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婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: スフィーダ
第一章 灰色の海と、色彩の坂道

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第05話 地下道の残響 ~詩織視点~

 三宮の喧騒を逃れるように地下道へ足を踏み入れると、ひんやりとした無機質な空気が、私の火照った意識を静かに冷やしていく。手提げ袋の中には、新しく買い足したスケッチブックと数本の鉛筆が、その角を私の太腿にぶつけながら、重苦しい存在感を執拗に主張していた。

 

(どうせ、また真っ白なページのまま放置することになるのに。どうして私は、こうして自分を追い詰めるような真似ばかり繰り返してしまうのかしら?)

 

 美術教師という外面を保つために、今日も教壇に立ち、色彩の美しさや創作の喜びなんていう空虚な言葉を、機械的に吐き出し続けてきた。五年前から積み上げてきたはずの情熱は、あの日を境にすべて蒸発し、今の私には、乾燥してひび割れた大地のような虚無感だけが残されている。


 人通りの疎らな通路の隅、照明の届かない影の中に、一人の男が壁に背を預けてうなだれているのが見えた。周囲の空気から完全に孤立し、ただそこに絶望という質量を置いたかのようなその背中を見て、私は一瞬、心臓を直接掴まれたような錯覚に囚われる。

 

(……忘れるはずがない。あの、自分自身を呪うような、暗く淀んだ瞳。あの人が、どうしてこんな場所で、あんなに震えているの)


 一度は無視して通り過ぎようと、私は視線を前方の暗闇へと目を向ける。他人の心に触れることは、自分の中の脆い感情を崩すことでしかないと、この数日間で何度も自分に言い聞かせてきたはずだ。それなのに、私の足は、あの日喫茶店で見た彼の助けを求めるような叫びを思い出した瞬間、意思に反して止まってしまった。


「……また、こんな場所で。貴方は、よほど一人で壊れるまで自分を追い詰めるのがお好きなようですね」


 自分の口から出た言葉は、予想以上に冷たく、それでいて隠しきれない動揺を孕んでいた。彼がゆっくりと顔を上げると、そこには案の定、出口のない迷路を彷徨い続けて限界を迎えたような、救いようのない苦悶の表情があった。


「……あんたか。また偶然だなんて、もう笑えないな。俺の居場所を、どこかで調べていたんじゃないのか」

 

「そんな手間をかけるほど、私は情熱的な人間ではありません。ただ、画材を買いに来た帰り道に、あまりに放っておけない影を見つけてしまっただけです」


 私は彼の隣の壁に、そっと自分の背中を預けた。視界には薄汚れたコンクリートの壁が広がっているが、隣に立つ彼から伝わってくる微かな体温が、今の私には不気味なほど心地よく感じられた。


「……画材?」


 彼が私の手元に視線を落とし、怪訝そうに呟いた。その声には、自分自身の苦痛以外に意識を向ける余裕が、ようやく少しだけ戻ってきたような響きがあった。

 

「ええ。これでも一応、美術を教えている身ですから。仕事で使う分を切らしそうで、補充しに来ただけですよ」

 

「美術教師か。……ふん、あんたも大変だな。自分の中身が真っ白な癖に、子供たちには綺麗な色を塗れって教えているわけだ」

 

「おっしゃる通りです。惨めだとは分かっています。でも、そうして形だけでも教師でい続けないと、自分がどこかへ霧散してしまいそうで、怖いんです。……そんな自分を許せないと思いながら、こうして呼吸を続けているだけなのですよ」

 

 彼の言葉に、私は一瞬だけ息を呑んだ。

 沈黙が流れる中、私たちは地下道を通り抜ける風の音だけを共有していた。誰にも言えない傷を抱えた二人が、ただ隣り合っているという事実が、皮肉にも今の私にとって唯一の救いになっている。


「……貴方に言われると、自分のこれまでの足掻きが、すべて無意味に思えてくるから困ります」

 

「無意味じゃないさ。ただ、あんたは真面目すぎるんだ。……その潔癖なまでの誠実さが、今は自分を切り刻む刃になっていることに気づけよ」


 自嘲気味に彼が呟いたその言葉は、彼自身に向けた刃でもあったはずだ。彼もまた、誠実であろうとして、不条理な裏切りに解を見出そうとしていたのだから。私は意を決して、隣に立つ彼の横顔を、じっと見つめた。


「……ねえ。貴方の名前、教えていただけませんか。いつまでも、お名前も知らないままでは、さすがに落ち着きませんから」


 私の不器用な、けれど初めて彼という一人の人間に向き合おうとする言葉に、彼の瞳が微かに揺れた。


「……陽斗だ。浅井陽斗。あんたの名前も、聞いておいて損はないだろう」

 

「瀬戸詩織と申します。……詩織で構いません」


 浅井陽斗。その名を心の中で反芻したとき、世界を覆っていた灰色の霧が、ほんのわずかだけ、その密度を減らしたような気がした。


「……陽斗さん。もしよろしければ、少しだけその難しい考えを止めて、ただの人間として、この沈黙に付き合っていただけますか」


 彼は何も答えず、ただ目を閉じて深く息を吐き出した。

 それは、張り詰めていた緊張が、ようやく逃げ場を見つけたような、安堵の音。

 地下道の冷たい空気の中で、私たちは名前も知らない他人から、痛みを共有する共犯者へと、その関係を静かに書き換えていた。


 ふと、遠くから地下鉄の走行音が微かな振動となって、コンクリートの壁を伝わってきた。

 それは心臓の鼓動よりも頼りなく、けれど確かにこの場所が現実と地続きであることを、私たちに思い出させてくれる。

 

(……この人が今、何を失ってここにいるのか、私には分からない。けど、その喪失感の深さだけは、自分の指先を流れる冷たい血液と同じ温度に感じられるのよ)

 

 私たちはそれ以上言葉を交わさず、ただ静かに、地下道の暗闇を見つめ続けていた。

 私の持っているスケッチブックの角が、不意に彼の腕に触れる。

 その瞬間の微かな衝撃すら、今の私には、自分がまだ生きていることを証明する唯一の合図のように思えてならなかった。


 今まで、私がキャンバスに描いていた色は、もっと鮮やかで、もっと残酷なほどに輝いていた気がする。

 だけど今の私には、この暗い通路に落ちる歪な影こそが、最も真実に近い色のように見えてしまう。

 陽斗さんは、再び深い沈黙の中に沈んでしまったが、その呼吸はあの日よりはずっと穏やかに、私の耳元に届いている。

 彼が背負っている正しさという名の呪縛は、きっと簡単には解けないのだろう。

 それでも、こうして誰かの体温を感じるだけで、凍りついていた私の感情が、少しずつ、形を変えていくのを感じる。


「……詩織さん。あんた、さっき自分を許せないって言ったな。あれは、どういう意味だ」


 不意に投げかけられた問いに、私は一瞬、息を止めた。

 それは、私が自分自身の心の最も深い場所に、厳重に鍵をかけて仕舞い込んでいた、毒薬のような問いだった。

 

「……文字通りの意味です。信じていたものを守れなかった、見抜けなかった自分を、どうしても愛せないんのです。絵を描くという行為さえも、今は自分を裁くための道具にしかなっていませんから。陽斗さんに、不格好に崩れろと言われて、少しだけ、楽になったような気もしますけれど」

 

「……そうか。あんたも、自分の正しさに復讐されているわけか。不毛な作業だと分かっていてもな」


 陽斗さんの言葉は、どこか諦めに似た優しさを孕んでいた。

 彼もまた、自分という存在の中に生じた決定的な歪みを、修正できないまま抱え続けているのだろう。

 地上へと続く階段から、時折、通りがかりの足音が響いては消えていく。

 けれど、この地下の片隅にある静寂だけは、誰にも踏み荒らされない、私たちのための神聖な聖域に思えた。

 

 私たちは、出口の見えない暗闇の中にいる。

 けれど、一人で彷徨う闇と、隣に誰かがいる闇とでは、その濃度がまるで違うことを、私は初めて知った。

 

(……この痛みがいつか癒えるのか、それとも一生抱えていくものなのかは、まだ分からないでも、今はただ、この隣にある静かな熱だけを、信じてみたいと思うのよ)


 私はゆっくりと、スケッチブックを抱える手に力を込めた。

 まだ何も描くことはできないけれど、この真っ白なページに、いつか陽斗さんの瞳が映す影を、一本の線として刻める日が来るのだろうか。

 

 冷え切った地下道の風が、私の頬を優しく撫でて通り過ぎていく。

 私たちは、どちらからともなく同時に、出口へと向かって歩き出した。

 明るい光が待つ地上へ。それとも、さらに深い夜の中へ。

 どちらに向かうにせよ、今この瞬間だけは、私の心の中に芽生えた小さな共鳴が、消えることなく震え続けていた。

 

(……陽斗さん。貴方も私も、壊れたままの自分でいいのかもしれませんね。少なくとも、この暗闇の中では、その不完全さこそが、私たちを繋ぎ止める唯一の確かな色なのだから)

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