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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
最終章 砦の朝

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第57話 騎士が門を潜る時 ~詩織視点~

 午後の柔らかな光が、実家のリビングに差し込んでいた。

 私は、テーブルの上に置かれた小さいけれど確かな重みを感じさせる箱をそっと見つめる。その中身は私の薬指に収まっている。


(……ちゃんと言わなきゃ。私が、誰と生きていくことに決めたのかを)


 三宮から電車に揺られ、灘の駅に降り立ったときから、心臓の鼓動が早まっていた。王子動物園を通り過ぎ、山手へと続く坂道。閑静な住宅街へと続くこの道が、今日はやけに長く感じられる。


 実家につき、早々に私は意を決して、向かい合って座るお父さんとお母さんに視線を向けた。


「あのね、お父さん、お母さん。私、プロポーズされたの」


 震える声で告げ、私は一度深く息を吸った。


「その人と結婚したいと思ってる」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、お父さんの眉間に深い皺が寄った。お父さんは、ドスンと大きな音を立ててテーブルを叩く。


「反対だ! 断じて認めんぞ!」


 あまりに激しい拒絶に、私は言葉を失う。お母さんもまた、困ったような、そしてどこか冷ややかな視線を私に向けていた。


「詩織、あなた。あんな男とまた寄りを戻すなんて、正気なの?」


 お母さんは落胆したように肩を落とし、私の左手薬指を見つめている。


「あんなに不誠実で、家の空気まで淀ませるような人を、またこの敷居を跨がせるつもり?」


 お母さんの言葉を聞いて、私はすぐに誤解の理由を理解した。お父さんたちの頭の中には、過去に何度も実家に来ては、不遜な態度を隠そうともしなかった元カレ、和真さんの姿があるのだ。


「違うの、お父さん! 和真さんじゃない! 彼とは、もうずっと前に終わってるわ」


「嘘をつくな! お前のように押しに弱い娘が、あの執念深い男を振り切れるはずがないだろう」


 お父さんの声が震えている。私は、隠していた真実をすべて打ち明けることにした。和真さんは、自分から別れを切り出した。それなのに、私が陽斗さんと出会ってからというもの、執拗に私を追い回すようになったのだ。


「和真さんは、私が拒絶しても無理やり部屋に入ろうとしたり、待ち伏せをしたり……。毎日、恐怖で震えていたわ」


 私の告白に、お父さんの顔から血の気が引いていく。


「それを、身を挺して止めてくれたのが陽斗さんだったの」


 お母さんは、握りしめた拳を震わせながら、和真さんへの嫌悪を剥き出しにした。


「あの人は、ここへ来るたびに私の手料理を並べても、感謝の言葉一つなかったわ」


 お母さんは、思い出すのも忌々しいといった様子で唇を噛んだ。


「それどころか、『実家の味付けは塩分が強すぎる』だの『彩りに欠ける』だの、平然と品定めをするような人だった」


 さらに、お母さんの怒りは止まらない。


「お父さんが長年誇りを持って勤めてきた仕事に対しても、『今は合理性の時代ですから』なんて、古い産業だと馬鹿にしたような言葉……、私は絶対に忘れてないわよ」


 お母さんは私の目を真っ直ぐに見据えた。


「食事の場を平気で凍りつかせるような無神経さが、本当に嫌だったわ。何より許せなかったのは、詩織、あなたへの態度よ」


 一息ついたお母さんの目に、涙が浮かぶ。


「あなたが大切に描いた絵を『趣味の延長』と切り捨てて、自分にとって都合の良い置物のように扱っていたわね」


「お母さん……」


「彼が来るたびに、あなたが自信を失って、まるで色が抜けたような顔になっていくのが、親としてどれほど辛かったか! もぅ、大っ嫌いなのよ!」


 和真さんの無意識のうちに相手を支配しようとする傲慢さが、両親をこれほどまでに傷つけていたのだ。


「陽斗さんは、大手企業のシステムエンジニアとして第一線で活躍している人よ」


 私は陽斗さんのことを、丁寧に話し始めた。


「最初はひょんなことで出会ったけど、私の苦境を知って、法的な手続きまで含めて論理的に和真さんを撃退してくれたの」


 両親は、黙って私の話に耳を傾けている。


「私がパリに留学している間も、彼は多忙な業務の合間を縫って、毎日欠かさずメールをくれたわ」


 遠く離れた異国の地で、彼の言葉にどれほど救われたかを思い出しながら、私は続けた。


「時差を計算して、私が寂しくないように言葉を紡いでくれた。彼の誠実さが、私の心を支えてくれたの」


 私の必死の訴えに、リビングに沈黙が流れた。お父さんは腕を組み、何度も深く息を吐き出した後、ようやく口を開いた。


「……わかった。そこまで言うなら、その陽斗君とやらを一度ここへ連れて来なさい。まずは、結婚を前提としたお付き合いとしての挨拶を受けようじゃないか」



――――

 後日。

 ポートアイランドにある陽斗さんのマンション。二人で暮らし始めてから、無機質だったこの部屋にも少しずつ私の色が混ざり、今は安らげる場所になっている。私たちはそこから揃って、灘の実家へと向かうことにした。


 三宮から電車に乗った直後から、陽斗さんの様子はどこかおかしかった。紺色の清潔感のあるスーツに身を包んだ彼は、いつも以上に表情を引き締めている。


 車窓を流れる景色をじっと見つめたまま、彼は一言も発さなくなった。


「……陽斗さん? 大丈夫?」


 私が隣から小声で尋ねると、彼は視線を窓に向けたまま、小さく答えた。


「……あぁ。どんな質問が来ても、詩織のご両親が安心できる言葉を返せるよう、考えをまとめているところだ」


 普段から無駄な口数は少ない人だが、今日の沈黙はそれとは明らかに質が違う。まるで、嵐の前の静けさのような、極限まで張り詰めた空気だ。


「お父さん、今日は少し構えているかもしれないけれど、本当は優しい人だから。そんなに固くならなくてもいいのよ」


 私が彼の袖を引くと、陽斗さんはようやくこちらを向き、微かに口角を上げた。


「……分かってる。だが、俺にとっては仕事のどんな大きな契約よりも、ここでの誠実さが問われると思っているからな。失敗はしたくない」


 灘駅を降り、王子動物園の横を通り抜けて山手へと続く坂道に差し掛かると、彼の歩調はさらに慎重になった。


「陽斗さん?」


 再び声をかけると、彼は今度は頷くことさえせず、ただ前を向いていた。その瞳は真っ直ぐ前を見据えているが、周囲の音も風景も届いていないのではないかと思えるほど、深い覚悟の中に沈んでいる。


 閑静な住宅街の中に佇む実家の門が見えてきた。

 陽斗さんはそこで一度足を止め、深い呼吸を吐いた。


(顔が真っ青……。あんなに強気な陽斗さんが、震えてる?)


 彼は手土産の袋を握りしめ、指先が白くなるほど力を込めている。


「……行こう、詩織。俺の誠意を、すべてお伝えする」


 絞り出すような声に、私はそっと寄り添った。人生最大の決戦に挑む騎士のような表情を浮かべ、彼は静かに門を潜った。


 玄関で靴を揃える動作一つ取っても、今の陽斗さんからは並々ならぬ緊張が伝わってくる。リビングへ案内すると、彼は勧められる前に居住まいを正し、畳の上に一分の隙もなく正座した。


「本日は、大切なお嬢さんとの結婚を前提としたお付き合いのご報告と、ご挨拶に伺いました」


 陽斗さんは深く頭を下げた。


「浅井陽斗と申します」


 絞り出すような声だったが、その響きには迷いがない。お父さんは腕を組み、厳しい視線で彼を射抜くように見つめた。しかし、陽斗さんはその視線から逃げることなく、誠実に自分の言葉を紡ぎ続けた。


 仕事に対する真摯な姿勢、予期せぬ事態が起きても逃げ出さない責任感。


「そして、詩織さんというかけがえのない存在を、僕がどう支え、共に歩んでいきたいかを、今日は直接お話ししたいと考えております」


 彼らしい、具体的で揺るぎない覚悟が語られるにつれ、室内の空気は少しずつ温かさを取り戻していった。


 お父さんは、彼の話を聞き終えると、ふっと肩の力を抜いた。


「……なるほど。君の勤め先での評判や、今の話を聞く限り、あの男とは根底から違うようだな」


 お父さんの表情に、わずかに笑みが差す。


「何より、君のその生真面目すぎるほどの顔つきを見れば、どれほど本気かは伝わってくる」


 お母さんも、陽斗さんが差し出した手土産を丁寧に受け取りながら、優しく微笑んだ。


「詩織から聞いていた通り、本当に真っ直ぐな方なのね」


 お母さんは陽斗さんの顔を穏やかに見つめた。


「今の言葉を聞いて、安心したわ。……今度、ゆっくり詩織の好きなお料理、食べに来てね。一緒によ」


(よかった……。陽斗さんの誠実さが、ちゃんとお父さんたちに届いたんだ)


 私は、安堵から膝の上の拳を解いた陽斗さんと視線を合わせ、小さく頷いた。彼の顔にはまだ赤みが差していたけれど、その瞳には未来を見据える光が宿っていた。

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