第07話 無垢な刃 ~詩織視点~
美術室の窓から差し込む午後の光は、キャンバスの白さを無慈悲に際立たせ、私の網膜を焼くように突き刺していた。放課後の静寂。本来なら表現者にとって最も濃密で自由な時間なのだが、今の私にとっては己の空虚さを突きつけられるだけの耐え難い空白でしかない。
「先生、この絵。……なんだか、すごく冷たく見えるね」
背後から放課後の気だるい空気を切り裂くような声がした。振り返ると、美術部の二年生が進路調査票を筒のように丸めて弄びながら、私の描きかけの静物画を覗き込んでいる。彼女の視線は、キャンバスの上に置かれた一輪の薔薇。私が数時間かけて執拗に描写したその物体に向けられていた。
「冷たい? そう見える? 金属の器の質感を強調しすぎたかしら。それとも、影を落としすぎて全体が沈んで見える?」
「うーん、そういう技術的なことじゃないんだよなぁ~。なんて言うか、この花、生きてないみたい。先生がこの花のことを、本当はちっとも綺麗だと思ってないのが、見てる私にまでバレバレだよ」
一切の遠慮を排した教え子の言葉。それにうまく笑って返すことができなかった。喉の奥が砂を噛んだように引き攣れ、高校教師としての仮面が音を立てて剥がれ落ちそうになる。私は筆を置くことさえ忘れ、汚れたパレットを握りしめたまま、立ち尽くすしかなかった。
(困ったわね。この子たちは、大人が必死に、それこそ血を吐くような思いで隠している綻びを、計算ではなく本能で踏み抜いてしまうわ。その残酷なまでの無垢さが、今の私には研ぎ澄まされた冷たい刃物のように感じられるわ)
「そんなことはないわ。私は私なりに、この造形の美しさを正確に写し取っているつもりよ。植物としての生命力を、構造的に解釈して……」
「ふーん。私には、先生が『正しい答え』を並べて、ただ埋めてるだけに見えるけどな。……先生、最近、何かに夢中になったり、誰かのことで頭がいっぱいになったりしたこと、ないでしょ。この絵、見てるとこっちまで息が止まりそうになるもん。心がないっていうより、捨てちゃったみたいに見える」
無意識な一言が、私の内側にある広大な空虚を容赦なく暴き出そうとしていた。私は動揺を悟られまいと、パレットを洗うために水道へと向かった。蛇口から流れ出る水の冷たさが、今の自分の心音のように無機質に響く。
「……そうかもしれないわね。私はただ、正解をなぞっているだけなのかもしれない。自分の心が震える感覚を、どこかに置き忘れてしまったのかも。あるいは、最初から持っていなかったのか」
「先生、今のままだと、そのうち自分もその絵みたいに固まっちゃうよ。綺麗なだけで、誰も触りたがらない石像みたいにさ。……じゃ、お疲れさまでしたー。次はもっと、生きてる絵を描いてよ」
生徒はそう言い残すと、夕闇の迫る廊下へと軽やかに消えていった。一人残された美術室で、私は洗いきれなかった絵具の汚れを見つめながら、ただの空っぽな人間として、いつまでも立ち尽くしていた。
気が付けば、私はまた北野へと続く急な坂道を上っていた。アトリエに戻れば、あの灰色の神戸が私を待っている。だが、今の私には、あの救いのない灰色にさえ向き合う気力は残っていなかった。足取りは重く、心臓の鼓動だけが不自然に急かされるように耳元で鳴り響いている。
「……あんた、そんなところで何をしてるんだ。幽霊の真似事か?」
不意に頭上から降ってきたのは、聞き慣れた、どこまでも乾いた声だった。顔を上げると、自販機の微かな明かりに照らされた陽斗さんが、車にもたれて缶コーヒーを持っていた。
「陽斗さん……。奇遇ですね、こんな場所で。ドライブですか?」
「ドライブなんて格好のいいもんじゃない。ただの徘徊だ。車を降りて、このあたりを少し歩くのが俺の数少ない散歩コースでな」
陽斗さんはゆっくりと立ち上がり、私の瞳を真っ直ぐに覗き込んできた。その射抜くような視線に耐えられず、私は逃げるように視線を足元の石畳へと落とす。街灯に照らされた自分の影が、酷く頼りなく、細く伸びていた。
「……今日、生徒に言われたのです。私の描くるものには、生命の熱も、心の色も、何もないと。ただの死体を描いているようだと。私の心が死んでいるから、絵も死ぬのだと」
「ガキの戯言だろう。いちいち真に受けるな。あいつらは、大人の平穏をかき乱すのが仕事みたいなもんだ。特に高校生くらいになれば、相手の急所を突くのが最上の娯楽だろう」
「いいえ、図星だったのです。私は、心を震わせるような何かを、もう完全に忘れてしまいました。……今の私は、教壇に立つ資格も、筆を握る資格もない、ただの欠陥品なのです。教師としても、一人の人間としても」
言葉が堰を切ったように溢れ出した。誰にも見せてはいけないはずの私の最も卑屈で、醜い部分。それを、なぜかこの男の前では、さらけ出さずにはいられなかった。彼なら、この汚泥のような感情さえも、ただのデータのように淡々と受け止めてくれるのではないか。そんな、身勝手な期待が胸を掠める。
「……陽斗さん。私は、自分が怖いんです。このまま一生、あのアトリエにある灰色の絵のように、何も感じないまま風化していくのではないかと。自分の体も、心も、すべてが冷たい絵具で塗り潰されて、動けなくなってしまうのではないかと」
陽斗さんはしばらくの間、何も言わずに夜の街を見下ろしていた。ポートタワーの赤い光が、彼の瞳の中で小さく瞬いている。やがて彼は、飲みかけの缶コーヒーを握りつぶすような鈍い音を立て、吐き捨てるように言った。
「欠陥品で結構じゃないか。俺なんて、長年かけて構築したシステムごと、社会から破棄された粗大ゴミだ。あんたがどれだけ空っぽだろうと、俺には関係ないし、それを責める義理も興味もない」
「冷たいんですね。貴方も、やはりそうなのですか」
「冷たいんじゃない、現実だ。だがな、詩織さん。さっきからあんた、随分と必死に自分の空っぽさを嘆いている。あのな、本当に空っぽな奴は、自分が空っぽだなんて気付きもしないし、嘆きもしない。ただの燃えないゴミとして、そこに転がっているだけだ」
陽斗さんの言葉が、私の凍てついた胸の奥に、鋭い痛みとなって刺さる。彼は私に視線を戻すと、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「あんたが感じているその恐怖は、まだ何かが欲しくて堪らないっていう、執着の裏返しだろう。見苦しいな。俺と同じだ。飢え死にする寸前の獣が、最後に上げる鳴き声みたいで反吐が出る」
その言葉は、どんな甘い慰めや同情よりも深く、私の孤独の底にまで届いた。私たちは、神戸の街を遠くに見下ろす暗がりのなかで、互いの欠落を確かめ合うようにして、ただ立ち尽くしていた。
陽斗さんの突き放すような言葉。それが、今の私にはどんな救いの言葉よりも温かく感じられる。高校教師という肩書きも、絵描きというプライドも剥がれ落ちたこの場所で、私はようやく、人間として息ができるような気がした。
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