第06話 灰色に沈むポートタワー ~陽斗視点~
地下道を出てから、俺たちはどちらからともなく北野へと続く急な坂道を上っていた。
三宮の駅周辺に溢れる人工的な光が視界を掠めるたび、俺は自分の現実がいかに色褪せているかを突きつけられ、軽い眩暈を覚える。
(瀬戸詩織。この女も、俺と同じだ。自分の存在価値を見失って、足掻く気力さえ失いかけている)
本来なら、ポートアイランドにある殺風景な自宅へ戻るべきだった。ポートライナーの無機質な走行音に身を任せ、誰とも関わらずに眠りにつくのが正解なのは分かっている。
隣を歩く彼女の今にも壊れてしまいそうな危うい沈黙。それが、俺の胸の奥に澱んでいた「誰かに見つけてほしい」という醜い渇望を、ざらりとした感触で逆撫でしてくる。独りで夜の底を這いずるには、今の俺はあまりに磨り減りすぎていた。この危うい女の温度が、今の俺には唯一の命綱に思えて、抗うことができない。
三宮の雑踏を抜け、観光客の姿も疎らになった坂道の途中で、彼女はふと足を止め、背後を歩く俺を振り返った。街灯の光に照らされた彼女の横顔は、陶器のように硬く、その瞳の奥には深い苦悩が刻まれている。
「……陽斗さん。もしお時間が許すなら、私のアトリエへ寄っていかれませんか?」
唐突な誘いだった。自分でも、それを聞いた瞬間に心臓が跳ねるのを感じる。
「アトリエ? あんた、そんな場所に他人を招き入れるような性格には見えないがな」
俺は足を止め、不信感を隠そうともせずに彼女を見据えた。
「自分でも、どうかしていると思います。……でも、今の私は、自分の描いている色が本当に間違っているのか、誰かに確かめてもらいたいのです」
「俺みたいな、人生の落第生に頼むことじゃないだろう。絵の良し悪しなんて、俺にはさっぱりだ」
「いいえ、貴方だからこそ、お願いしたいのです。技術的な評価が欲しいわけではありません。貴方のような、同じ闇の中にいる方に、この景色がどう映るのかを知りたいだけなのです」
俺は戸惑うように眉を寄せ、しばらくの間、街の夜景を見下ろしていた。
やがて俺は、重い溜息を吐き出し、諦めたように首を振った。
「……勝手にしろ。あんたがそれで気が済むなら、付き合ってやる」
彼女の後に続き、坂道の突き当たりにある、蔦に覆われた古びた洋館風のアパートへと向かう。錆びた鉄の扉を押し開けると、建物の古層に染み付いた油絵具の匂いと、微かな埃の香りが混ざり合い、俺を現実から異界へと引き戻していく。
「……どうぞ。散らかっていますけれど、適当なところに掛けてください」
狭い玄関を抜け、天井の高いアトリエへと招き入れられる。
「……冷え切ってるな。ここには、生活の匂いがまったくない。人間が住んでいる場所というより、何かの保管庫みたいだ」
「今の私には、温もりなど不要ですから。あちらに立て掛けてあるのが、今の私が描ける、唯一の景色です」
俺は促されるままに、長年使い込まれて塗装の剥げた丸椅子に腰を下ろした。だが、俺の視線はすぐに、部屋の中央に鎮座する、大きなキャンバスに吸い寄せられていった。そこには、彼女がここ数ヶ月間、一筆一筆に呪いを込めるようにして描き上げた”神戸”がある。
「……これが、あんたが描き続けている神戸なのか。ポートタワーも、メリケンパークも、すべて死んでいるみたいだな」
俺が吐き捨てた言葉には、拒絶ではなく、自分自身の内側にある空虚さを突きつけられた者の深い共鳴が混じっていた。
「死んでいるわけではありません。……ただ、今の私に見えている世界を正直に並べると、どうしてもこうなってしまうだけなんです」
「正直に、か。なら、あんたの目には、この街は救いようのない墓場にでも見えているっていうのか」
「墓場だなんて、そんなものではありません。ただ、意味を失い、静かに風化を待つだけの標本。……私の目には、今の自分自身がそう映っているから、描くものも同じ形をしてしまうのでしょう」
彼女は淡々とした口調で言いながら、俺のためにぬるいお茶を用意した。おもてなしの形をなぞる彼女の指先が、酷く滑稽で、無意味な儀式のように思えてならない。
「あんたの絵は、残酷だな。俺が必死に隠そうとしていた、中身が空っぽの自分を、鏡みたいに見せつけられている気分だ」
「貴方も、そう感じるのですね。私の描く不毛な景色の中に、自分の残骸を見出してしまう。それは、私たちがまだ、自分を完全に諦めきれていない証拠なのでしょうか?」
「諦めきれていない? 笑わせるな。俺はただ、この無意味な現実に苛立っているだけだ」
「陽斗さん。貴方のその苛立ちは、まだ自分の中に火が残っているからこそ生じる熱です。……私の描くこの街には、そんな熱さえも、もう残っていません」
自嘲気味に呟いた彼女の声は、広いアトリエの天井に吸い込まれ、空虚に反響した。
「火だと? そんな格好いいもんじゃない。これはただの未練だ。積み上げたものを一瞬で壊された、無能な男の断末魔だよ」
「断末魔であっても、それは生命の鼓動です。私の世界は、あの日を境に、この絵のように平坦で、冷え切った状態に支配されたままなのですから。貴方のその苛立ちさえ、今の私には羨ましく思えてしまう」
「……羨ましいなんて言うな。俺は、あんたと同じ闇の中に沈んでいるはずだ。そうでなければ、こんな不自然な共鳴なんて、起こるはずがないだろう」
「ええ、そうです。私たちは、同じ深淵を覗き込んでいる共犯者。でも、陽斗さん。貴方はその闇の中で、まだ出口を探して、爪が剥がれるまで壁を掻きむしって足掻いている。その不格好な姿が、今の私には、失われた光のように見えてしまうのですよ」
彼女は初めて、俺の瞳を真っ直ぐに射抜くように見つめた。
「光ねぇ。あんた、本気で言ってるのか。俺みたいな、居場所も価値も失った男のどこに、そんなもんが見えるんだ」
「本気です。貴方がさっきから無意識に握りしめている、その震える拳。それが、今の私にはどんな色彩よりも鮮やかに、この灰色の部屋を照らしているのです。その震えは、まだ貴方が『生きていたい』と、心が悲鳴を上げている証拠ではありませんか」
「勝手なことを言うな! 俺は、あんたの慰めが欲しくてここに来たんじゃない。あんたの同情を浴びて、傷を舐め合うつもりなんてさらさらないんだよ!」
「分かっています。私も、貴方を慰めるつもりなど毛頭ありません。……ただ、私は独りでこの灰色を塗り続けることに、少しだけ、疲れてしまっただけなのです。この虚無を分かち合える存在を、心が求めてしまったのかもしれません」
俺は顔を背け、忌々しそうに唇を噛んだ。視線は再び、色のないポートタワーへと戻る。
「……この絵、ポートタワーだけが妙に歪んで見えるのは、わざとか?」
「ええ。私にとって、あのタワーは神戸の象徴ではなく、崩れ落ちる寸前の脆い砂の塔のように見えるのです。私が築き上げようとしたキャリアも、プライドも、すべてあんな風に、内側から崩壊してしまいましたから」
「砂の塔か。仕事と同じだな。土台に一行でも不備があれば、どれだけ巨大な構造物だろうと、一瞬でゼロになる。俺たちの人生も、そんな脆弱な仕組みの上に立っていたってわけだ」
俺の言葉が、彼女のキャンバスの灰色と混ざり合い、アトリエの空気をより一層濃密なものに変えていく。
「……詩織さん。あんた、いつまでこんなものを描き続けるつもりだ。こんな見てるだけで死にたくなるような景色を」
「分かりません。……でも、この街が再び色づいて見えるようになるまで、私は筆を置くことができない。それが、自分を裏切った過去に対する、私なりの抵抗なのです」
「抵抗か。不器用なことだ。俺なら、とっくにキャンバスを切り刻んで、全部燃やしちまうがな」
「もし、貴方がそうしたいのなら、今ここでやっても構いませんよ。パレットナイフは、そこにありますから」
彼女は机の上のナイフを指差した。俺は一瞬、その冷たい鋼に視線を落としたが、すぐに顔を上げ、鼻で笑う。
「やめとけ。俺には、他人の絶望を壊す権利なんてない。それに、この灰色の街を壊したところで、俺の中の空っぽが埋まるわけでもないしな」
窓の外、本物のポートタワーを模した灰色の影が、キャンバスの中で嘲笑うように俺たちを見下ろしているかのように思えた。
(招き入れられてしまった。この女の誰にも触れさせたくなかったはずの絶望の核心に。だが、不思議と拒絶感はない。今の俺にとって、この痛みこそが、唯一の確かな色彩なのだから)
アトリエの冷たい空気の中で、俺たちの秒針は再び止まり、互いの心音だけが、不気味なほど鮮明に呼応し合っていた。
夕闇が夜へと溶け落ち、部屋の隅々は深い闇に侵食されていく。だが、俺たちの間にある”灰色”だけは、奇妙な透明度を保ったまま、そこに存在し続けている。
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