第09話 消せないインク ~詩織視点~
アトリエの窓から差し込む春の光は、冬のそれとは違って、埃の粒さえもキラキラと楽しげに躍らせていた。私の描く灰色の風景も、その光の下では、ほんの少しだけ柔らかく笑っているように見える。
そんな使い古された木製テーブルの上に、いま、場違いなほど真っ白な履歴書が置かれていた。ヴィーナスブリッジの夜から数日。私は、再就職を目指すという陽斗さんの書類の添削を手伝うことになった。
あの日、ヴィーナスブリッジの欄干に身を乗り出し、夜明け前の蒼い光に包まれる神戸の街を眺めながら、陽斗さんは小さく自分自身に言い聞かせるような硬い声で呟いた。
「……もう一度、あの中に戻ってみる。あんなに反吐が出ると言っていた場所に自ら頭を突っ込みに行くんだ。滑稽だろう?」
その時の彼の横顔は、昇り始めた朝日に照らされながらも、どこか透き通って消えてしまいそうなほどに危うく見えた。一度はすべてを拒絶し、システムの外側へとはじき出された彼が、再びあの生という名の雑音に満ちた世界へ足を踏み入れようとしている。その一歩が、どれほどの恐怖と痛みを伴うものか、私には想像することしかできなかった。
ただ、立ちすくむ彼の背中を見ていたら、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。気がつけば、私は言葉を紡いでいた。
「……私にできることがあれば、何でも言ってください。事務的な手伝いでも、何でも。陽斗さんがまた歩き出すために必要なことなら、私は……」
それは、打算も何もない、喉の奥からせり上がってきた剥き出しの言葉だった。
(私は、彼に救われた。私の描く死んだ絵の中に、まだ熱が残っていると、彼はあの夜に教えてくれた。だから、これは私なりの精一杯の恩返し。彼が再びあの光の海の一粒に戻るための小さな杖にでもなれたら。……そう願うことで、私自身もまた、絶望の底から這い上がるための理由を探しているのかもしれない)
次の日、照れた様子で陽斗さんが現れた。
「急に来て悪いな。頼りたくはなかったんだが、どうにも、一人では限界があるらしい」
テーブルの端、陽斗さんは視線をどこか泳がせながら、数通の封筒を隠すように重ねた。その隙間から見えたのは、非情な文言が並んだ不採用通知の束だった。あんなに傲慢なまでに自信に満ちて見えた彼が、いま、私の前でひどく場違いな、子供のような恥ずかしそうな顔をしている。
「何度も、出し続けているのですか?」
「……あぁ。だが、俺という人間を社会がどう分類しているかは、この紙切れの山を見れば明白だ。どれだけ完璧な仕様書を作ろうが、実行不可能なプログラムとして弾き出される。それで……」
彼は言葉を切り、一つ、深い溜息を吐いた。そして、決心したように一通の履歴書を私の方へ押し出した。
「あんたは、教員だろう? 人の本質を見抜くのが仕事だ。……俺のどこが、連中に不快感を与えているのか、見てくれないか。……頼む」
そのぶっきらぼうな口調とは裏腹に、耳たぶが微かに赤くなっている。いつもの鎧を脱ぎ捨てて、弱さを差し出す彼の姿に、私は胸の奥が温かくなるのを止めることができなかった。
(驚いた。自販機の前でいつも不機嫌そうに缶コーヒーを啜るあの人が、こんなに神経質なまでに整った字を書くなんて。一文字一文字の書き出しから跳ねに至るまで、寸分の狂いもなく枠の中に収まっている。……まるで、人間が書いたというより、精密な機械が刻印したみたいだわ)
「……陽斗さん、これ。字が綺麗というより、執念を感じますね。一文字たりとも枠からはみ出すことを自分に許していない。あまりに完璧すぎて、少し怖いくらいです」
「形式通りに枠を埋めるのは、俺にとっては呼吸をするのと変わらない。決められたルールの中で、決められた通りに情報を整理する。それが、俺に残された唯一の習性なんだろうな」
陽斗さんは、私の向かい側で所在なげに指先を動かしていた。いつもの皮肉めいた笑みはどこかに消えて、試験の結果を待つ受験生のような、硬い緊張がその広い背中に張り付いている。
ふと気になって、私は彼に問いかけた。
「でも、陽斗さんならパソコンで作成した方がずっと速いし、得意ですよね? 今の時代、手書きを求める会社ばかりでもないでしょうに」
陽斗さんは一瞬、苦いものを噛み潰したような顔をして、視線を窓の外へ逃がした。
「……効率だけを考えるなら、当然そうなる。だが、今の俺にはそれをする資格がない気がしたんだ。デジタルの文字は、何度でもやり直しがきく。バックスペース一つで、自分のミスも空白期間も、なかったことにできる。だけどな、手書きは、そうはいかないだろう。一度ペンを置けば、その跡は消せない。俺がレールを外れて立ち止まっていたこの数年間の重みを、ちゃんと自分の手の痛みとして感じながら書かないと、俺はまた自分を誤魔化す気がしたんだ」
(バックスペース。彼は、自分の過ちを消し去ることを自分に許していないのね。デジタルの世界で生きてきた人なのに、誰よりも消せない痛みを感じようとしている。その不器用さが、どうしようもなく彼らしいわね)
彼の経歴欄には、目も眩むような実績が並んでいた。有名な大企業での大きなプロジェクト、目覚ましい成功の数々。だが、その輝かしい記録は、ある日を境に崖から落ちるみたいにぷつりと途絶えている。その後に続くのは、あまりに長く、残酷な空白期間。
「この、後半の自己PRですが……、少し、表現が固すぎる気がします。せっかくの成功を、まるですべて当然の結果みたいに無機質に片付けてしまっているような……。読み手には、貴方がどんな熱量を持って仕事に取り組んだのかが、伝わりにくいかもしれません」
「事実を並べているだけだ。そこに感情を混ぜ込む必要なんてないだろう。会社が求めているのは期待された役割を果たす機能であって、担当者の人間性じゃない」
突き放すような彼の声。でも、その声はどこか、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。自分を機能だと呼び捨てることで、傷ついたプライドを必死に守ろうとしているみたい。私は赤ペンを握り直し、履歴書の端に視線を落とした。
「いいえ、陽斗さん。企業が本当に知りたいのは、その結果を出すために貴方がどれほど心を砕き、どれほどの重圧に耐えてきたか、という血の通った部分です。たとえばこの一文……『トラブルにも迅速に対応した』。ここには、貴方が必死に守り抜こうとした場所の重みが欠けています。貴方は、ただ処理したのではないはずです。必死に、守ったのでしょう? そのために、自分の心までボロボロに削って」
私がそう告げると、陽斗さんは一瞬、肺の中の空気をすべて吐き出したみたいに動きを止めた。彼は逃げるように視線を逸らし、アトリエの壁に掛けられた、私のあの死んだ街の絵をじっと見つめる。
「……守ろうとしたさ。だが、そんなものを評価する奴なんてこの世にはいない。俺がどれだけ身を削って、泥水を啜るような思いで立ち回っても、結局、歯車が一つ狂えばすべては瓦解する。俺が必死に守り抜こうとしたものは、指の間からこぼれ落ちる砂みたいに、脆くて、呆気ないものだったんだ」
(あぁ、この人は。誰にも見えない場所で、たった一人で崩れゆく砂の城を支え続けていたのね。その孤独を、その痛みを、どうして誰も……。私だけは、この行間に隠された彼の震えを、見逃したくない)
「それは、貴方がそれだけ真面目に、真っ直ぐに、目の前のことと向き合ってきたからでしょう? 貴方のこの完璧すぎるほどに整った履歴書は、裏を返せば、失敗が許されない場所で、自分を限界まで削り続けてきた証拠に見えます。貴方は、真面目すぎたのです。だから、自分を許せなかった。一度の挫折で、自分を不良品だなんて決めつけてしまった」
私の言葉に、陽斗さんの大きな背中が微かに震えた。
自嘲的な言葉で世界を切り捨てて、誰にも触れさせない強固な壁。けれど、いま目の前にいるのは、一度の失敗で自らをもうダメだと断じてしまった、あまりに純粋で、傷つきやすい一人の男だった。
「陽斗さん。貴方は、自分が壊れるまで、誰かの荷物を背負い込もうとした。それは決して、無価値なことではありません。この履歴書の空白は、貴方が再び自分を取り戻すために必要だった、大切な『お休み』のはずです。どうか、この時間を恥じないでください」
「ふっ。お人好しだな、あんたは。そんな綺麗事が通じるほど、外の世界は甘くない。一度レールを外れた奴には、二度と陽の当たる場所なんて用意されないんだよ。一度でもインクを零せば、この紙はもう台無しなんだ」
「なら、そのインクの染みを、新しい絵の一部にすればいいんです」
私の言葉に、陽斗さんは弾かれたように顔を上げた。
陽斗さんの瞳の奥に潜んでいた鋭い棘は、いつの間にか消え失せていた。彼は私が書き加えた修正のメモを、まるで壊れ物を扱うような、ひどく慎重な手つきで手に取った。
「……詩織さん」
「はい」
「あんたに言われた通り、少しだけ、言葉を書き換えてみる。俺が何を守ろうとして、何に負けたのか。それを、単なる記録としてじゃなく、俺自身の言葉として、書き残してみるよ。……一発勝負でな」
彼が再び、重みのある万年筆を握る。その横顔を見て、私はふと思った。
アトリエという殻に閉じこもる私と、履歴書という枠に自分を閉じ込めようとする彼。形は違っても、二人とも完璧であらねばならないという重荷に押し潰されていたのだ。
窓の外では、神戸の春の風が、街の香りを運んできていた。あの日、ヴィーナスブリッジから見下ろした、あの数百万の光の絨毯。その一粒に再び戻るために、彼は今、震える指先で自分の人生を綴り直そうとしている。
彼のペン先が、紙の上で僅かに躊躇って、そして力強く動き出す。機械みたいな正確さが消えて、代わりに人間らしい揺らぎが混じるその軌跡。
それは、彼がようやく自分の弱さを抱きしめ始めた証。消せない過去を、消せないインクで綴りながら、彼は再び歩き出そうとしている。その一歩はまだ小さくて、危ういものかもしれない。それが、今の私には、窓から差し込むどんな春の光よりも、温かくて、尊いものに感じられた。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




