閑話 三宮事変 ~崩落の女子社員連合視点~
その日は、歴史的な『敗北の日』として、わが社の女子社員史に永遠に刻まれることになるだろう。あるいは、三宮の一角に建つこのオフィスビルにおいて、平穏という名の虚飾が剥がれ落ちた『審判の日』と呼ぶべきか……。
事の発端は、昼休みの社員食堂だった。
普段ならば、周囲を寄せ付けぬ威圧感で栄養摂取という名の『作業』を淡々とこなすはずの『精密機械』浅井陽斗が、あろうことか口元を微かに緩ませて牛カツを頬張っていた。その、春の訪れを予感させるようなわずかな変化に、フロア中がざわめき立つ。
だが、真の衝撃はその直後に訪れた。
社員の前に不意に現れた社長が、陽斗の肩を豪快に叩き、その恋人の帰国を全社員の前で高らかに宣言したのである。一途に待ち続けた一年、パリからの帰還、そして明日の有給取得。
一つ一つの言葉が、ある者にとっては神託のように、そして女子社員連合にとっては致命的な一撃となって降り注いだ。
現場に居合わせた開発部の観測者は、震える指で即座に端末を操作する。極限状態の中で叩き込まれたその文字列は、暗号化された裏チャットを介し、一瞬にして全社へと伝播する。
【緊急入電! 緊急入電! 全域にレベル・レッドの非常事態宣言! ターゲットに『パリ帰りの本命』の存在が確定! 明日、有給を行使しての空港迎撃が判明! 繰り返す、我らが守護してきた聖域は既に陥落していた!】
その情報は、瞬時に社内ネットワークの深部、すなわち秘書課、経理部、総務部を網羅する”女子社員連合”の全端末を激しく震わせた。それはもはや単なる通信ではなく、彼女たちの精神を直接揺さぶる警鐘であり、平穏な日常の終焉を告げる弔鐘でもあった。
午後五時三十分。定時を告げる無機質なチャイムが鳴り響くと同時に、彼女たちは一切の残業を拒絶した。普段ならば完璧な業務完遂を誇る彼女たちが、積み上がった書類をそのままに、三宮の駅裏にある、防音性の高い個室完備の居酒屋へと集結したのである。
重々しい空気の流れる個室。
「……まずは、状況を整理しましょう」
社長秘書が、お通しの枝豆には目もくれず、鋭い視線で一同を見渡した。彼女の眼鏡は、心なしか怒りで帯電しているように見える。その奥の瞳は、まるで不具合を抱えたプログラムを冷酷に切り捨てるデバッガーのそれだ。
「ターゲット・浅井陽斗に、一年以上前から交際していた女性が存在した。彼女はパリへの留学生であり、浅井氏はその帰国を……一途に、それこそ狂おしいほどの情熱で待ち続けていた。これが否定しようのない事実なのね?」
経理主任が、ジョッキをテーブルに叩きつけた。ドン、という重い音が響き、ジョッキの底が悲鳴を上げ、琥珀色の液体が彼女の手に飛ぶが、拭おうともしない。
「信じられない……。あの隙のない男が、仕事以外のことで、それも女一人のために有給を取るなんて! 私たち経理部が総力を挙げて算出した『浅井陽斗の生涯独身率』は九十八パーセントだったのよ!? 残りの二パーセントは、計算上の誤差、あるいは『バグ』として処理していたのに! まさかその数パーセントに、これほどまでの巨大な伏兵が隠されていたというの!? これじゃあ、これまでの予算編成も何もかもが狂ってしまうじゃない! 全社的な損失よ、これは!」
彼女はさらに声を荒らげ、空になったジョッキを店員に突きつける。
「いい? 私たちは彼を『仕事に殉ずる孤高の存在』として定義することで、自分たちの心の平穏を保ってきたの。彼が誰のものでもないからこそ、私たちは秩序正しく彼を遠巻きに拝観することができた。それがどうよ! パリ? 遠距離恋愛? そんなドラマチックな設定、事前のシミュレーションには一文字も入っていなかったわ!」
「問題はそれだけじゃないわ。……情報によると、彼は今日、スマホを見て『雪解けのような笑み』を浮かべていたそうよ」
総務部の重鎮が、血を吐くような苦渋に満ちた声で付け加えた。
その瞬間、個室内に絶望的な溜息が充満し、湿度が五パーセントほど上昇した。彼女たちの吐息は、長年積み上げてきた憧憬が瓦解していく断末魔のようでもあった。
「雪解け……。あの、視線が合うだけで周辺の空気を凍りつかせ、端末さえもフリーズさせそうな圧を放つ浅井さんが、たった一通のメッセージで解けたっていうの……? 私たちの長年の忠誠でも動かなかったあの心が、海の向こうからの文字列一つで? そんな、数キロバイトのデータに敗北したというの、私たちは!」
「ああ……もうダメ。明日、会社に来る自信がないわ。三宮の街が、彼の幸せを祝う光のように見えて、眩しすぎて直視できない……。センター街も、居留地の美しい街並みさえ、すべてが私たちを嘲笑っているように感じる……。明日、空港で彼が浮かべるであろう顔を想像するだけで、心臓がバグを起こしそうだわ」
この世の終わりのような呻きが漏れる中、宣伝部の新人社員は震える手でウーロン茶のグラスを握りしめていた。彼女は、血走った眼で虚空を睨みつける先輩たちの横顔を交互に見やり、引き攣った笑いを浮かべる。
「……お、恐ろしい。これが、執念を拗らせ、行き場を失ったプロの独身たちの怒り……。もはや恋慕を通り越して、宗教的熱狂に近い何かだわ。これ、もはや業務妨害レベルの情念じゃないですか……」
新人の戦慄を余所に、秘書が再び声を低めて宣告する。その声には、敗北を認めつつも、さらなる執念を燃やす不気味な響きがあった。
「静かにしなさい! ……まだ、私たちがすべきことは残っているわ。鉄の掟を更新するのよ。……いい? 明日、彼は空港でその『パリ帰りの女』と合流する。そして、社長の口ぶりから推測するに……そのまま共に暮らすことになるでしょう。おそらくは、既に準備は整っているはずよ。あの用意周到な彼のことだもの、生活基盤の構築に抜かりはないはず。新生活用の家具、食器、それらすべてを彼は既に選別し、最適解を導き出しているに違いないわ」
「同棲……っ! あの隙のない浅井さんの生活圏に、他人の体温が入り込むなんて……。事務手続き上の変更届けや、二つ並んだ歯ブラシ、そんな些細な変化すら、今の私にはあまりに眩しく、愛おしく、そして呪わしく感じるじゃない……! 私たちの知らない彼が、その家には存在するっていうの? 仕事着以外の、もっと柔らかな表情をした彼が?」
総務部の重鎮は、あまりの衝撃に椅子から滑り落ちそうになりながらも、テーブルに縋り付いて声を絞り出す。
「考えてもみて。あの、一分の隙もないスーツ姿の彼が、朝、寝癖をつけたまま彼女とコーヒーを飲む姿を……。あるいは、夕食の献立について相談する声を。……ああ、想像しただけで脳内の回路が焼き切れそうだわ!」
「黙って聞きなさい!」
秘書が鋭く一喝し、再び場を支配する。
「私たちの『一縷の望み』は、今この瞬間、絶望へと塗り替えられた。だが、女子社員連合は屈しない! 明日、彼が連れてくるであろうその女性を、私たちは『全方位から観測』しなければならない。もし彼女が、私たちの浅井さんに相応しくない、少しでも彼を不幸にするような、あるいはその尊厳を汚す存在であれば……」
秘書の瞳から光が完全に消失し、底知れぬ暗黒が広がる。
「その時は、この三宮から……いえ、日本から、物理的に『例外処理』を執行するまでよ。彼に相応しき者のみが、その隣に立つことを許される。たとえそれが、私たち自身でないとしてもね。彼の完璧なキャリアと、その美しい生活を乱すバグは、私たちが排除する。これはもはや、わが社の品質管理の一環よ!」
「主任、それはもう愛じゃない、ただの監査ですよ……!」
新人のツッコミも虚しく、個室の空気はさらに重苦しく、そして熱を帯びていく。
居酒屋の壁一枚隔てた隣の席では、何も知らない一般客が今日の仕事を終えた解放感から楽しげに笑い声を上げている。だが、この密室だけは、まるで重力場が歪み、光さえも届かぬような密度の濃い絶望と、歪んだ忠誠心が渦巻いている。
「店員さん! 一番強いお酒を! 脳が麻痺して、この事実を忘却できるほど強いやつを、人数分持ってきてもちょうだい! 今夜は三宮の酒をすべて飲み干す勢いでないと、明日という日を迎える勇気が出ないわ!」
経理主任の絶叫が、三宮の夜に空虚に激しく響き渡った。
彼女たちはまだ知らない。明日、彼が空港のゲートで迎えるその人物が、彼女たちの想像を絶するほどに気高く、慈愛に満ち、そして浅井陽斗という男の心に唯一、温かな血を通わせることができる『正解』であることを。
そして、明日の太陽が昇り、運命の時間が訪れたその時。
彼女たちの強固な『鉄の掟』も、長年積み上げてきた『聖域の観測記録』も、たった一人の存在によって跡形もなく粉砕されることになることを。
そのあまりに一方的な結末と、突きつけられる残酷なまでの真実。
三宮の夜をいくらハシゴしたところで、決して埋めることのできない巨大な喪失感が、彼女たちの足元を浚うことになるだろう。
たとえどれほどの酒で意識を曇らせようとも、明日という日は残酷にやってくる。
浅井陽斗が『誰のものでもなかった昨日』から、『特定の誰かのためだけに生きる今日』へと移行するその瞬間。
彼女たちは、自分たちの居場所がどこにもなかったことを、嫌というほど思い知らされるのだ。
だが、今はまだ。
彼女たちは、濁った酒の海へと深く沈み込むことで、目の前に迫る破滅の予感を必死に拒絶し続けている。
三宮の路地裏に響く彼女たちの嘆きは、夜の喧騒に紛れながらも、確かにそこにある、一つの恋の終わりを告げていた。
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