第08話 諏訪山の瞬き ~陽斗視点~
北野の急な坂道、自販機の無機質なLEDに照らし出された瀬戸詩織は、いまにも崩れ落ちそうな磁器人形のように頼りなく見えた。彼女の瞳に宿る、何も見たくないと言わんばかりの濁った光。それが、以前の俺が抱えていた、二度と立ち上がれないほどの絶望と重なり、胃の奥が焼けるように不快にざわつく。
(余計な世話だ。理屈抜きに分かっている。だが、この女が自分の描く灰色に呑み込まれて、そのまま音もなく消えてしまうのを、ただ眺めていられるほど、俺の心はまだ完全に死にきってはいないようだな)
俺は何も言わず、飲み干した缶コーヒーをゴミ箱へ放り捨てると、隣に止めてあった古いセダンの助手席のドアを開けた。錆びついたヒンジが、夜の静寂を切り裂くような耳障りな悲鳴を上げる。
「乗れ」
「え……? 陽斗さん、どこへ行くつもりですか。私は、もう帰って、アトリエで……」
「黙って乗れ。あんたのその見苦しい泣き言を聴きながら北野を徘徊するよりは、少しはマシな場所へ連れて行ってやる。それとも、ここで朝まで一人で地面と会話でもし続けるつもりか?」
困惑し、躊躇う彼女の背中を、半ば強引に押し込むようにして助手席へ座らせる。俺は運転席に回り込み、キーを回した。唸り声を上げるエンジン音が、今の俺たちの不自然な重なりを代弁しているようだった。
車は諏訪山公園を目指し、夜の坂道を這うように進む。市街地から少し離れるだけで、街の喧騒は急速に遠のき、タイヤが冷えたアスファルトを噛む音と、彼女の浅い、震えるような呼吸音だけが、密閉された車内をかろうじて繋ぎ止めていた。
金星台の駐車場に車を叩きつけるように停めると、俺は黙ったままドアを開け、彼女に先を促した。ヴィーナスブリッジへ続く螺旋状の橋を上るにつれ、六甲山系から吹き下ろす海風がその鋭さを増していく。
彼女は薄手のカーディガンを、自分自身の脆弱さを守るための鎖のように抱え込み、俺の後ろをついてきた。その足取りは、処刑台へ向かう囚人のように重く、そしてどこか決死の覚悟を秘めているようにも感じた。
「……綺麗」
不意に漏れた彼女の呟きに、俺は足を止めた。
眼前に広がっていたのは、神戸の代名詞ともいえる無数の光の瞬きだった。ポートアイランドの規則的な灯りから、メリケンパークの赤い輝き、さらには海を越えて大阪湾の向こうまで続く、終わりのない光の絨毯。
だが、それは詩織がアトリエで描き続けているあの死んだ街の絵とは、根本的に何かが違っていた。光の一粒一粒が、残酷なほどに生々しく、暴力的なまでに脈動している。それは静かに眺めるためのものではなく、絶え間なく動き続ける、膨大な「生」そのものだった。
「あんたの絵には、この光が一粒も足りない。……だから、あんなに息苦しいんだ。空気の入れ替えもしない締め切った部屋で絵筆を動かしているのと同じだぞ。そんな絵に、誰が心を動かされるって言うんだ」
俺は冷え切った欄干に寄りかかり、ポケットから取り出した飲みかけのペットボトルの水を喉に流し込んだ。隣に並んだ彼女は、圧倒的な夜景の輝きに打ちのめされたのか、微かに唇を震わせ、今にも泣き出しそうな表情で光の海を見つめている。彼女の瞳の中には、神戸の街が持つ数百万の光が、無秩序に乱反射していた。
「……この光が、憎いんです。こんなに美しく、何事もなかったかのように輝いているこの街が。私一人が立ち止まって、絶望の淵で息を止めていても、世界はこうして平然と、明日へ向かおうとしている。それが、堪らなく怖いのです。自分だけが取り残されているという感覚が」
「だろうな。光ってのは、深い闇の底に沈んでいる奴にとって、救いじゃなくただの刃だ。自分の中にある空っぽな感覚を、余計に際立たせやがるからな。だが、光を憎めるうちは、あんたはまだ壊れちゃいない」
俺は自嘲気味に鼻で笑い、夜風を吸い込んだ。以前、必死に守り抜こうとして、それでも守れなかった当たり前の日常の巨大さを、今さらながらに痛感する。この光の海に、俺たちの居場所など、どこにも存在しないかのように思えた。いや、存在しないからこそ、この景色はこれほどまでに美しく見えるのかもしれない。
「だけどな、詩織さん。この街の光の一個一個には、明日もまた満員電車に揺られて、嫌な上司に頭を下げて、それでも飯を食うために生きていかなきゃならないっていう、くだらない人間の執念が詰まってるんだよ。あんたが否定しようとしている、泥臭い生き方の集まりなんだよ」
「……執念。それが、この輝きの正体だと言うのですか」
「そうだ。神様が作った奇跡なんかじゃない。欲にまみれた人間たちが、必死に電気を使い、昨日と同じ今日を繰り返すために作り上げてるんだよ。あんたの描く灰色は、それから逃げている証拠だよ。傷つくのが怖くて、最初からすべてを『終わり』にして、安全な場所から眺めているだけだ。そんなの、表現でもなんでもない。ただの逃げだろ」
言葉を鋭く投げつけるたび、彼女の細い肩がびくりと跳ねる。だが、彼女は今回は目を逸らさなかった。街の光を鏡のように反射して、彼女の濁っていた瞳に、微かだが確かな熱が戻り始めているのが分かった。
「……陽斗さんは、強いのですね。その泥臭さを認め、自分を削りながら、それでもこうして、夜の街を眺めていられる。私には、まだそれが……眩しすぎて、直視できない。自分がどれほど卑怯な人間かを突きつけられているようで」
「強くなんてないさ。勘違いするな。俺だって、今すぐこの橋から身を投げて、自分の存在を消してしまいたいと思う夜が何度もある。それでも、明日になれば腹が減るし、喉も渇く。その抗いようのない体の仕組みに、ただ耐えているだけだ。俺たちは、死ぬまでこの不自由な自分自身と付き合っていくしかないんだよ」
俺はポケットをまさぐり、使い捨てのライターを取り出した。親指でホイールを回すと、カチリと乾いた音がして、小さなオレンジ色の炎が灯る。
退職と同時にタバコは止めたが、この火を灯す感覚だけは、どうしても捨てられなかった。風に煽られれば一瞬で消えてしまいそうな、か細い炎。それを、ブリッジの柵にびっしりと取り付けられた『愛の鍵』。誰かが願いを刻み込んだ南京錠の一つに近づける。炎は金属の冷たさを溶かすこともできず、ただ虚しく闇を照らしているだけだった。
「……明日。陽斗さんも、明日のことを考えるのですか」
「考えるさ。せいぜい、明日の朝どの自販機で新しい缶コーヒーを買うか、そんな程度のくだらないことだがな。あんたも、明日の朝、どの絵具をパレットに絞り出すかくらいは考えておけ。描き続けるのが嫌なら、キャンバスごとアトリエを焼き払うためのライターを買う予定でもいい。こいつより、もう少し火力の強い奴をな」
詩織は少しだけ、本当に一瞬だけ、口角を上げたように見えた。それは微笑と呼ぶにはあまりに儚く、夜風にさらわれれば消え入りそうなものだったが、彼女の頬を撫でる風が、先ほどまでの刺すような冷たさを失い、少しだけ穏やかな温度を含んだように感じられた。
「……ライターを買い直すのは、手間がかかるかもしれませんね。今のままでも、十分かもしれません。陽斗さんのその小さな灯りがあれば」
「なら、描くしかないな。その不細工で、救いようのない死にかけの景色を。あんたのその剥き出しの感情でな。少しでもいいから、この街に爪痕を残してやれ」
足元に広がる神戸の夜景は、相変わらず無遠慮に俺たちを照らし続けている。だが、その光はもう、彼女を切り裂く刃には見えなかった。ただの騒がしい光の集まりにすぎなかった。
絶望を共有したところで、何かが劇的に変わるわけじゃない。だが、共に重い荷物を抱えながら、夜明けを待つことくらいなら、今の俺にもできるはずだ。彼女の隣で、この不格好な「明日」という時間を、もう少しだけ過ごしてみるしかないだろう。
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