第56話 クッキーの缶に秘められたもの ~詩織視点~
眩い朝の光が、ポートアイランドの窓から降り注いでいた。
一年ぶりに目覚めた陽斗さんのマンション。私たちの”砦”は、昨夜の生徒たちの喧騒が嘘のように静まり返っている。けれど、鼻をくすぐるわずかな絵具の匂いと、ソファに投げ出されたままの私のストール、そして少しだけ位置がずれたクッションが、ここがもう孤独な場所ではないことを静かに物語っていた。
キッチンからは、小気味よい音が聞こえてくる。
陽斗さんが、あの一年かけて完成させたという究極のトーストを焼いているのだろう。バターが熱を帯びて溶けていく香ばしい香りが、閉め切られていた私の心を優しくノックする。その背中を眺めているだけで、胸の奥が熱い色で満たされ、視界がじんわりと潤んでいくのを感じた。
「……起きたか。まだ眠そうだが、体調はどうだ。昨夜の騒動で疲労が蓄積しているなら、無理に動く必要はない。朝食を摂ってから、もう一度横になればいい」
振り返りもせず、私の気配を完璧に察知してかけられる声。その不器用な労わりの言葉が、何よりも心地よかった。
「ふふっ、おはよう陽斗さん。最高の目覚めだよ。パリの冷え切った朝とは全然違う、大好きな匂いがする」
私は伸びをしながら、リビングのテーブルに置かれた『それ』にゆっくりと近づいた。
それは、少しだけ角が丸くなり、表面の塗料が剥げかけたブリキの缶だった。私がパリに発って間もない頃、陽斗さんがメールで「部下から嫌味のように渡された」と綴っていた、あのパリのクッキーの缶だ。
でも、『新しく買った』って言ってたんだけどな。
陽斗さんはトレイをテーブルに置くと、少しだけ視線を逸らして椅子に座った。その動作一つひとつが、どこか慎重で、まるでこれから始まる儀式を前に自らを律しているかのようだった。
「陽斗さん、新しく買ったって言う割には、ちょっと表面が剥げてない?」
「――っ。そ、それは、気のせいだっ!」
「ふーん。まぁ、いいや」
「き、気にするな。これは、新しいクッキーだ。うん、間違いない。輸送途中に何かに当たって表面が剥げただけだ。そうに違いない。買った時には気づかなかったんだ」
相変わらず理屈っぽい言い方。でも、テーブルに置かれた彼の指先が、微かにだが震えているのを、私は見逃さなかった。
「そっか。じゃあ、遠慮なく……」
私はその缶を手に取った。少しひんやりとした金属の質感。
ふと、中に何か残っているような重みを感じて、私は無邪気にその缶を上下に振ろうとした。
「……あ、これ、何か入って――」
「待て! 振るな、詩織!」
陽斗さんが、かつてないほどの鋭い声で叫びながら、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
驚いて動きを止めた私の手元へ、彼が電光石火の勢いで身を乗り出し、震える手で缶を支える。その顔は、仕事でのどんなトラブルの時よりも青白く、必死な形相だった。
「は、陽斗さん……?」
「……精密機器を扱うようなものだ。……いや、それ以上に慎重に扱え。いいから、そのまま……水平に、ゆっくりと開けるんだ。わかったか?」
「う、うん。わかったよ」
彼の異様なまでの緊張が私にも伝染し、指先が強張る。
私は息を詰め、そっと蓋の隙間に爪をかけ、一ミリずつ慎重に、水平を保ったまま蓋を押し上げた。
「えっ……」
陽斗さんが買ってきたと言い張ったクッキーの缶。中には、色とりどりの小さなクッキーがある筈なのに。
その銀色の底の真ん中に、場違いなほど気高く、高級感のある小さなベルベットの箱が鎮座していた。
窓からの光を反射して、深いネイビーの布地が、まるで夜明け前の海のように静かに輝いている。
(これって……もしかして……)
心臓の鼓動が、耳の奥まで届くほど大きく、速く跳ねた。指先から熱が奪われ、代わりに全身を激しい震えが通り過ぎていく。
私は震える指でその小さな箱を取り出し、陽斗さんを見た。彼は、真っ赤になった耳を隠すこともせず、彫刻のように端正な顔を強張らせながら、真っ直ぐに私を見つめ返していた。
「……詩織。その中身について、俺の言葉で伝えたい」
陽斗さんは一度、肺の底まで空気を吸い込むように、深く息をついた。その瞳には、一年前の別れの痛みも、この一年の孤独も、そして再会への渇望も、すべてを乗り越えた後の透き通るような純粋な決意が宿っている。
「この一年、君という色彩を欠いた世界は、驚くほど整然としていて、驚くほど効率的だった。だが……、それは同時に、驚くほど空虚で、何の意味も持たない時間の羅列だったんだ。俺は、君のいない静寂を守るためにこの”砦”を頑なに維持してきた。だが、本当に必要だったのは、君と一緒に笑い、悩み、価値観の違いにぶつかり、かき乱される毎日だった。君がいない毎日は、俺にとってはただの生存でしかなかったんだ」
彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、一歩、また一歩と距離を詰めて、私の前で歩みを止めた。その大きな影が私を包み込む。
「パリで君が見つけたもの。君が手に入れたその美しい色彩を、これから描くべきキャンバスは……俺の隣であってほしい。……俺のこれからの人生を、君という唯一無二の光と一緒に歩んでいきたいんだ。……結婚しよう、詩織。俺の人生を、君で埋め尽くしてほしい」
視界が、一瞬で溢れ出した涙で滲み、熱い滴が頬を伝ってクッキーの缶の底に落ちた。
私は震える手で、大切に、小さな箱の蓋を開けた。
パチン、という小さな音が響く。
そこには、朝の光を全身に吸い込んで、眩いばかりに煌めく、一粒のダイヤモンドの指輪が収められていた。
それは、どんな絵具を重ねても表現できない、世界で一番純粋で、一番温かい輝き。
陽斗さんがこの一年、どんな想いでこの光を選び、この空っぽの缶の中に隠し続けていたのか……。その時間の重みが、一気に私の中に流れ込んでくる。
「陽斗さん……っ。陽斗さん……!」
「……返事は。君の声で、聞かせてほしい。頼む」
最後にはにかむように、泣き出しそうなほど切なく笑った彼の表情を見て、私は声を上げて笑い、あるいは堰を切ったように泣きながら、彼の胸に全力で飛び込んだ。
衝撃で彼の体が揺れる。彼は以前のような戸惑いを見せることなく、私のすべてを受け止めるように、力強く抱きしめ返してくれた。
「あたりまえだよ……! 私の答えは、一年前も、今も、この先もずっと決まってる。……陽斗さん、大好き。誰よりも、愛してる! 私を……私を、あなたの隣に、ずっといさせて!」
抱きしめられた彼の腕から、一年前よりもずっと強く、確かな熱が伝わってくる。
部下から渡されたという皮肉なクッキーの缶は空になった。だけど、代わりに、私たちの未来という名の重くて光り輝く約束が、今、ここに満たされたのだ。
陽斗さんの指先が私の頬に触れ、涙を拭ってくれる。その指先は、あの日空港で別れた時とは違う、未来を掴み取ろうとする者の力強さに満ちていた。
「もう、どこへも行かせない。……君が俺の人生の中心だ」
「うん。もう、どこへも行かない。ずっとここにいるよ」
窓の外、ポートアイランドの海はどこまでも青く、六月の風が私たちの新しい門出を祝うように、アトリエのカーテンを鮮やかに揺らした。
さあ、描こう。私たちの色彩に満ちた、新しい世界へ。ここが私たちの永遠の砦になるんだから。
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