第53話 帰国前日 ~陽斗視点~
窓の外には、活気に溢れる三宮の街並みが広がっている。絶え間なく行き交う人波と、ビル群の間を縫うように走るポートライナーの規則的な走行音。そんな都会の喧騒を階下に眺めながら、俺は午前中の業務を片付けていた。
俺は、社内で『精密機械』や『鉄仮面』と揶揄されている自覚はある。いかなる時も感情に左右されず、最短距離で最適解を導き出し、一切の妥協を許さない。それが俺の仕事の流儀であり、この過酷な業界で生き残るための誇りでもあったからだ。
だが、今日ばかりはどうにも効率が悪い。
思考の組み立てが何度も止まり、無機質な数字や情報の列の合間に、ある一人の女性の笑顔が割り込んでくるからだ。
昼休み。俺は午後からの膨大なタスクを叩き切るための英気を養おうと、珍しく混雑する社員食堂へと足を運んだ。選んだのは、がっつりとした牛カツ定食。ソースの香りに食欲をそそられながら、隅の席で黙々と箸を動かし、傍らに広げた資料に目を滑らせる。
その時だった。
不自然なほどに食堂内のざわめきが大きくなり、次いで波が引くように、水を打ったような静寂が広がった。
カツを口に運ぼうとしていた俺の箸が止まる。
(なんだ? この妙にそわそわした空気は。何かあったのか)
肌を刺すような違和感に、俺は怪訝に思って顔を上げた。
社員たちの視線が一方向に、それも畏怖と驚愕が入り混じったような色を帯びて集中している。その視線の先に立っていたのは、わが社の社長だった。
社長は不定期にふらりと社員食堂へ現れ、一般社員に混じって食事をすることがあるらしい。俺はその事実を知らなかったが、運悪く今日がその”不定期な日”に当たってしまったようだ。
どよめきが再び波のように広がる中、社長は周囲の驚きなどどこ吹く風で、一直線に俺の席へと歩み寄ってきた。
「おぉ、浅井君! 随分と豪快に食っているじゃないか。午後からの仕事に気合が入っているのか、それとも明日への景気付けかな?」
喧騒を突き抜けるような、太く朗々とした声。
社長は俺の隣に立つと、親愛の情を込めて俺の肩を豪快に叩いた。
「いよいよ明日は、例の彼女さんが帰ってくる日なんだろう? 隠したって無駄だぞ。あの『鉄仮面』の浅井君が、カツを頬張る口元まで緩んでるじゃないか。皆、聞いてくれ! 見ろ、今日の浅井君は実になんとも人間らしい顔をしているぞ。ようやく抜け殻から中身が戻ってくるわけだ!」
食堂内の全社員が、一斉にこちらを注視した。
その瞬間、食堂のあちこちから、驚きや冷やかしとは質の違う、悲鳴に近い溜息が漏れた。
「嘘でしょ……、浅井さんに彼女がいたなんて」
「しかも一途にずっと待ってたとか、信じられない……」
「あの隙のない浅井さんが、誰にも心を開かないと思ってたのに」
「全部その人のためだったの? 理想的すぎて辛い……」
「接点ないからフリーだと思ってたのに。あんなに困り果てた浅井さん、初めて見た……」
「あんなに隙を見せるなんて、それだけ彼女の存在が大きいってことだよね」
「ショックすぎる……。もう午後から仕事できる気がしない」
あちこちで箸が止まり、顔を見合わせて絶望的な表情を浮かべる彼女たちの様子は、俺にしてみれば身の置き所がないほどに居心地が悪い。
普段は「浅井さんの視界に入るだけで凍りつく」とまで言っている他部署の連中までが、今は遠巻きにだが確実にこちらを値踏みしている。
「ちょっと、空港まで迎えに行くために有給取ったって本当?」
「しかもパリで勉強中の彼女を一年以上も待ってたらしいじゃない」
「一途すぎて泣けるけど、その相手が私じゃないなんて……」
「今日の定食、全然味がしない。明日、会社休みたくなってきた……」
そんな重苦しい空気もお構いなしに、野次馬根性の強い連中が声を上げる。
「えっ、本当ですか!? あの浅井さんが、恋人の帰国を楽しみにしてニヤけてるなんて!」
「社長がわざわざ食堂に来てまで言うってことは、相当な浮かれっぷりなんですね!」
「見てくださいよ、今の浅井さんの顔! いつもなら氷点下の視線で凍りつかされるのに、今日はなんだか困ったように視線を泳がせて、耳まで赤いじゃないですか!」
好奇心と驚き、そして深刻な悲嘆に満ちた、耳を刺すような騒ぎ。俺は必死に無表情を装い、「……食事中ですので、その辺りで」と短く返したが、それは火に油を注ぐだけだった。
社長はさらにニヤニヤと楽しげな笑みを浮かべながら、
「寂しいなら寂しいと、情けない顔をしていろと言ったが、ようやくその顔も今日で見納めだな! うん、盛大に祝ってやらないとなぁ! 私や専務の行きつけのいい店に連れて行ってやろう」
と言い残し、騒然とする食堂を悠然と去っていった。
午後。気分転換のために休憩スペースのソファに深く身を沈め、俺は一度だけ手元のスマートフォンに目を落とした。画面には、詩織から届いたばかりのメッセージが灯っている。
『明日、無事に帰れそうです。空港で会えるのを楽しみにしていますね』
添えられた控えめなメッセージ一つ。それを見つめるだけで、俺の口角は重力に抗えずに緩んでしまう。自分でも驚くほど、頬の筋肉が柔らかく解けていくのが分かった。
明日、あのゲートの向こうから彼女が現れる。その瞬間を想像するだけで、胸の奥が確実に熱を帯びる。
だが、その安らぎは数秒で打ち砕かれた。
「……ねぇねぇ、見た? 今、浅井さんの口角、確実に上がってたよね」
「嘘、あの鉄仮面が? スマホ見てあんなにデレるなんて信じられない」
「社長の話、本当だったんだ。明日の帰国が待ちきれないって顔だよね」
「意外……。かわいいところあるじゃない」
パントリー付近にいた女子社員数人のヒソヒソ話が、遮るもののない空間で俺の耳にダイレクトに飛び込んでくる。
心臓が跳ね、羞恥心が津波のように押し寄せてくる。俺は即座にスマートフォンの電源を切り、キリッとした表情、いつもの無機質な『鉄仮面』へと戻したが、熱くなった顔だけはどうにも制御できない。
(……聞こえているぞ。全部聞こえている)
俺は平静を装い、彼女たちの横を足早に通り過ぎて自席へ戻ろうとした。だが、すれ違いざまにその内の一人に声をかけられた。
「浅井さん、顔が真っ赤ですよ? そんなに楽しみなら、もう今日は早退して空港で待機してても誰も怒りませんよ!」
追い打ちをかけるようなクスクスという笑い声。俺は返事もできず、ただ前だけを見て歩みを早めるしかなかった。
夕方。定時を迎え、逃げるようにオフィスを出ようとしたその刹那、背後に巨大なプレッシャーを感じた。
振り返ると、そこには社長だけでなく、専務や常務といった経営陣が、まるで重大なバグを追い詰めるデバッガーのように俺のデスクを完全に包囲していた。
「社長、見てくださいよ。浅井君のこの様子を。いつもは精密機械のような冷淡さがあるのに、今はもう、初恋を知った少年のように浮き足立っていますよ」
専務が、眼鏡の奥の目を細めて指摘する。続いて常務も、腕を組んで面白そうに頷いた。
「全くだ。今日の午後からの浅井君の仕事ぶりは、いつものキレが感じられない。頭の半分……いや八割方は、すでに空港の到着ゲートにあるんじゃないかな? これでは明日の仕事など、期待する方が無理というものだよ」
社長が、仰々しく、しかしどこか楽しげに手を広げて宣告した。
「いいか、浅井君。明日の君はバグだらけで見ていられんはずだ。そんな顔でクライアントの前に出られたら、弊社のブランドイメージが崩れる。これは会社の信用に関わる大問題だよ」
「ですから、社長。ここは一つ、経営判断を下しましょう」
専務が言葉を繋ぐと、社長が力強く頷く。
「決まりだ。浅井君、明日は仕事などせず、大人しく空港で門番でもしていろ。これは命令だ。ゲートの前で彼女を確実に捕獲するまで、一歩も動くんじゃないぞ!」
俺が反論しようと口を開きかけた、その時だった。
「浅井さん、明日は僕らがカバーしますから、安心して休んでください!」
「そうです。浅井さんのぶんまで、明日は私たちが死ぬ気で頑張りますから。絶対に片付けておきます!」
「浅井さんにはいつも助けてもらってますからね。僕らがミスした時、厳しいけど最後は必ずフォローしてくれたのは浅井さんじゃないですか。恩返しさせてくださいよ」
「そうですよ。浅井さんがいないと心細いですけど、明日くらいは僕らに任せて、とびきりの笑顔で彼女さんを迎えてあげてください」
「明日、浅井さんのデスクが動いてたら逆に私たちが怒りますよ。大人しく幸せになりに行ってください!」
周囲のデスクにいた社員たちが、一人、また一人と立ち上がり、次々と声をかけてきたのだ。いつもは『精密機械』からの厳しい指摘に戦々恐々としているはずの連中が、今は誰もが茶目っ気たっぷりの、それでいて心強い笑顔を俺に向けている。
その光景を眺めていた社長が、不意に腕を組み、満足げに目を細めた。
「……ふむ。浅井君も、ようやく部下から慕われだしたようだな」
ポツリと、確かな実感を込めて呟かれたその言葉。俺は鼻の奥が微かに熱くなるのを感じ、それを誤魔化すように、わざと不機嫌そうな溜息を吐いてみせた。
挙句の果てには、部下の高橋までもが、その包囲網の端から薄ら笑いを浮かべて声をかけてくる。
「しおちゃん先生によろしくっす! 浅井さんのそんな、生まれて初めて感情をインストールされたアンドロイドみたいな浮かれっぷり、いい酒の肴にさせてもらいますからね。お土産話、期待してますよ!」
「……高橋。明後日の進捗報告、一分の遅滞も認めない。死ぬ気で仕上げておけ。それと、他の皆も……あまり調子に乗るな」
俺は精一杯の冷たさを装って言い捨て、オフィスを後にした。背後からは賑やかな声が追いかけてくる。
「あはは、やっぱり最後は怖いな!」
「負け惜しみ乙っす!」
「浅井さん、いってらっしゃい!」
エレベーターホールに向かう俺の背中には、明らかなからかいと、それ以上の温かな祝福が降り注いでいた。
精密機械の歯車が、一人の女性という名の例外処理のために、完全に狂い始めている。
だが、三宮の夜風を浴びながら感じる不規則な鼓動こそが、今の俺には何よりも人間らしく、心地よく感じられた。
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