閑話 審判の円卓 ~社長視点~
西日が、分厚いカーテンの隙間から滑り込み、磨き抜かれた長机の上に一本の鋭い光の線を引いている。
重苦しい沈黙が、会議室の空気を澱ませていた。
私は、組んだ指の上に顎を乗せ、三人の役員たちの視線が交錯するのを、ただ無言で見守っている。
机の上には、一組の書類。そこには、数十分前までこの場所に座っていた男――浅井陽斗の経歴が、息苦しいほどの密度で記載されていた。
沈黙を切り裂いたのは、採用担当部長の、傲慢なまでに突き放すような声だった。
「専務、それから常務。お二人とも現場や管理の理想を語るのは結構ですが、実務を預かる私の目から言わせれば、話になりませんよ」
部長は、手元の素行調査書を忌々しげに指先で弾き、椅子に深くふんぞり返った。その態度は、自らの正当性を疑わぬ者特有の不遜さに満ちている。
「私は『不採用』で決定させていただきます。これほどのリスクを抱えた人間を、我が社の心臓部に関わらせるなど、正気の沙汰とは思えませんね」
部長はさらに身を乗り出し、机を指で叩きながら続けた。
「前職である貝村興産の評価、お耳に入っていますよね? 『組織の調和を乱す欠陥品』ですよ。傲慢で独りよがり。挙句の果てに、重要プロジェクトを放り出して一年近くも雲隠れしていたような男だ」
彼は冷笑を浮かべ、吐き捨てるように断じた。
「そんな負の遺産を、我が社がわざわざ金を出して肩代わりする必要がどこにあるというのですか。経歴に泥がついた人間を拾い上げるなど、経営判断として、あまりに稚拙でしょう」
その不遜な物言いを、技術畑一本で叩き上げてきた専務が、鋭い眼光で射抜く。
「稚拙、か。随分と言ってくれるじゃないか、部長。君はあえて彼に、詳細な業務内容を執拗に問い詰めたはずだ。だが、浅井君は淀みなく、かつ極めて正確に、その最適解を答えてみせた。あの受け答えを、君はその節穴のような目でどう聞いていたんだ?」
専務の突き刺すような問いに、部長は鼻を鳴らし、取り合う様子も見せずに言い放つ。
「技術的なやり取りがどうあれ、結果は明白でしょう。専務は、あれを『実際に現場の最前線で血を吐く思いをしてシステムを組み上げた人間にしか持ち得ない解像度だ』などと仰いましたな。ですが、私が見る限り、あのようなものは経歴詐称の余地がないという証明にはなりません」
部長は追い打ちをかけるように、声を尖らせる。
「結局のところ、それは技術屋同士の身内贔屓に過ぎないのですよ。客観的な指標に基づかない評価など、人事としては到底受け入れられません」
専務は怒りを押し殺すように、資料を握りしめる。だが部長は攻撃の手を緩めない。
「それに、彼は単なる職人じゃない。大規模プロジェクトの役職者として、チームの掌握術についても論理的に語っていた。我が社の若い連中を率い、導く統率力さえ備えている……。そんな評価も、結局は幻想ですよ」
部長は、鼻先で笑い飛ばす。その目は、目の前の数値化された実績しか見ていない。
「実力があれば何をしてもいいという、古臭い技術屋の理屈は聞き飽きました。彼は、退職理由について尋ねた際、明らかに口を噤んだ。過去を説明できない不透明な人間に、どうして未来のプロジェクトを任せられるのですか。これだから現場上がりの方は困る」
部長は今度は隣の常務へ侮蔑の視線を向ける。議論の応酬は、もはや組織の論理を超え、個人の矜持を削り合う様相を呈していた。
そこで、これまで静観していた人事担当の常務が、重々しく口を開いた。
「……部長。君の言う組織人としての誠実さへの疑念、それは理屈としては通っている。だがな」
最初は諭すような穏やかな響きだった。常務は眼鏡を指で押し上げ、部下である部長をじっと見つめる。その視線には、数多の人間を見てきた老練な観察眼が宿っている。
「これは人事を長年勤めてきた私の、勘と言うかなんというか……。浅井君は、決して無責任に逃げ出したわけではない。むしろ、その逆だ。彼は、望まぬ退職を、理不尽な形で迫られたのだと私は見ている」
「勘、ですか? 常務ともあろう方が、そんなオカルトじみた感情論を会議に持ち出すとは驚きました」
部長の嘲笑混じりの叫びに、常務の眉がわずかに跳ね上がった。静かだった声に、湿り気を帯びた熱が混じり始める。
「黙って聞きなさい。証拠はないと言ったが、部長、君は彼の履歴書をその目で見たのか。一文字の乱れもなく、恐ろしいほどの圧をもって枠内に収められた、あの執念さえ感じる筆跡を」
常務は、机の上の書類を指し示す。その指先が、微かに震えていた。
「あれは、自分を律し、何かを守ろうとして、限界まで己を削り続けた者の書き方だ。そんな人間が、果たして安易に仕事を投げ出すと思うか?」
「筆跡で人間がわかるなら、人事考課など必要ないでしょう! くだらない!」
「貴様、何がわかると言うのだ!」
突如として放たれた常務の怒声が、会議室の空気を震わせた。部長が肩を跳ねさせ、言葉を失う。常務は椅子から身を乗り出し、顔を赤く染めて怒鳴りつけた。
「守り抜こうとして、その責任をすべて一人で背負わされ、泥を被った……。貝村興産側の悪評など、そうした不都合な真実を隠すための塗り潰しに過ぎんことぐらい、その腐った頭で想像できんのか!」
常務の叫びは、もはや制止が効かぬほどに激しさを増していく。
「以前、君の『理論』とやらにすべてを任せ、輝かしい経歴と社交性だけを重視して合格させた者たちがいたな! その結果はどうだったと言っているんだ!」
部長の顔色が、一気に土気色に変わる。だが、常務は容赦なく声を荒らげ、机を力任せに叩いた。
「何の連絡もないまま内定辞退が相次ぎ、我が社の採用計画を根底から狂わせたのは誰だ! 答えてみろ、部長! 君が絶賛したあの『理想的な人材』たちは、結局、土壇場で我が社を裏切ったではないか!」
常務は荒い息をつきながら、椅子に深く沈んでいた部長を射抜くような鋭い目で睨みつける。
「君の選んだ人間は、土壇場で逃げ出した。対して、この浅井君はどうだ。彼は逃げ場のない場所で、一人で耐え抜いた末にここに立っている。彼のような人材を、噂だけで切り捨てるのは我が社の損失だ。君の言う『理屈』がいかに浅薄なものか、いい加減に理解したらどうだ!」
最後の一喝が、会議室の壁に反響し、重苦しく消えていった。部長は唇を噛み締め、もはや反論する言葉を持たなかった。
私は、手元の履歴書に視線を落とした。
浅井君の瞳には、光が無かった。だが、それは絶望ではなく、過酷な冬を耐え忍ぶ大地のような、頑ななまでの”拒絶”と”矜持”。
私はゆっくりと立ち上がり、三人の役員へ向けて静かに、だが重みを持って告げた。
「……部長。君の懸念は、組織を預かる者としての正当な防衛本能だ。それは否定しない。会社という船を嵐から守るためには、君のような慎重さは不可欠だ」
窓の外、夕闇に沈みゆく神戸の街並みを見つめ、私は言葉を紡ぐ。
「だがな、我々が求めているのは、既存の枠組みを維持するだけの平穏か、それとも壊滅的な変革か。今のままでは、我が社は緩やかに沈んでいくだけだ。我々には、起爆剤が必要なのだよ」
私はゆっくりと振り返り、部長の目を射抜いた。
「専務が認めたあの圧倒的な『腕』。常務が感じ取った、血の滲むような『執念』。これらを、たかが外野の雑音や空白期間という数字だけで切り捨てるほど、この会社は余裕に満ちているのか? いや、違うはずだ。むしろ、その泥を被った過去こそが、彼の力の一部ではないのか」
会議室をゆっくりと歩きながら、私は確信を深めていく。
「浅井君のような男を組織の歯車に押し込めず、あえて野に放つように自由にやらせてみる。彼のような異端こそが、我々の古い常識を壊してくれる。もし彼が、その牙を我が社の未来のために剥くならば、この会社は誰もが想像もしなかった姿に化ける。いや、化けさせてみせる」
私は部長のそばに立つ。
「君の心配もわかる。だからこそ、この決断に、もし間違いがあったならば、全責任は私が取ろう。……浅井君を採用とする。彼には、この閉塞したシステムを根底から再構築してもらう」
私は、履歴書の顔写真を見つめ、確信を持ってその名前を呼んだ。
「浅井君だ。彼が失った光を、我が社で取り戻せるかどうか。賭けてみる価値はある。いや、我々が彼に賭けるのではない。彼が我が社を救う価値を見出してくれるかどうかの瀬戸際に、我々は立っているのだ」
夕闇が完全に会議室を支配した。
この一決が、後に『技術の神子』と呼ばれる男を、再び表舞台へと引き戻す始まりの鐘となったのである。
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