閑話 帰国前日 ~生徒視点~
湿り気を帯びた初夏の西日が、放課後の美術室に長々と影を落としている。
この部屋に充満する独特の油彩とテレピン油の匂いは、一年前と少しも変わっていない。窓際に置かれた主のいない教壇の椅子が夕陽を反射して白く光っているのを見ると、明日という日がどれほど決定的な意味を持つのか、嫌でも意識させられてしまう。
私、由紀が、この美術部の部長を引き継いでから、もう一年以上の月日が流れた。しおちゃん先生が異国の地へと旅立ったあの日、私はまだ二年生で、先生のいないこの場所をどうやって守ればいいのか、そればかりを考えていた。
最高学年の三年生になった今の私は、ただ思い出を保存するだけじゃ足りないって分かっている。
(先生に、私たちの成長をちゃんと見せなきゃね)。
先生に「みんな、上手くなったね」って笑ってもらうために、私たちはこの一年、逃げ場のないキャンバスと向き合い、泥臭く筆を動かし続けてきたのだから。
「……ねぇ、由紀。明日の今頃には、もうしおちゃん先生、神戸の土を踏んでるんだよね」
親友の香奈が、パレットの上で絵の具をこねながら、落ち着かない様子で話しかけてきた。筆を動かす手も、心なしかいつもより浮ついている。
「そうだよ。空港に着くのはお昼過ぎだって、陽斗さんから連絡あったでしょ。さっきから同じことばっかり聞いてるよ、香奈」
「分かってるけどさー! 落ち着かないんだもん。見てよ、このデッサン。緊張して手が震えて、線がガタガタになっちゃった」
香奈がわざとらしく肩を落として描きかけのクロッキー帳を見せると、後ろでデッサンに打ち込んでいた部員たちからも、楽しそうな笑い声が漏れた。
先生がいた頃から共に切磋琢磨してきた二年生たちにとっても、明日の再会は、自分たちがこの一年でどれほど成長できたかを証明するための音のない試験のようなものだ。
その喧騒を遠巻きに眺めていた一年生たちが、顔を見合わせながらおずおずと私の方へ歩み寄ってきた。
「あの……部長。明日の、その……『伝説の二人』のところに行くお話なんですけど」
代表して声をかけてきた一年生の瞳は、期待にキラキラと輝いている。
彼女たちは、しおちゃん先生の指導を直接受けたことはない。しかし、この高校には、あの日、校門前で繰り広げられた光景が、時が止まったかのような伝説として語り継がれている。
普段は完璧に整っているはずのモデルと見紛うような大人の男性が、ボロボロになって校門で立ち尽くしていたという話。
高級なスーツは埃にまみれ、ネクタイは引き剥がされたように歪み、泥だらけの靴で何時間も、ただひたすらに先生が出てくるのを待っていた。
立場も、プライドもすべてかなぐり捨てて、震える声で「君がいないと生きていけない」と縋った、あの剥き出しの愛の形。それを見守っていた当時の生徒たちが一斉に拍手を送り、夕暮れの街を祝福で包んだという実話は、今や後輩たちの憧れの聖典になっている。
「私たちも、一緒にお迎えに行っちゃダメですか!? 瀬戸先生にもお会いしたいですし、何よりみんなが言う、めちゃくちゃ格好いいって噂の陽斗さんを、この目で拝んでみたくて……!」
「お願いします先輩! 私たち、アトリエの隅っこで空気になってますから! 邪魔しませんから!」
必死に手を合わせ、懇願してくる一年生たち。彼女たちにとって、しおちゃん先生と陽斗さんは、もはや美術部の守護聖人のような存在なのだろう。その気持ちは痛いほどよく分かる。
だが、私は苦笑いしながら、ゆっくりと首を振った。
「気持ちは嬉しいんだけどね、明日は無理かな。陽斗さん、ああ見えてすっごく神経質なんだよ。いきなり一年生まで大勢で押し寄せたら、あの人の許容範囲を完全に超えちゃって、『不法占拠だ、排除する』って本気で怒り出しちゃうから」
「ええーっ、そんなぁ……」
目に見えて肩を落とす一年生たち。そのあまりの落胆ぶりに、私は少しだけ悪い気がして、悪戯っぽく微笑んで付け加えた。
「その代わり、と言っちゃなんだけど。明日、隙を見て陽斗さんの隠し撮り……じゃなくて、かっこいい写真をこっそり撮ってくるから。それで勘弁してくれる?」
「本当ですか!? 陽斗さんの生写真!」
「絶対ですよ、部長! 待ち受けにするレベルのやつ、お願いしますね!」
現金なもので、一年生たちは一気に活気を取り戻し、自分たちの作業へと戻っていった。それを見送ってから、香奈が私の隣で小さく吹き出した。
「由紀、よくあんなこと言ったね。陽斗さんの写真なんて、バレたらスマホ没収されてデータ消去されるよ?」
「そこは部長の腕の見せ所でしょ。さぁ、香奈も手を動かして。陽斗さんに『座標がズレている』なんて言わせないくらいのやつ、仕上げるんだから」
「あはは、目に浮かぶ!『一ミリの塵も許容できん』とか言って掃除機かけて待ってる陽斗さんの顔!」
香奈の言葉に、美術室の空気が一気に和らいだ。
いつも理路整然としていて、近寄りがたいほどに完成された大人の男性。先生がいなくて寂しいはずなのに、それを決して表に出さず、ずっと彼女の帰る場所を一人で守り続けてきた人。
たまに街で見かける彼の背中は、以前よりもどこか厳かで、それでいて先生を待つためだけの特別な場所を、ずっと心の中に大切に空けているような、一途な熱を感じる。
「ねえ、由紀。明日の作戦、もう一度しっかり確認しとこうよ」
香奈が椅子を引き寄せて身を乗り出し、声を潜めた。
「陽斗さんから『無事に合流した』って連絡が来た瞬間に、私たちはマンション近くで待機。先生が部屋に入って、一息ついたところを見計らって……」
「『突撃、隣のアトリエ!』でしょ? 分かってる。でも、さっきも言ったけど、あんまり早く行きすぎると本当に追い返されるからね。あの人、あぁ見えて本気で怒ると怖いと思うよ」
「大丈夫! 養生シートも予備のイーゼルも、もう部室の隅にまとめてあるんだって。先生が帰ってきたその場所を、また私たちの描く音と笑い声でいっぱいにしなきゃ」
私は窓の外を眺めながら、ふと思い出したことを口にした。
「……そういえば、教頭先生が言ってたんだけど。しおちゃん先生、帰国してから一ヶ月は学校に来ないんだって。向こうの片付けとか、こっちの生活を整えるために、あらかじめ学校側と相談して復帰時期を決めてたみたい
「えっ、そうなの!? じゃあ、一ヶ月間は先生、あのアトリエにずっといるってこと? 先生、しっかりしてるなぁ。一ヶ月も陽斗さんとべったり過ごすつもりなんだろうね」
「そうなるね。だからこそ、明日私たちが突撃して、先生の『居場所』をしっかり温めてあげないと」
私たちはもう決めている。先生が帰ってきたその日から、あのマンションを私たちの”砦”にするのだ。
明日、空港の到着ゲートが開いて、異国の風を纏った先生が、あの柔らかな声で「ただいま」って帰ってくる。
その瞬間、陽斗さんが一年間ずっと一人で耐えてきた、あの張り詰めた空気も、きっと一気に溶けてしまうんだろうな。私たちの絵も、先生の笑顔を見れば、今よりもっと思い切った、自由な色になるはずだ。
「さぁ、みんな。お喋りはここまで! 最後の一筆まで集中して。先生を驚かせる準備、ちゃんとできてる?」
私が部長らしく声を張ると、部員全員が「はい!」と力強く返事をしてくれた。
瀬戸詩織という、私たちの中心にある太陽が帰ってくるのを待ちわびる美術室。私たちの長い前哨戦は、あふれそうな期待と一緒に、静かに、そして熱く暮れていった。
【後日談:アトリエの戦果】
嵐のような帰国初日が終わり、翌週の放課後。
美術室は、美術部員でもない一年生たちまでが詰めかけ、異様な熱気に包まれている。入口付近にできた人だかりを見て、香奈が目を丸くして私に耳打ちする。
「ちょっと由紀、あの子たち美術部じゃないよね? なんでこんなに集まってるの?」
「……一年生たちが『生陽斗の最新写真が見られる』って、クラスで言いふらしちゃったらしいのよね。あのアトリエ突撃の話、すっかり学園の最新トレンドになっちゃってるみたい。隠し撮りに近いって言ったのに、広めるのが早すぎるよ……」
「うわぁ……あの人が知ったら、今度こそ『プライバシーの侵害で訴訟を起こす』って言い出しそう」
香奈は呆れ顔だが、私は苦笑しながらスマートフォンを取り出した。途端に、部員も部外者も入り混じった一年生たちが、一斉に私を取り囲む。
「由紀先輩! 写真、写真見せてください!」
「伝説のイケメン、本当にいたんですか!?」
悲鳴のような催促に押され、私はとっておきの数枚を画面に表示した。
あの日、校門前のただならぬ事態に居合わせた教頭先生や他の教職員たちも、陽斗さんの放つ圧倒的な存在感と色気には毒気を抜かれていたと聞く。
ボロボロの姿ですら隠せなかったその造形美は、「瀬戸先生のパートナーは、間違いなく色気のある超一級の美男子だ」という共通認識として、職員室にまで深く刻まれていたのだ。
画面には、私たち美術部員全員としおちゃん先生、そして背後で「勝手に撮るな」と言わんばかりに腕を組み、不機嫌そうにしながらも、しっかりとカメラに収まっている陽斗さんの集合写真。
「えええっ、本物……!? この人、モデルさんじゃないんですか?」
興奮した様子で一年生が声を上げる。
「私たちも最初はそう聞いたんだけど、違うのよね」
「じゃあ、芸能人!? 俳優の卵とか!?」
矢継ぎ早の質問に、私は以前のやり取りを思い出しながら答えた。
「ううん。陽斗さんは、システムエンジニアなんだよ。普通にお仕事してる人」
「「「システムエンジニア!!?」」」
その場にいた全員が、まるで未知の生物の名前を聞いたかのように声を上げた。
「……嘘でしょ? こんな色気のあるSE、この世に存在していいんですか!?」
「絶対に社内でモテモテですよ! 周りの女性社員、仕事にならないんじゃないですか!?」
勝手に盛り上がる後輩たちの想像をよそに、私は次のツーショットにスワイプした。陽斗さんが先生の隣で、ほんの少しだけ口角を上げている一枚だ。それを覗き込んだ美術部の二年生、香奈の隣にいた部員が、感嘆の声を漏らした。
「見てくださいよ、この先生を見る目! 普段はあんなに怖そうなのに、先生の隣にいる時だけ、なんか……すごく特別な空気が出てませんか!? 隠しきれない色気というか!」
その言葉に、美術部外の一年生が不思議そうに首を傾げた。
「えっ、怖そうなの? このお兄さん」
あの日、愛に全てを捧げてボロボロになった伝説の姿しか知らない彼女たちにとって、陽斗さんはどこまでも一途で美しい王子様そのものなのだろう。
本当の陽斗さんは、一ミリのズレも許さない精密機械のような人で、不法占拠だなんだと理屈で攻めてくる、ちょっと――いや、かなり――怖い人だなんて、今の彼女たちに言っても信じてもらえないかもしれない。
「あっ、この写真! 先生が笑った瞬間に、このお兄さんの口角がほんの数ミリ上がってるやつ! これ絶対欲しい!」
画面をスワイプするたびに、部室の温度が数度上がっていく。初めて目にする伝説の人物の圧倒的な容姿と、その一途な眼差しに、美術部外の一年生たちまでもが完全にノックアウトされていた。
「……ね、言ったでしょ。生で見たら、みんな気絶しちゃうって」
私の隣で、なぜか香奈が勝ち誇ったように笑う。
結局、陽斗さんには撮影したことがバレて「データの破棄を要求する」と理屈っぽく叱られたけれど、先生が「いいじゃない、記念なんだから」と微笑んだ瞬間に、彼は溜息をついて引き下がった。
その敗北宣言こそが、彼が一年かけて守り抜いた”砦”が、ようやく本当の平和を取り戻した証拠なんだろうと思う。
騒がしい後輩たちを眺めながら、私はカバンの中のスケッチブックに触れた。そこには、再会したあの日、先生が一番に描き込んでくれた、新しい色彩のヒントが記されている。
太陽が帰ってくる美術室。私たちの物語は、この眩しい光の中で、また新しく色づき始めるのだ。
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