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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
最終章 砦の朝

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第58話 潮騒の家 ~陽斗視点~

 詩織の両親という、俺の人生において最も攻略困難だと思われた巨大な防壁。それを真正面から突破し、正式な承諾という名の尊い誓約を交わした数日後のことだ。

 俺の胸の内には、単なる安堵とは質の異なる、もっと切実で、焦燥にも似た熱が燻っていた。

 垂水の海に近い、潮風の香りが歳月とともに石壁の隙間にまで染み付いた俺の実家。そこに、俺の人生の価値観を根底から変えてしまったこの女性を引き合わせなければならない。その事実が、俺という個体を、これまでにない強烈な衝動で突き動かしていた。


 俺は、実家を訪ねる二日前の金曜日、母の携帯電話を呼び出した。


「……ああ、母さん。明後日の日曜、結婚したいと思っている女性を連れて行く。昼前には着くようにするから、時間を空けておいてくれ」


 受話器の向こうで、母が息を呑む声。その瞬間の沈黙は、まるで世界の時間が停止したかのような錯覚を覚えるほど長く感じた。


「え……? 陽斗、あんた今、なんて言ったの? 結婚? 連れてくるって……明後日なの!?」


 父を亡くして以来、古びた石造りの家の中で一人、静かに余生を過ごしてきた母にとって、その報告は、穏やかな水面に巨大な岩を投げ込まれたような激震だったはずだ。


「ちょっと待ちなさいよ! 掃除もしてないし、お花だって……ああもう、お出しするお菓子も用意しなきゃいけないのに、何から手をつけたらいいのかさっぱり分からないわ! あんた、どうしていつもそうなの! もっと早く言いなさいよ!」


 受話器越しでも痛いほど伝わってくる母のパニック。なりふり構わず息子を怒鳴りつけるようなその激しい口調こそが、俺にとっては慣れ親しんだ、血の通った母の言葉だった。


 

 日曜の朝、坂を下るにつれて潮の香りが重く立ち込め、潮風に晒されて色褪せた石造りの門が見えた。隣で歩く詩織が、小さく呼吸を整える気配が伝わってくる。

 

 玄関の扉が開いた瞬間、そこには、二日間一睡もせず、家中の埃を掃き清めていたのではないかと思わせるほど、青白い顔で立ち尽くす母の姿があった。

 

 母は、俺の隣に立つ詩織を見た瞬間、文字通り石のように硬直した。目を見開き、言葉を発することさえ忘れ、ただ呆然と、詩織という存在を網膜に焼き付けているかのようだ。

 

 一人っ子である俺が、いつか連れてくるかもしれない、あるいは一生連れてこないかもしれない連れ添いという存在。それに対し、母が心の奥底で密かに抱いていた、ある種の諦めにも似た予感を、詩織の放つ眩い光が一瞬で焼き切ったのだ。


「初めまして。瀬戸詩織と申します」


 詩織が、あのひだまりのような眩いまでの微笑みを湛えて深々と頭を下げた。その刹那だった。母の顔に、血の気が一気に戻った。


「……まぁ、まぁ! なんて、なんて綺麗な方なの……! 陽斗、あんた、本当にこの方と……?」


 母の手が、詩織の細い指先に触れ、そして確信を得たように強く握りしめられる。先ほどまでの狼狽が嘘のように、母の口元は歓喜の形に歪んでいった。


「夢じゃないわよね……? ああ、本当に、よく来てくださいました。陽斗には、勿体ないくらい、本当に素敵な方だわ……!」


 母は舞い上がる心を落ち着かせる間もなく、詩織の手を引くようにして家の中へと招き入れた。


「さあ、立ち話も何ですから。こちらへ……」


 母が詩織を導くようにして促し、向かったのは廊下の奥にある客間だった。

 父が存命だった頃には客人を招く場として誇り高く保たれていたが、独り身となった母にとっては、管理の手間と寂寥感だけが残る重い空間となっていた場所。その扉が今、詩織を迎えるために、母の手によって再び開かれた。

 

「お邪魔いたします」


 詩織が客間の敷居を跨ぐ。

 窓からは柔らかい陽光が差し込み、磨き上げられた古い机が鈍い光を放っている。母は詩織を最も格式高い席へと案内し、淹れ立てのお茶を差し出す。

 詩織は座布団に深く腰を下ろすと、居住まいを正し、改めて母の瞳を真っ直ぐに見つめて口を開いた。


「お母様、改めまして自己紹介をさせてください。私は現在、この神戸の北野にあります私立芸術高校で、美術教師を務めております」


 母はお茶を運ぶ手を止め、驚きに目を見張った。


「まあ、北野の……あそこは芸術教育にとても熱心な、伝統あるお嬢様学校じゃない。近所の娘さんもそこに通っていてね、いつも素敵な制服姿をお見かけしているのよ。その学校で先生をされているなんて……」


 母の言葉から、少しずつ余計な壁が取り払われていく。丁寧だった敬語が崩れ、心の距離が縮まっていくのが手に取るように分かった。


「ええ。純粋に美を追い求める生徒たちと向き合う日々は、私にとっても至福の時間でした。ですが、どうしても自分自身の表現を突き詰めたいという情熱が抑えきれず……。学校を休職させていただき、パリへ留学してまいりました」


「学校を休職してまで、パリへ……」


 母は感嘆の溜息を漏らし、詩織という女性の内に秘められた決意の強さを噛み締めるように頷いた。


「あちらの街に溢れる光、長い歴史が育んできた芸術の息吹を肌で感じ、ただひたすらにキャンバスと向き合い続けた時間は、私の人生にとってかけがえのない宝物となりました。今はこうして、陽斗さんと出会えた幸福を噛み締めております」


 詩織の語る言葉一つひとつが、静まり返っていた客間の空気を華やかに、そして瑞々しく塗り替えていく。母は身を乗り出すようにして、彼女の放つ熱量に聞き入っていた。


「休職してまで海を渡り、研鑽を積んでこられたのね。詩織さんのその柔らかな微笑みの奥には、そんなに強い意志と情熱が秘められていたなんて。陽斗から聞く以上に、あなたは本当に奥の深い人だわ。なんだか、他人とは思えないくらい惹き込まれちゃう」


 母の緊張は、詩織の歩んできた物語への敬意と、彼女自身の持つ温かな抱擁力によって、完全に溶け去っていた。


 客間に落ち着いてからの時間は、驚くほど滑らかに流れていった。母の変貌ぶりは、息子である俺ですら言葉を失うほどだった。


「陽斗はね、小さい頃から本当に可愛げのない子で。こっちが構おうとしても、すぐ自分の殻に閉じこもっちゃうし、もう手がかかって仕方がなかったのよ。いつも難しい顔して本ばかり読んでいて、何を考えているのかさっぱり分からない子供だったわ」


 あんなに人見知りだった母が、まるで実の娘を得たかのような饒舌さで、俺の幼少期の失敗談を次から次へと披露し始めた。


「大人になってもこれでしょう? 変に理屈っぽくて、周りの気持ちなんてお構いなし。詩織さん、こんな扱いにくい男と一緒にいて、疲れない? 本当に、よく我慢してくれてるわ」


 母は、俺という存在が、二人の親密さを深めるための、格好の素材へと成り下がっていくのを、俺はなんとなく誇らしい気持ちで受け入れていた。


「ふふっ、今の陽斗さんからは想像もつきませんね」


 詩織は楽しげな相槌を絶妙なタイミングで挟みながら、俺の過去の断片を、まるで自分の人生の一部であるかのように大切に聞き入っている。


「陽斗、あんたね、詩織さんを泣かせるようなことがあったら絶対に承知しないからね。こんなに良い子、どこを探したって他にいないんだから。もし何かあったら、すぐに私に言うのよ、詩織さん。私が味方なんだから」


 母の詩織に対する心酔ぶりは、もはや執着と言ってもいいほどの域に達していた。その日を境に、俺の実家という座標は、俺が義務的に帰還する場所から、二人の目的地へと再定義されてしまった。

 今では、俺が深夜まで仕事に没頭し、終わりの見えない課題と果てしない格闘を続けている間にも、詩織のスマートフォンには母からのメッセージが絶え間なく届いている。


「陽斗さん、お義母さんから『くぎ煮の隠し味』、こっそり教えていただいたのよ。今度、作ってみるわね」


「今度の週末、お義母さんと元町の古い画廊に行く約束をしたの。陽斗さんも、もしお時間が許せば……。あっ、でも、お義母さんは『あんたは邪魔だから仕事してなさい』って仰ってたわね」


 そんな報告を、耳元で弾けるような声で聞かされるたび、俺は自分の関知しない領域で構築されていく、強固で温かな繋がりのネットワークの存在に、心地よい敗北感とともに苦笑を禁じ得ない。

 父が残し、母が守り続けてきたこの古い家が、詩織という鮮烈な色彩、制御不能な熱量を得て、再び脈動する命を宿していく。


 一人っ子として、いつかはこの住処を静かに閉ざし、全ての記録を消し去る日が来るのだと、どこか冷めた未来を予感していた俺の確信は、今、詩織と母の笑い声によって粉々に砕け散った。

 

 母が詩織の手を握り、「これからも、この子をよろしくね」と涙ぐみながら言ったあの瞬間。

 俺のモノトーンだった世界は、完全に塗り替えられた。

 彼女という光が、俺の歩んできた道の全てを、愛という名の鮮やかな色彩で、完膚なきまでに塗り潰してしまったからだ。その色彩の鮮やかさに、俺はただ、眩暈にも似た幸福感の中で、立ち尽くすしかなかった。

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