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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第四章 パリと神戸の空の下で

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閑話 海風の色彩 ~生徒視点~

 しおちゃん先生がパリに旅立ってから積み重なったその膨大な時間は、私たち生徒にとっても、きっとあの端正な顔立ちを崩さない陽斗さんにとっても、等しく重いものだったはずだ。


 きっかけは、初夏の陽気がまぶしい昼休みだった。

 三宮の喧騒から少し離れた路地裏で、私たちは偶然にも”獲物”を捕捉した。

 

 陽斗さんは見知らぬ女性数人に囲まれ、いわゆる『逆ナン』をされている真っ最中だった。モデルのように整った端正な顔立ちに、スラリとした長身。仕立ての良いシャツ越しにもそれと分かる、無駄のない細マッチョを感じさせる体躯は、周囲の視線を惹きつけずにはいられない。女性たちは、そのあまりの美形ぶりに勇気を出して声をかけたようだった。


「……悪いが、興味がない。俺はこれから、食事の場所を探さなければならないんだ」

 

 陽斗さんは相変わらずの無愛想……というより、どう対応していいのか分からず、困ったような顔をして断っているところだった。

 

「あ、あの! 連絡先だけでも! 一緒にランチとか……」

 

 食い下がる彼女たちに対し、彼は逃げ道を探すように視線を泳がせ、ますます困惑の色を深めていた。


 その隙を突いて、私たちは包囲網を突破するように割り込んだ。

 

「あッ! 陽斗さん発見! 逃げた、待てー。今、絶対逃げようとしましたよね!?」

 

 香奈の叫び声と同時に、私と由紀部長、そして部員数人で最短ルートを封鎖する。

 香奈はそのままの勢いで逆ナンしていた女性たちへ向き直ると、ビシッと指を差して宣言した。

 

「残念でした! この人にはもう、ちゃーんと決まった恋人がいるんです! だから諦めて立ち去ってください!」

 

 あまりの剣幕に女性たちが毒気を抜かれたように去っていくのを見届けてから、私たちは逃げ場を失ったように立ち尽くす陽斗さんのそばへ駆け寄った。

 彼は周囲の女性たちには聞こえないような、蚊の鳴くような小声でボソリと呟いた。

 

「……助かった」

 

 いつもの自信に満ちた彼からは想像もつかないような、心細そうな声音。

 

(……あんなに運動神経が良さそうな細マッチョなのに、すぐに私たちに捕まったのは、置いていこうとしたことに、ほんの少しだけ罪悪感があったからかな? ……それとも、本当に私たちを救世主だと思ったからなのかもしれないな)


「陽斗さん、そんなに急いでどこ行くんですかぁ~? まさか、しおちゃん先生の帰国が近くて、一人でニヤニヤする場所探してたとか?」

 

「ねぇ、さっきのって、逆ナンでしょー? しおちゃん先生に言いつけちゃおうかなー」

 

 香奈の追撃に、陽斗さんの表情が一気に固まる。あんなに理路整然としている人が、目に見えて狼狽して「……断っただろう。言いつけるような事実など存在しない」と、消え入りそうな声で抗弁している。


「ああっ、今の動揺しましたね!? 隠しても無駄ですよ。……でも、ジュースを奢ってくれるなら、私たちの口にチャックしてもいいですけど?」

 

「……馬鹿げている。俺はただ、食事の場所を探していただけだ。君たちこそ、こんな場所で何をしている」

 

「これから海岸まで行ってスケッチですよぉ! でもその前に、お腹空いたからコンビニで適当にパンでも買って行こうかなって。ねー?」


 部長の言葉に、みんなで「お財布寂しいしね」と頷き合う。

 重い画材を抱えて、直射日光の下で冷えたパンを齧る。

 それも青春だと思っていたけれど、陽斗さんの目には耐えがたい光景に映ったらしい。

 

「……待て。コンビニの食事では、午後の創作活動に必要な栄養素が不足する。脳のパフォーマンスを維持できないぞ」


 呆れたようにため息をついた陽斗さんは、そのまま私たちを路地裏の隠れ家みたいなカフェへと連行した。

 

「……不本意だが、これは顧問である瀬戸詩織への間接的な投資だ。君たちが倒れて彼女に余計な心労をかけるデバッグ作業は御免だからな」


 そうぶっきらぼうに言い放ったくせに、テーブルに並んだのは私たちが普段の昼食代を何日分合わせても足りないような、色鮮やかで豪華なランチコースだった。

 

「わあ、美味しそう!」

 

「陽斗さん、これ本当にいいんですか?」

 

「……食べろ。子供が遠慮なんかするな」

 

 さらに驚いたのは、食後に運ばれてきた大きなフルーツパフェだった。

 

「パフェまで!? 陽斗さん、モデルみたいにカッコいいのに中身は王子様ですか!」

 

「糖分は脳のガソリンだ。……さっさと済ませろ」


 ふと、香奈がパフェを頬張りながら素朴な疑問を口にした。

 

「そういえば陽斗さんって、お仕事何してるんですか? やっぱりモデル?」

 

「……システムエンジニアだ。モデルではない」

 

 陽斗さんはぶっきらぼうに返し、興味なさげにコーヒーを啜った。

 

「えーっ、もったいなーい! こんなにイケメンなのにー!」

 

 私たちが口々に騒ぎ立てると、彼はわずかに耳の付け根を赤くして、視線を泳がせた。

 

「そ、そんなことはないぞ。エンジニアとしての能力こそが本質であって、外見など付加価値に過ぎん……」

 

 その必死な否定が逆におかしくて、私たちはさらに笑った。


 

 食後の余韻に浸っていると、陽斗さんがふいにつぶやいた。

 

「……スケッチブックを見せろ。君たちの現在の出力レベルを確認しておく必要がある」

 

 抜き打ちテストのような言葉に一瞬緊張したけれど、私たちは素直に今日までのクロッキー帳を開いた。陽斗さんはページをめくる指を止め、画面を凝視する。

 

「……ここ、消失点に向かうパースの座標が数ミリ単位でズレている。構造物としての強度が、視覚的に担保されていない」

 

 相変わらずの理屈っぽさに苦笑いしていると、彼はポツリと、けれど真剣な声で付け加えた。

 

「だが……光の捉え方は悪くない。色彩の選択に、彼女の影響が見える。……研鑽を怠っていないことは評価する」


 その流れで、由紀部長が少し真剣な表情で身を乗り出した。

 

「陽斗さん。私たち、忘れたなんて言わせませんからね。先生が旅立つときに約束したんです。一年後、もっと強くなって、見たこともないような色彩を抱えて帰ってきたら、またあのアトリエでみんなと一緒に描こうって」

 

 陽斗さんは露骨に眉を寄せ、持っていたコーヒーカップを止めた。

 

「はぁ? ……待て、初耳だ。そのような非論理的な契約、俺は承認した覚えがない」

 

「先生が『それが私と彼の約束』って仰ってたんです! つまり、陽斗さんの許可は先生が代行済みってことですよ。絶対ですからね! 帰国されたら、あのマンションに全員で押しかけますから!」

 

 理詰めの彼が一番苦手とする『感情の代行』というパワーワード。陽斗さんは天を仰ぎ、しばらく無言でこめかみを押さえていたが、やがて観念したように小さく息を吐いた。

 

「……勝手にしろ。最低限の受け入れ準備だけは……しぶしぶだが、進めておく。なにがいるんだ? 言うだけ言ってみろ」

 

 その言葉を待っていましたとばかりに、私たちは一斉に声を上げた。

 

「えーっと、まずは人数分のイーゼルとか!」

 

「あ、汚してもいいように、床に敷く厚手の養生シートも必要です!」

 

 次々と飛び出す具体的な要求に、陽斗さんは「……メモは取らん。俺の記憶容量を舐めるな」と、文句を言いながらも私たちの言葉を一つ一つ正確に脳内のフォルダへ格納しているようだった。



――――

 カフェを出て、「これ以上時間を浪費させるな」と会社へ戻っていった陽斗さんの背中を見送ってから、私たちは予定通り海岸へとやってきた。

 初夏の強い光を反射する神戸の海。波打ち際に陣取り、私たちはそれぞれイーゼルを広げる。


「ふう、お腹いっぱいすぎて筆が滑りそう」

 

 香奈が贅沢な悩みを口にしながら、鉛筆を走らせた。

 

「でも、あんなにハッキリ『座標がズレてる』なんて言われると、逆に燃えるよね」

 

「本当。エンジニアさんって、絵を見る時も計算してるのかな。でも、しおちゃん先生の影響に気づくなんて、やっぱりあの二人、深いところで繋がってるんだなって思っちゃった」


 由紀部長がパレットの上で青と白を混ぜ合わせる。

 

「陽斗さん、先生がいなくなってからパンを焼く技術だけすごく磨いたらしいよ。『あの人、トーストを焼く技術はプロ並みなんですって』って、しおちゃん先生からのメールに書いてたわよ。しおちゃん先生、自慢したくて仕方ないんだろうね」

 

「あはは、目に浮かぶなあ。先生がフランスから送るメールに、陽斗さんが理屈っぽい返信をしてるの。でも、その裏で、私たちのためにマンションのアトリエ準備してくれてるんでしょ?」


(……あのアトリエで、またみんなと一緒に絵を描きたい)

 

 先生が旅立つときに交わした、あのわがままな約束。

 陽斗さんは「承認していない」なんて言っていたけれど、結局は誰よりもその約束を守るための準備を整えてくれると言う。


「先生が帰ってきたら、あの『砦』みたいなマンション、すごいことになりそう」

 

 私が海の青をキャンバスに乗せながら言うと、みんなが顔を見合わせた。

 

「油彩の匂いがして、私たちが騒いで、先生が笑って。陽斗さんはまた『非効率だ』って言いながら、きっと絶品のトーストを焼いてくれるんだよ」

 

「いいなあ、それ。賑やかで、きっとすごく素敵な毎日になるね」


 遠くに見えるポートアイランドの影を眺めながら、私たちは笑い合った。

 波の音に混じって聞こえるのは、もうすぐ帰ってくる大切な人の足音。

 海を渡ってくる風は、期待に満ちた色彩を、私たちのキャンバスへと運んでくるようだった。

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