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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第四章 パリと神戸の空の下で

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第52話 帰国前日 ~詩織視点~

 アパルトマンの窓から見える空は、吸い込まれそうなほど深い紺色に染まっていた。

 一年前、期待と不安を抱えて降り立ったこの街とも、明日でお別れだ。

 部屋の真ん中に広げた大きなスーツケースを前に、私は一つ、深く息を吐いた。


(……ようやく、日本に。陽斗さんのいる神戸に、帰れるんだ)


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような甘い痛みを帯びる。

 この一年、寂しくなかったと言えば嘘になる。ただ、その寂しさを埋めてくれたのは、陽斗さんと交わしたメッセージの数々と、ここで必死に泥を這うようにして研鑽を積んできた自負だった。


 視線を、壁に立てかけた一枚のキャンバスに向ける。

 それは、私の絵の概念を根底から変えてくれた作品だ。

 以前、厳格な老教授は私の絵を見て、突き放すようにこう言い放った。


「シオリ、君の絵には『迷い』がない。だが、同時に『狂気』も足りない。君はまだ、自分を美しく整えようとしすぎている。その整った殻を、いつ自分で叩き割るつもりだ?」


 その言葉は、当時の私の心に深く、鋭く突き刺さった。

 しかし、遠く離れた日本で不器用なほどに真っ直ぐ私を想い続けてくれる陽斗さんの存在が、私の殻を内側から叩き壊してくれたのだと思う。

 美しくあろうとすることをやめ、ただ、自分の内側にある剥き出しの感情を筆に乗せる。


 最近の教授は、私の筆致が変わったのを見て、短く「……少しは自分の醜さを見せる覚悟ができたようだな」と、確かな称賛を口にするようになった。

 

 そして一ヶ月前、月に一度開催される学内の講評会。世界中から集まった野心溢れる生徒たちが自身の作品を並べ、静かな火花を散らす中、教授は私の絵の前で足を止めた。

 彼はじっと動かずにキャンバスを見つめた後、他の生徒たちを鋭い眼光で射抜いて、朗々と響き渡る声で言い放ったのだ。


「諸君、この絵をよく見ておけ。ここにあるのは、単なる色彩の羅列ではない。シオリは、己を縛り付けていた端正という名の枷を自ら引き千切り、その傷口から流れる血でこの光を描き出した。小手先の技術に逃げ、表面上の美しさを取り繕っているお前たちは、彼女のこの『剥き出しの覚悟』を見習うがいい。これこそが、私が求めていた真の表現、魂の震えだ」


 教授の言葉が、講評室の冷えた空気の中に溶けていく。

 次の瞬間、静寂を破るようにして、一人の生徒が手を叩き始めた。

 それは波のように広がり、やがて教室内を埋め尽くすほどの激しい拍手へと変わっていく。

 ライバルとしてしのぎを削ってきた他国の生徒たちが、一人、また一人と私のもとへ歩み寄ってきた。


「見事だったよ、シオリ。君の描く白色に、初めて恐怖を感じたよ」

「あの老教授にそこまで言わせるなんて。正直、嫉妬するのも馬鹿馬鹿しいくらい圧倒されたわ」


 次々にかけられる賞賛の言葉。握手を求められ、肩を叩かれる。

 あの日、教授からついに手放しで褒めてもらえたあの瞬間。

 技術的な完成度ではなく、私の内側にある『執着』や『熱』がキャンバスに溢れ出したことを認められたのだと確信した。


(陽斗さん。今の私は、あの日あなたが送り出してくれた時の私とは、少し違うかもしれないわよ)

 

 パレットや筆を丁寧に緩衝材で包み、画材箱に収めていく。使い込まれた筆の感触を確かめるたび、このパリで流した涙や汗、そして自分自身と向き合ってきた時間が鮮明に蘇る。

 服や日用品を詰め込み、最後に、迷いに迷って選び抜いた陽斗さんへのお土産を、スーツケースの最も安全な場所へと収めた。


 

 彼への贈り物を探すのは、自らの絵を完成させることと同じくらい困難な作業だった。

 最初は、シャンゼリゼ通りの高級店で最新の万年筆を手に取ってみた。しかし、あまりに綺麗な輝きは、今の私が彼に伝えたい温度とは違う気がして棚に戻した。

 

 今の私の心に宿っているのは、もっと混じりけのない色だ。


 彼に贈りたいのは、白色。


 何かないかと目を皿のようにして見つけた物は、最高級の白蝶貝を削り出したカフリンクス。

 それは雲一つない雪原のような、あるいは磨き抜かれた大理石のような、硬質で清廉な白を宿していた。


 袖口を留めるという役割を持つこの品ならば、むしろ、彼の誠実な仕事振りを支え、縁を繋ぎ止める守護石となってくれるはずだ。


 主張しすぎることなく、彼が腕を動かすたびに静かに光を反射する白。その控えめな主張こそが、神戸の街を守る彼の者の矜持に相応しいと思えた。

 

 何時間も石畳を歩き、セーヌ川沿いの蚤の市を隅から隅まで歩き回って、ようやく見つけたのは、十九世紀頃のアンティークの真鍮製ペーパーナイフだった。

 鈍く、それでいて重厚な光を放つそれは、どこか彼自身の持つ雰囲気に似ている気がした。

 それに加えて、仕事でネクタイを締める彼のために、職人のこだわりが感じられる落ち着いた深い藍色のネクタイも用意した。何度も鏡の前で「彼がこれを締めたら」と想像し、不審に思われるほど時間をかけて選んだ一本だ。


(陽斗さん、喜んでくれるかな……。あっ、でも、あんまり荷物が多いと『計画性が足りない。土産は気持ちだけで十分だと言ったはずだ』って、また理路整然とお説教されちゃうかも)


 想像するだけで、自然と笑みがこぼれてしまう。


 

 この一年間、私たちは一度も電話をしなかった。

 パリに到着して数日後、彼から届いたメール。

 

『声を聞くと、どうしても会いたくてたまらなくなる。それは君も同じだろう。君が目的を果たすまで、お互いに甘えるのはやめよう。次に声を聞くのは、君がすべてをやり遂げて帰ってきた時にしたい』

 

 画面越しに綴られた、彼らしい断固とした言葉。

 その約束を道標にするように、私は一度も通話ボタンを押すことなく、文字だけのやり取りで互いの存在を繋ぎ止めてきた。

 一度思い出すと、彼への想いは堰を切ったように溢れ出してくる。


(あぁ、もう……。一分一秒でも早く、あの人に会いたい)


 荷造りの手を止め、私はたまらず部屋の中を意味もなく歩き回った。

 日本に帰れば、かつて勤めていた学校の同僚たちや、可愛らしい生徒たちが温かく迎えてくれるだろう。彼らの顔を思い浮かべれば、確かに懐かしさと愛おしさがこみ上げてくる。

 

 でも、今の私の心を独占し、焦がしているのは、そんな穏やかな再会ではない。

 記憶の中にある、低くて落ち着いたあの声。

 仕事の話をしている時の研ぎ澄まされた鋭い横顔。

 時折ふとした瞬間に見せる、困ったような、それでいて深い慈しみを湛えたあの眼差し。

 画面越しに共有した神戸の風景も、文字だけの「おやすみ」も、今はもう足りない。

 彼の大きな手に触れたい。あの少し高い体温を、直接感じたい。

 彼に抱き寄せられた時、耳元で聞こえる鼓動を確かめる瞬間を、何度も夢に見た。

 胸を突く切実な渇望が、心臓を強く、速く、叩き続けている。

 

 もどかしさに髪をかき上げ、私は再び鏡の前に座り込んだ。明日の自分の顔は、彼にとってどう映るだろうか。やつれてはいないだろうか。それとも、少しは成長したように見えるだろうか。

 そんな少女のような不安と、爆発しそうな期待が交互に押し寄せ、じっとしていられない。


 一人で過ごしたこのアパルトマンの少し傾いた床も、使いにくいキッチンの蛇口も、今となっては全てが大切な思い出の一部だ。それでも私は、彼と同じ空気を吸える場所へ帰りたいと切に願っていた。

 

 ふと、机の上のスマートフォンに目を向ける。

 画面には、見慣れた名前が表示されている。


『明日、無事に帰れそうです。空港で会えるのを楽しみにしていますね』


 私から送ったメッセージ。

 陽斗さんからはまだ返信はない。それでも今頃彼は、きっといつものように眉間に皺を寄せて、溜まった仕事を片付けているに違いない。あるいは、明日私を迎えるために、不器用ながらも精一杯の準備をしてくれているだろうか。


 荷造りを終えた部屋は、どこか余白が目立ち、一年前のあの日と同じような静けさに包まれている。

 あの頃と違うのは、私の心に確かな重みがあること。

 教授から与えられた「覚悟」という名の称号と、陽斗さんへの溢れんばかりの愛しさ。

 それらを抱えて、私は明日、あの空を飛ぶ。


(明日、ゲートを出て一番に見つけるのは、絶対にあの人……。でも、来てくれてるかなぁ)


 少しだけ開いた窓から、夜のパリの風が入り込み、カーテンを揺らした。

 スーツケースの蓋を閉め、よいしょっと全体重をかけてロックをかける。

 カチッ、という小気味いい音は、私にとっての新しい日常への合図だ。


(待っててね、陽斗さん。今の私は、一年前よりもずっと、深い色を持ってあなたの隣に立てる気がするんです)


 明日、あの空港で。

 一年分の想いを乗せて、私だけにしか見せないあの困ったような表情に、一番に「ただいま」を伝えたい。

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