第54話 故郷の風 ~詩織視点~
関西国際空港、国際線到着ゲート。
自動ドアが左右にスライドし、目の前の視界が開けた瞬間、肺の最深部まで入り込んできたのは、パリの乾燥した空気とは決定的に異なる、どこか重みを帯びた懐かしい潮の香りだった。
六月の梅雨入りを目前に控えた少し汗ばむような日本の熱気が、私の肌を濃密になでる。
(帰ってきた。本当に、帰ってきたんだ)
ゲートから溢れ出す人波の喧騒、日本語の機内アナウンス、そして遠くから聞こえる誰かを呼ぶ声。そのすべてが、遠い異国で一本の弦のように張り詰めていた私の心を、ゆっくりと確実に解きほぐしていく。
一年前の七月。ようやく陽斗さんと想いを通わせ、恋人として歩み出したばかりだった私は、画力という未熟さを抱えたまま、けれど彼との未来をより確かな色彩で描くために、断腸の思いでこの場所を後にした。
離れている間も、私の心には常に彼という熱烈な色が中心に居座り続けていた。
そして今の私の瞳には、セーヌの夜明けに溶け出す深い蒼も、モンマルトルの石畳に降り注ぐ鋭い光も、そのすべてを飲み込み、彼への想いと共に昇華させた『新しい白』が宿っている。
出迎えの人混みの中に、私はその姿を瞬時に見つけ出した。
今日は、いつもの隙のないスーツ姿ではない。柔らかな質感のサマーニットに、落ち着いた色合いのスラックス。そんな少しリラックスした装いが、かえって彼の彫刻のように端正な横顔と、その内側に秘めた厳格さを際立たせている。周囲のざわめきから切り離されたかのように、ただ一点を見つめて佇むその影。
その姿を、チラチラ見ている女性は多い。
(でも、残念でした。彼の隣は、私のものよ)
私にとっては世界で一番、頑なで、そして世界で一番体温を感じさせる場所。
陽斗さんは私の姿を捉えた瞬間、いつものような笑顔を向けてくれた。
私の帰還によって、彼がこの一年間、必死に守り抜いてきた平穏な世界が、ついに修復不能なまでに破壊されることを確信したかのように。
「……陽斗さん!」
その名前を呼んだ瞬間、思わず視界が滲んだ。
私の中の理性が音を立てて消え去り、握りしめていたキャリーケースのハンドルを放した。周囲の視線も、これから始まる新しい生活への不安も、すべてを置き去りにして、私は彼に向かって駆け出した。
「おい、詩織! 待て、人が多いんだぞ!」
狼狽する彼の声さえ、今の私には心地よい音楽でしかない。
私はそのまま、重力に従うように彼の胸へと全力で飛び込んだ。
衝突に近い衝撃で、彼の体がわずかに後ろに下がる。ニット越しに伝わってくる、記憶よりもずっと速くて力強い鼓動。
パリの冷たい風にさらされ、自分一人の足で立ち続けることに疲れ、凍えそうになっていた私の心へ、彼の熱が一気に流れ込んできた。
あぁ、これだ。私のキャンバスに足りなかったのは、このどうしようもなく不器用で、真っ直ぐな体温だったんだ。
「……ただいま、陽斗さん。ただいま!」
彼の首筋に顔を埋め、震える声で何度も叫んだ。
陽斗さんの体は、最初は鉄の棒のように硬直していた。だが、数秒の空白のあと、彼はゆっくりと、まるで壊れ物を扱うような手つきで、私の背中に腕を回した。
その腕に力がこもる。痛いくらいに抱きしめられて、私は彼がこの一年、どれほどの孤独を”砦”の中で飼い慣らしていたのかを悟った。
「……五分、予定より遅いと言おうとしたんだが。君のこの非効率な行動のせいで、さらに三分ロスした」
呆れたような、それでいて声の端々が隠しきれずに震えている。
私は彼の胸に顔を寄せたまま、こらえきれずに涙をこぼした。ニットの生地が私の涙を吸い込んでいく。彼は何も言わず、ただ大きな手で私の後頭部を優しく、包み込むように撫でてくれた。
「泣くな。予定が狂う」
「……陽斗さんのせいです。そんなに強く抱きしめるから」
しばらくして、私たちはようやく離れた。陽斗さんは耳の付け根まで真っ赤にしながら、必死に冷静な自分を演じようと虚空を見つめていた。その顔を見て、私はふと思い出したことを口にする。
「そういえば陽斗さん。今日は、お仕事は?」
「……社長命令で休みだ」
彼は顔を背け、ひどくぶっきらぼうに吐き捨てた。
「昨日の夕方だ。オフィスを出ようとしたら、社長だけでなく専務や常務までが揃って俺のデスクを包囲していてな。全員が揃いも揃って、言葉にするのも忌々しいほどにニヤニヤしながら『明日の浅井はバグだらけで見ていられんはずだ。仕事などせず、大人しく空港で門番でもしてろ』などと宣告してきた。挙句の果てには、部下の高橋までもが『しおちゃん先生によろしくっす! お土産話、期待してますよ!』と、薄ら笑いを浮かべていたんだ」
前日の段階で、会社の役員総出でニヤニヤしながら送り出される彼の姿を想像して、私は思わず吹き出した。
会社のみんなが、彼が今日という日をどれほど待ちわびていたかを見抜いて、わざわざ休暇を押し付けたのだろう。彼は「演算資源の無駄遣いだ」と憤っているけれど、それは彼が築き上げてきた、もう一つの大切な絆の形に違いない。
「ふふっ、愛されてますね、陽斗さん」
「どこがだ。組織全体の統制が取れていない証拠だ。……それより、荷物を放置するな。管理能力を疑われるぞ」
陽斗さんは私のキャリーケースを拾い上げると、照れ隠しに大股で歩き出した。
その広い背中を見つめながら、一年前、雨の校門前でボロボロになりながら私を引き止めてくれた、あの強くて脆い背中を思い出す。あの時のモノクロームの絶望的な色彩があったからこそ、今のこの輝くような六月の色彩があるのだ。
駐車場へ向かい、真っ白で光沢のあるスポーツカーの横で立ち止まる。どう見ても新車のようだけど。
「乗れ」
「えっ? 前のオンボロ車は?」
「オンボロって失礼なやつだな。買い換えたんだよ。詩織が……白が好きって言ってたからな」
「えへへへ」
「早く、乗れ」
「は〜い」
車内には、私の知っている陽斗さんの香りが微かに残っていて、それだけで胸がいっぱいになった。
車は関空連絡橋を渡り、青く光る海を越えて神戸へと向かう。
車窓に流れる街並みは、一年前と何も変わらない。それなのに、今の私の目には、ガードレールの錆も、高架下のコンクリートの深い影も、歩道を行き交う人々の服の色も、すべてが愛おしい、表現すべき色彩として映っていた。
「陽斗さん、アトリエの資材って、本当に用意してくれたんですね。生徒たちにも会ったってメールにありましたけど」
「不本意ながらな。君が教え子たちと勝手に結んだ契約のせいで、俺のマンションの共有スペースにはすでに配送業者からの問い合わせが殺到している。資産価値へのダメージは計り知れない」
「あはは、ごめんなさい。でも、すごく楽しみ。みんなで描くのも、……陽斗さんの完璧なトーストも、ね」
陽斗さんは前を見据えたまま、一度だけ小さく「ふんっ」と鼻を鳴らした。
ハンドルを握る彼の指先が、あの日見た絶望の震えとは違う、確かな期待と高揚を秘めていることを私は見逃さなかった。
車はポートアイランドへと続くトンネルに入る。
一瞬の暗闇。その中で、隣に座る彼の確かな存在感だけが、私の輪郭を定義してくれる。
暗闇を抜けた先には、私たちの”砦”が、そして新しい色彩に満ちた、未知なる生活が待っている。
「詩織」
「なあに?」
「クッキーの缶、新しく買ってきてる。部下に店を教えて貰ってな。君が帰ってきて、一緒に食べようと思ってな」
不器用な、あまりにも彼らしい言葉。
私は彼の腕にそっと自分の指先を重ねた。
境界線は、もうどこにもない。
私たちは混ざり合い、壊れ合い、そして許し合いながら、二人だけの新しいキャンバスを、一から描き始めるのだ。
パリで手に入れた技法に、彼という『熱』が混ざり、どんな色が生まれるのか。私は、それが楽しみで仕方がなかった。
さぁ、帰ろう。私たちの色彩に満ちた砦へ。
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