表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第四章 パリと神戸の空の下で

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
68/77

第53話 帰国前日 ~陽斗視点~

 窓の外には、活気に溢れる三宮の街並みが広がっている。絶え間なく行き交う人波と、ビル群の間を縫うように走るポートライナーの規則的な走行音。そんな都会の喧騒を階下に眺めながら、俺は午前中の業務を片付けていた。

 俺は、社内で『精密機械』や『鉄仮面』と揶揄されている自覚はある。いかなる時も感情に左右されず、最短距離で最適解を導き出し、一切の妥協を許さない。それが俺の仕事の流儀であり、この過酷な業界で生き残るための誇りでもあったからだ。


 だが、今日ばかりはどうにも効率が悪い。


 思考の組み立てが何度も止まり、無機質な数字や情報の列の合間に、ある一人の女性の笑顔が割り込んでくるからだ。


 

 昼休み。俺は午後からの膨大なタスクを叩き切るための英気を養おうと、珍しく混雑する社員食堂へと足を運んだ。選んだのは、がっつりとした牛カツ定食。ソースの香りに食欲をそそられながら、隅の席で黙々と箸を動かし、傍らに広げた資料に目を滑らせる。


 その時だった。

 不自然なほどに食堂内のざわめきが大きくなり、次いで波が引くように、水を打ったような静寂が広がった。

 カツを口に運ぼうとしていた俺の箸が止まる。

 

(なんだ? この妙にそわそわした空気は。何かあったのか)

 

 肌を刺すような違和感に、俺は怪訝に思って顔を上げた。

 社員たちの視線が一方向に、それも畏怖と驚愕が入り混じったような色を帯びて集中している。その視線の先に立っていたのは、わが社の社長だった。


 社長は不定期にふらりと社員食堂へ現れ、一般社員に混じって食事をすることがあるらしい。俺はその事実を知らなかったが、運悪く今日がその”不定期な日”に当たってしまったようだ。

 どよめきが再び波のように広がる中、社長は周囲の驚きなどどこ吹く風で、一直線に俺の席へと歩み寄ってきた。


「おぉ、浅井君! 随分と豪快に食っているじゃないか。午後からの仕事に気合が入っているのか、それとも明日への景気付けかな?」


 喧騒を突き抜けるような、太く朗々とした声。

 社長は俺の隣に立つと、親愛の情を込めて俺の肩を豪快に叩いた。


「いよいよ明日は、例の彼女さんが帰ってくる日なんだろう? 隠したって無駄だぞ。あの『鉄仮面』の浅井君が、カツを頬張る口元まで緩んでるじゃないか。皆、聞いてくれ! 見ろ、今日の浅井君は実になんとも人間らしい顔をしているぞ。ようやく抜け殻から中身が戻ってくるわけだ!」


 食堂内の全社員が、一斉にこちらを注視した。

 その瞬間、食堂のあちこちから、驚きや冷やかしとは質の違う、悲鳴に近い溜息が漏れた。


「嘘でしょ……、浅井さんに彼女がいたなんて」

 

「しかも一途にずっと待ってたとか、信じられない……」

 

「あの隙のない浅井さんが、誰にも心を開かないと思ってたのに」

 

「全部その人のためだったの? 理想的すぎて辛い……」

 

「接点ないからフリーだと思ってたのに。あんなに困り果てた浅井さん、初めて見た……」

 

「あんなに隙を見せるなんて、それだけ彼女の存在が大きいってことだよね」

 

「ショックすぎる……。もう午後から仕事できる気がしない」


 あちこちで箸が止まり、顔を見合わせて絶望的な表情を浮かべる彼女たちの様子は、俺にしてみれば身の置き所がないほどに居心地が悪い。

 普段は「浅井さんの視界に入るだけで凍りつく」とまで言っている他部署の連中までが、今は遠巻きにだが確実にこちらを値踏みしている。


「ちょっと、空港まで迎えに行くために有給取ったって本当?」

 

「しかもパリで勉強中の彼女を一年以上も待ってたらしいじゃない」

 

「一途すぎて泣けるけど、その相手が私じゃないなんて……」

 

「今日の定食、全然味がしない。明日、会社休みたくなってきた……」


 そんな重苦しい空気もお構いなしに、野次馬根性の強い連中が声を上げる。


「えっ、本当ですか!? あの浅井さんが、恋人の帰国を楽しみにしてニヤけてるなんて!」

 

「社長がわざわざ食堂に来てまで言うってことは、相当な浮かれっぷりなんですね!」

 

「見てくださいよ、今の浅井さんの顔! いつもなら氷点下の視線で凍りつかされるのに、今日はなんだか困ったように視線を泳がせて、耳まで赤いじゃないですか!」


 好奇心と驚き、そして深刻な悲嘆に満ちた、耳を刺すような騒ぎ。俺は必死に無表情を装い、「……食事中ですので、その辺りで」と短く返したが、それは火に油を注ぐだけだった。

 社長はさらにニヤニヤと楽しげな笑みを浮かべながら、


「寂しいなら寂しいと、情けない顔をしていろと言ったが、ようやくその顔も今日で見納めだな! うん、盛大に祝ってやらないとなぁ! 私や専務の行きつけのいい店に連れて行ってやろう」


 と言い残し、騒然とする食堂を悠然と去っていった。


 

 午後。気分転換のために休憩スペースのソファに深く身を沈め、俺は一度だけ手元のスマートフォンに目を落とした。画面には、詩織から届いたばかりのメッセージが灯っている。

 

『明日、無事に帰れそうです。空港で会えるのを楽しみにしていますね』

 

 添えられた控えめなメッセージ一つ。それを見つめるだけで、俺の口角は重力に抗えずに緩んでしまう。自分でも驚くほど、頬の筋肉が柔らかく解けていくのが分かった。

 明日、あのゲートの向こうから彼女が現れる。その瞬間を想像するだけで、胸の奥が確実に熱を帯びる。


 だが、その安らぎは数秒で打ち砕かれた。


「……ねぇねぇ、見た? 今、浅井さんの口角、確実に上がってたよね」

 

「嘘、あの鉄仮面が? スマホ見てあんなにデレるなんて信じられない」

 

「社長の話、本当だったんだ。明日の帰国が待ちきれないって顔だよね」

 

「意外……。かわいいところあるじゃない」


 パントリー付近にいた女子社員数人のヒソヒソ話が、遮るもののない空間で俺の耳にダイレクトに飛び込んでくる。

 心臓が跳ね、羞恥心が津波のように押し寄せてくる。俺は即座にスマートフォンの電源を切り、キリッとした表情、いつもの無機質な『鉄仮面』へと戻したが、熱くなった顔だけはどうにも制御できない。


(……聞こえているぞ。全部聞こえている)


 俺は平静を装い、彼女たちの横を足早に通り過ぎて自席へ戻ろうとした。だが、すれ違いざまにその内の一人に声をかけられた。


「浅井さん、顔が真っ赤ですよ? そんなに楽しみなら、もう今日は早退して空港で待機してても誰も怒りませんよ!」


 追い打ちをかけるようなクスクスという笑い声。俺は返事もできず、ただ前だけを見て歩みを早めるしかなかった。


 

 夕方。定時を迎え、逃げるようにオフィスを出ようとしたその刹那、背後に巨大なプレッシャーを感じた。

 振り返ると、そこには社長だけでなく、専務や常務といった経営陣が、まるで重大なバグを追い詰めるデバッガーのように俺のデスクを完全に包囲していた。


「社長、見てくださいよ。浅井君のこの様子を。いつもは精密機械のような冷淡さがあるのに、今はもう、初恋を知った少年のように浮き足立っていますよ」


 専務が、眼鏡の奥の目を細めて指摘する。続いて常務も、腕を組んで面白そうに頷いた。


「全くだ。今日の午後からの浅井君の仕事ぶりは、いつものキレが感じられない。頭の半分……いや八割方は、すでに空港の到着ゲートにあるんじゃないかな? これでは明日の仕事など、期待する方が無理というものだよ」


 社長が、仰々しく、しかしどこか楽しげに手を広げて宣告した。


「いいか、浅井君。明日の君はバグだらけで見ていられんはずだ。そんな顔でクライアントの前に出られたら、弊社のブランドイメージが崩れる。これは会社の信用に関わる大問題だよ」

 

「ですから、社長。ここは一つ、経営判断を下しましょう」


 専務が言葉を繋ぐと、社長が力強く頷く。


「決まりだ。浅井君、明日は仕事などせず、大人しく空港で()()でもしていろ。これは命令だ。ゲートの前で彼女を確実に捕獲するまで、一歩も動くんじゃないぞ!」


 俺が反論しようと口を開きかけた、その時だった。


「浅井さん、明日は僕らがカバーしますから、安心して休んでください!」

 

「そうです。浅井さんのぶんまで、明日は私たちが死ぬ気で頑張りますから。絶対に片付けておきます!」

 

「浅井さんにはいつも助けてもらってますからね。僕らがミスした時、厳しいけど最後は必ずフォローしてくれたのは浅井さんじゃないですか。恩返しさせてくださいよ」

 

「そうですよ。浅井さんがいないと心細いですけど、明日くらいは僕らに任せて、とびきりの笑顔で彼女さんを迎えてあげてください」

 

「明日、浅井さんのデスクが動いてたら逆に私たちが怒りますよ。大人しく幸せになりに行ってください!」


 周囲のデスクにいた社員たちが、一人、また一人と立ち上がり、次々と声をかけてきたのだ。いつもは『精密機械』からの厳しい指摘に戦々恐々としているはずの連中が、今は誰もが茶目っ気たっぷりの、それでいて心強い笑顔を俺に向けている。

 その光景を眺めていた社長が、不意に腕を組み、満足げに目を細めた。


「……ふむ。浅井君も、ようやく部下から慕われだしたようだな」


 ポツリと、確かな実感を込めて呟かれたその言葉。俺は鼻の奥が微かに熱くなるのを感じ、それを誤魔化すように、わざと不機嫌そうな溜息を吐いてみせた。


 挙句の果てには、部下の高橋までもが、その包囲網の端から薄ら笑いを浮かべて声をかけてくる。


「しおちゃん先生によろしくっす! 浅井さんのそんな、生まれて初めて感情をインストールされたアンドロイドみたいな浮かれっぷり、いい酒の肴にさせてもらいますからね。お土産話、期待してますよ!」


「……高橋。明後日の進捗報告、一分の遅滞も認めない。死ぬ気で仕上げておけ。それと、他の皆も……あまり調子に乗るな」


 俺は精一杯の冷たさを装って言い捨て、オフィスを後にした。背後からは賑やかな声が追いかけてくる。


「あはは、やっぱり最後は怖いな!」

「負け惜しみ乙っす!」

「浅井さん、いってらっしゃい!」


 エレベーターホールに向かう俺の背中には、明らかなからかいと、それ以上の温かな祝福が降り注いでいた。

 精密機械の歯車が、一人の女性という名の例外処理のために、完全に狂い始めている。

 だが、三宮の夜風を浴びながら感じる不規則な鼓動こそが、今の俺には何よりも人間らしく、心地よく感じられた。

ブックマーク、評価をお願い致します。

レビュー、感想等もお待ちしております。

誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ