん、見て。あんなに遠くまで」


 私は息を呑み、スケッチブックを開くのも忘れて眼下の景色に見入った。

 だが、私の隣に立つ陽斗さんは、景色よりもまず、今自分たちをここまで運んできたロープウェイの巨大な滑車を見上げていた。


「詩織、連れてきてくれてありがとう。車で来れば数十分の道のりだが、重力に逆らい、一歩ずつ高度を稼いでいくこの工程そのものが、俺にとっては何よりの贅沢だったよ」


 陽斗さんはそう言うと、満足げに周囲の山々を見渡した。


「詩織が教えてくれなければ、俺はこの場所も、この感動も一生知らずに終わっていたよ」


 そう言って私を見つめた彼の瞳には、かつての投げやりな影などは微塵もなく、新しい世界を知った喜びだけが満ち溢れていた。


 

 展望台に到着してからも、陽斗さんの興奮は収まるどころか、むしろ加速しているようだった。

 私がベンチに座り、広大な景色を前にスケッチブックを広げたのだが、陽斗さんはといえば、展望台の端から端まで歩き回り、感嘆の声を上げ続けている。


「詩織、あそこを見てくれ。ポートアイランドから神戸空港、さらにその先の海の色が変わっていくのがはっきりと分かる。地形の起伏がこれほどダイレクトに視覚化される場所があるなんて……」


 陽斗さんは立ち止まり、じっと一点を見つめる。


「ここの標高から計算すると、水平線までの距離は約百キロメートルか。この圧倒的な情報量は、モニター越しでは絶対に得られないものだな」


 彼はスマートフォンのカメラを構えるのも忘れ、双眼鏡を覗き込んだり、方位磁石のアプリを確認したりと、まるで測量調査に来た専門家のような熱心さだ。

 

 美術部の生徒たちを連れてきた時は、みんな綺麗、すごいと歓声を上げながら自撮りをし合っていたけれど、陽斗さんも同様だった。


「ふふっ、陽斗さん。スケッチをする私の横で、そんなに楽しそうに動き回られたら、なんだか陽斗さんの方をメインに描きたくなっちゃいます」


「え……ああ、ごめん」


 陽斗さんは少し気恥ずかしそうに頭を掻いた。


「つい夢中になったよ。でも、本当に……俺は今まで、この街の本当の美しさを何も知らなかったんだな」


 ようやく我に返ったように、陽斗さんはスマートフォンを取り出してパノラマ撮影を始めた。画面を確認しながら何度も頷き、照れたように笑って私の隣に座り、私が描き上げるまで、ずっと山頂の空気を味わっていた。


 

 だが、陽斗さんの掬星台熱は、山を降りてからも冷めることはなかった。


 その日の夜、帰宅して夕食を済ませた後。

 リビングでくつろいでいると、陽斗さんが再びスマートフォンと睨めっこしながら、ワクワクした様子で語りかけてきた。


「詩織、さっき調べて分かったんだが。今日乗ったあのケーブルカー、実は日本で三番目に古い歴史を持つ路線なんだそうだ。あのレトロな駅舎の造形にも、当時の最先端技術への誇りが込められていたんだな」


「まあ、そうだったの?」


「それだけじゃないぞ。掬星台の名前の由来だが、標高約七百メートルのあの位置からだと、空気が澄んでいる冬場には、街の明かりが本当に星のように近くに見えるらしい」


 陽斗さんはさらに画面をスクロールし、私のほうへ向けた。


「今日見た昼間の景色も素晴らしかったが、夜の光の屈折率を考えると……」


(陽斗さん、まだ調べているのね……ふふっ)


 陽斗さんは画面に表示された図解や歴史的な資料を私に見せながら、発見したばかりの知識を嬉しそうに教えてくれる。

 今まで、システムエンジニアとして論理的な正解だけを求めてきた彼が、私と一緒に見た景色を、こうして一つずつ裏付けしていく。その過程そのものが、彼にとっては新しい世界との繋がり方なのだと思う。


「次は、夜景を見にまた行こう。光の密度が今日とは全く違うはずだ。その時は、防寒対策を完璧にして……」


 饒舌に語り続ける彼の隣で、私は完成したばかりのスケッチを眺めた。

 そこには、神戸の街並みとともに、誰よりも無邪気に山頂を楽しんでいた、愛しい人の心の色彩が残っていた。


(陽斗さんが初めて知る世界を、これからは全部、私と一緒に塗り替えていけたらいいな……)


 私は彼の手をそっと握りしめ、幸せな予感に包まれながら、次の計画を立てる彼の声に、優しく相槌を打った。

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