第51話 三千万秒のノイズ ~陽斗視点~
カレンダーの数字が、最後の一片を落とそうとしていた。
三六五日。秒単位に換算すれば三千百五十三万六千秒。
その膨大な時間を、俺は『最適化』という名の虚勢で塗りつぶしてきた。
仕事帰りのポートアイランド、静まり返ったリビングに足を踏み入れる。
オートロックが閉まる無機質な音だけが、この”砦”の結界が更新されたことを告げていた。
彼女がいた頃は、この部屋には常に油彩の匂いと、演算不能な生活のノイズが満ちていた。今は、空気清浄機の規則的な駆動音だけが、完璧に管理された孤独を維持している。
静寂が支配する空間で、リビングの隅に置かれた一枚のキャンバスボードだけが異彩を放っていた。
視線を落とせば、窓から差し込む夕光が、フローリングの上に刻まれた小さなイーゼルの脚跡を照らし出している。それは彼女がこの”砦”で格闘し、迷い、そして俺と共に生きた証としての消えない傷痕だ。
俺はキッチンに向かい、冷蔵庫からトーストを取り出した。
あれ以来、俺が唯一、研鑽を重ねたのは、パンを焼く技術だけだ。
トースターのタイマーをセットする。
かつて彼女に『名作だわ』と言わしめたあの焦げたトーストは、今や完璧なメイラード反応を伴う黄金色へと進化を遂げている。とはいえ、その完璧さを証明する評価者がいない食卓は、ただの栄養摂取の場でしかない。
焼き上がるのを待つ間、俺はリビングの中央を占拠しようとしている資材の山に視線を転じた。
きっかけは、数日前の昼休みだった。
たまには一人で気分転換を、などという非効率な思考がよぎったのが間違いだった。高橋の誘いを断り、三宮の喧騒から少し離れた路地裏のカフェで昼食を済ませようとした矢先、背後から聞き覚えのある、今の俺が最も警戒すべき周波数の声が響いた。
「あッ! 陽斗さん発見! 逃げた、待てー。今、絶対逃げようとしましたよね!?」
声の主は、あの美術部の香奈だった。
俺は即座に踵を返し、最短ルートでの離脱を試みた。しかし、若さゆえの機動力は俺の予測を上回っている。瞬く間に香奈、そして部長の由紀を含む数人に包囲され、俺のパーソナルスペースは一瞬にして飽和状態となった。
「陽斗さん、そんなに急いでどこ行くんですかぁ~? まさか、しおちゃん先生の帰国が近くて、一人でニヤニヤする場所探してたとか?」
「……馬鹿げている。俺はただ、食事の場所を探していただけだ。君たちこそ、こんな場所で何をしている」
「これから海岸まで行ってスケッチですよぉ! でもその前に、お腹空いたからコンビニで適当にパンでも買って行こうかなって。ねー?」
由紀の言葉に、他の部員たちも「お財布寂しいしね」と頷き合う。
彼女たちの手に握られた小銭入れと、重そうな画材一式。これから初夏の陽気の下、海岸でコンビニの冷めた食事を摂るという光景を脳内でシミュレートし、俺の思考回路にわずかなエラーが生じる。
「……待て。コンビニの食事では、午後の創作活動に必要な栄養素が不足する。脳のパフォーマンスを維持できないぞ」
「えー、でもファミレスも遠いし、高いんだもん」
「……不本意だが、本当に不本意なんだが、この先に俺のお気に入りのカフェがある。栄養バランスも悪くない。そこで食事を済ませろ」
「えっ、もしかして陽斗さんの奢り!? ヤバい、イケメンすぎる!」
狂喜乱舞する彼女たちを、俺は極めて不機嫌な表情で見下ろした。
「勘違いするな。これは、君たちの顧問である瀬戸詩織への間接的な投資に過ぎない。君たちが不健康な食事で倒れでもしたら、帰国後の彼女に余計な心労をかけることになる。そのデバッグ作業を俺が担うのは御免だ」
表面上は最大限の拒絶を装いながらも、俺は彼女たちをカフェの奥へと誘導した。
賑やかにメニューを選ぶ彼女たちの喧騒を耳にしながら、俺もメニューに目を向ける。そこで、部長の由紀が真剣な表情で俺を見つめた。
「陽斗さん。私たち、忘れたなんて言わせませんからね。先生が旅立つとき、私たちと約束したんです。『一年後、私がもっと強くなって、もっと見たこともないような色彩を抱えて帰ってきたとき……。あのアトリエで、またみんなと一緒に絵を描きたい』って!」
「はぁ? ちょ、ちょっと待て、なんの話だ? 初耳だぞ。そんな契約、俺は承認していない」
「先生が『それが私と彼の、そして私とみんなとの約束よ』って言ったんでーす! つまり陽斗さんの許可は、先生がもう代行済みってことですよ。絶対ですからね! 先生が帰ってきたら、私たち、あのタワマンのアトリエに押しかけますから!」
あのアトリエで、またみんなと絵を描く。
詩織が旅立つ直前、美術室で勝手に行われた約束という名の不可逆な契約。
俺の許可など微塵も介在しないその非論理的な口約束のせいで、この”砦”に騒がしい女子高生集団を招き入れるという、最大級のセキュリティリスクが確定してしまった。
俺はすでに、彼女たちのために追加のイーゼルや、床を汚さないための養生シートを注文し終えている。
(……俺は一体、何をしているんだよ。まったく)
自分の行動を合理化できないまま、俺は焼き上がったパンを皿に載せ、端末を手に取った。
画面に向かうと、どうしても出力されるのは、俺というシステムが彼女を待ちわびてバグを起こしている事実を隠蔽するための無機質な文字列だった。
――――【詩織への返信メール】――――
件名:帰還スケジュールの確認、およびアトリエの占拠リスクについて
送信者:浅井陽斗
宛先:瀬戸詩織
帰還のスケジュールについては把握した。
シャルル・ド・ゴール空港のストライキ情報、および遅延リスクについても並列で演算済みだ。万が一の際は、別のルートを確保させるよう手配も可能だ。しかし君のことだ。「それもまた色彩だ」などと言って、空港のベンチでスケッチでも始めるのだろう。
それから、極めて深刻なデバッグ作業が俺を待ち受けている。
先日、街中で君の元教え子たち、あの由紀や香奈といった面々に捕まった。海岸へスケッチに行く前にコンビニで昼食を済ませようとするなど、あまりに自己管理能力が欠如していたため、やむを得ずカフェで食事を摂らせた。君の教え子たちの栄養状態まで俺が管理しなければならない現状を、どう考えている?
そこで改めて突きつけられたのは、君が旅立ちの際、彼女たちと交わした『あのアトリエでみんなで絵を描く』という約束だ。彼女たちは驚くべき記憶力でその契約を保持しており、君の帰還と同時にこのマンションへ押しかける準備を整えている。俺の許可をスキップしたその非論理的な計画のせいで、現在、リビングには予備のイーゼルと養生用の資材が積み上がっている。静かなこの”砦”が、近々、女子高生たちの喧騒という名のノイズによって制圧されることは避けられないようだ。君の無責任な約束の責任を、帰国後に直接取ってもらう。
俺のプライベートの境界線は、君の帰還を待たずしてすでに崩壊の危機に瀕している。
どうしてくれるんだ?
イーゼルの跡については、相変わらずだ。
君に言われた通り、掃除のたびにその傷をなぞるという、非生産的なルーチンが俺の生活に組み込まれてしまった。資産価値が下がったままのこの床をどう責任取ってくれるのか、君の目で直接確認してほしい。
トーストの焼き加減は、すでに完成の域に達している。
一年という時間をかけて、俺は『焦げ』というエラーを完全に排除した。君がそれを「名作ではない」と切り捨てたとしても、再修正する時間は、これからいくらでもある。
一年。
三千百五十三万六千秒という時間は、俺の論理回路を書き換えるには十分すぎるほど長かった。
君の座るべき席は、一分一秒たりとも、誰にも貸し出したことはない。
俺の予約リストを、物理的な実体として更新しに来るのを待っている。
道中、気をつけて。
君が抱えてくるだろう、新しい絵に、俺の世界が破壊される準備は、とうにできている。
早くしろ、詩織! 俺の計算式は、君という変数が代入されない限り、いつまでも解が出ないままだ。生徒たちのノイズを許容できるのは、その中心に君がいる場合に限られるのだからな。
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