第50話 剥き出しの色彩 ~詩織視点~
パリの朝は、石造りの街並みを淡い乳白色に染める重い霧と共に幕を開ける。
窓の外からは、石畳を無慈悲に叩く車の走行音や、遠くの寺院で打ち鳴らされる重厚な鐘の音が、冷たい空気の波に乗って室内へと滑り込んできていた。
私は、まだ夜の湿った冷気が居座るアトリエの椅子に深く、深く腰掛け、描きかけのキャンバスを射抜くように見つめた。
そこには、以前の私なら決して選ばなかったはずの激しくのたうつような群青と、内臓を焼き焦がすような烈火が、互いの領土を食い荒らすように混ざり合っている。
(……ようやく、少しだけ叩き割れたのかしら。あの、退屈な優等生だった自分の殻を)
数ヶ月前、この研修先の老教授に突きつけられた言葉は、今も私の鼓膜の奥で鋭い剃刀のように疼き続けている。
教授は、私の描き上げた完璧なデッサンを一瞥し、鼻で笑うようにしてこう言ったのだ。私の絵には迷いがない代わりに、決定的なまでの『狂気』が欠けていると。
自分を美しく、正しく整えようとするあまり、魂の根源にあるはずのドロドロとした震えを、無難な美辞麗句で覆い隠してしまっている。その堅牢で空虚な殻を、一体いつになったら自らの拳で叩き割るつもりなのかと。
その指摘を受けた瞬間の戦慄を、私は一生忘れないだろう。日本で安定した地位にあり、周囲の期待に完璧に応える正解だけを提供してきた私にとって、それは己の半生を根底から否定されるに等しい宣告だった。
調和を保つこと、美しくあること、淀みを隠すこと。それらは芸術への情熱ではなく、ただの臆病な自己防衛に過ぎなかったのだ。パリの鋭い冬の風が私の頬を切り裂くたびに、私の技法がいかに形骸化した、魂の抜けた殻であるかを突きつけてくる。
一人きりのアトリエで、私は幾度となく筆を折りたい衝動に駆られた。真っ白なキャンバスをナイフで切り裂き、高価な絵具を床にぶちまけ、己の無能さに身悶えして夜を明かした日は数え切れない。
日本で培った経験も、磨き上げた筆致も、ここでは何の盾にもならない。ただの迷いのない退屈という名の烙印でしかないと思い知らされる日々。
しかし、その絶望の底で、泥水を啜るような孤独の中で私を支えたのは、遠い神戸の空の下で、不器用なほど真っ直ぐに私を想い、私の帰国を信じ続けている陽斗さんの横顔だった。
最近の教授は、私の筆致が変わったのを見て、短く「……少しは自分の醜さを見せる覚悟ができたようだな」と、確かな称賛を口にするようになった。
予定調和をゴミ箱に放り込み、魂を削り出すようにして置いた一筆一筆が、ようやくこの街の厳しい審美眼を貫き始めている。
美しさの中に毒を混ぜ、優雅さの中に歪みを刻む。それこそが、今の私の、そして私たちの”真実”なのだ。
冷めかけたコーヒーから立ち上る、苦い香りに目を細めながら、私は手元の端末を開いた。そこには、愛しい人、陽斗さんからのメールが届いていた。
「……うふっ、あははは」
文字を追ううちに、限界まで張り詰めていた心の弦がふわりと緩んでいく。
三宮のスーパーで、彼は美術部の教え子たち。由紀ちゃんや香奈ちゃんに完全包囲されたのだという。
自分の領域を侵されることを何より嫌い、安寧を愛する彼が、女子高生たちの「島中をローラー捜索する」という無茶苦茶な脅しに屈し、ついに連絡先を献上する姿。それを想像するだけで、胸の奥が温かな、むず痒いような気持ちで満たされていく。
(陽斗さんでも、あの子たちの溢れんばかりの生命力には敵わなかったのね)
あの日、校門の前で彼が言ってくれた、あの飾らない、泥臭いまでの真心の言葉。
それを聞き届け、喝采を送り、私たちの愛を祝福してくれた彼女たちは、私にとっても、今の彼にとっても、切り離すことのできない大切な絆の一部だ。
私は、指先に溢れるほどの愛おしさと、少しばかりの悪戯心を込め、返信の文面を綴り始めた。
――――【詩織からの返信メール】――――
件名:Re:数の暴力について
送信者:瀬戸詩織
宛先:陽斗さん
三宮での災難(?)、本当にお疲れ様でした。メールを読みながら、パリの静かなアトリエで一人、声を上げて笑ってしまいました。
由紀ちゃんたちに捕まってしまった陽斗さんの困惑した顔が、まるで見ているかのように鮮明に浮かんできます。
あの子たちのエネルギーは、一度火がつくと誰にも、何ものにも止められません。特に由紀ちゃんの「島中を張り込む」という宣言は、彼女なら本気で実行に移しかねないから恐ろしいですね。陽斗さんが、”砦”のあるポートアイランドの平穏を死守するために降伏を選んだのは、非常に賢明で、かつ勇気ある判断だったと思いますよ。
私の大切な教え子たちに、陽斗さんの穏やかな時間を明け渡させてしまって、本当にごめんなさい。でも、あなたが、嫌々ながらと言いつつも、彼女たちの想いを無下にせず、連絡先を交換してくれたこと、私はとても嬉しくて、誇らしく思っています。
実は最近、例の厳しい教授から、ようやく少しだけ絵を褒めてもらえるようになったんです。「整った殻を叩き割れ」と毎日叱責され、悔しさで枕を濡らし、夜を明かしていた日々が、ようやく報われ始めました。
私が自分を縛り付けていた『美しく整った、死んでいるも同然の優等生』を壊せたのは、きっと陽斗さんが、あの時、すべてを投げ打って私に本音をぶつけてくれたからです。剥き出しの想いを受け取り、魂を震わせた私だから、今のこの狂気すら孕んだ鮮烈な色彩を描けているのだと思います。私のキャンバスには、今、あなたのあの日の想いが、鮮やかな生命の鼓動となって息づいています。
だから、由紀ちゃんたちが陽斗さんに執着するのも、同じ理由かもしれません。あの子たちにとって、あの日の陽斗さんは、愛する先生を奪っていった略奪者ではなく、先生を世界で一番幸せにするために現れた、正真正銘のヒーローなんです。あなたの無骨で真っ直ぐな生き方が、多感なあの子たちの心をも、激しく動かしてしまったのでしょうね。
どうか、彼女たちから届くであろう大量の通知に、あまり溜息をつかないであげてください。あの子たちが元気でいることを知るだけで、私はこの遠い異国で、どれほど救われ、勇気づけられるか分かりません。
陽斗さん。あなたが守ってくれている神戸の景色や、騒がしい生徒たちの声。それらすべてが、今の私の創作の唯一無二の源泉です。
明日もまた、あなたへの想いを乗せて、素晴らしい色が描けそうな気がします。
追伸。
私のところにも、先ほど由紀ちゃんから、戦勝報告の大量写真が届きました!
お肉とお菓子の山に囲まれて、みんな本当に楽しそう。その中の一枚に、背中を向けて逃げるように、だけど、どこか満足げに立ち去る陽斗さんの後ろ姿が写っていましたよ。
耳の付け根が少し赤いように見えたのは、パリの光の加減でしょうか? それとも……。
明日、あの子たちがどんな報告をしてくるのか、今から楽しみで仕方がありません。
陽斗さん、戦々恐々としているかもしれませんが、どうか彼女たちの若さという名の猛烈な嵐に、少しだけ付き合ってあげてくださいね。
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