閑話 精密機械が最も恐れる不条理 ~社長視点~
月曜日の朝、社長室の重厚な空気は、普段とは異なる熱を帯びていた。
私の目の前には、運営の要である専務と、技術部門を束ねつつ社内野球部の監督も務める常務が並んでいる。二人の顔には、週末の余韻を色濃く残した驚嘆の色が、隠しようもなく浮かんでいた。
「社長、週末の親善試合の結果について、詳細を改めて報告させていただきます」
常務が、職務上の報告であることを強調しながらも、弾んだ声で切り出した。
「相手チームは他社の精鋭が集う強豪でしたが、浅井君は一人の走者も出さないまま九イニングを終わらせました。一点の隙もない完璧な投球、まさに完全試合です」
常務は言葉を切ると、感極まったように拳を握りしめた。そのあまりの熱量に、デスクの上の書類が微かに震える。
「彼の右腕から放たれる白球は、狙い澄ましたかのように打者の手元で鋭く変化し、バットを空回らせ続けました。球場全体が、彼の支配下に置かれていたと言っても過言ではありません。最後の一球が捕手のミットに収まった瞬間、スタンドの社員たちは総立ちでしたよ」
専務も、手元の資料を机に置きながら重厚な面持ちで頷く。
「その後の社内での反響も凄まじいものです。試合終了直後から、野球部の部員たちは当然として、現場を目撃していた社員たちからも、彼を正式な部員として迎えたいという熱烈な勧誘が殺到しております」
専務は眼鏡の縁を指先で押し上げ、冷静な分析を加えるように続けた。
「常務も、彼を主軸として登録すべく、相当な熱量で説得を試みたそうですが、難航したようですね」
常務は苦笑いを浮かべ、ネクタイの結び目を整え直した。
「ええ、何度も断られましたよ。業務への集中を最優先にしたいとか、休日の激しい運動は翌週の能率を著しく下げるとか。まるで機械が論理を説くような口ぶりでね」
常務は一度息を吐き、デスクに身を乗り出した。
「しかし、粘り強い交渉の結果、ようやく条件付きでの合意に至りました。本当にチームが危機に陥った緊急時に限り、助っ人としてマウンドに立つ、と。ただし、それには二つの条件が提示されました」
「ほう。条件とは何だ?」
私が問うと、常務は指を二本立てて説明を続けた。
「一つは、参加の都度、公休とは別枠の特別な休暇を付与すること。そしてもう一つは、捕手に必ず高橋君を据えることです」
常務は得心がいったように深く頷く。
「浅井君が言うには、自分の投球を正確に受け止められる相手は、長年苦楽を共にした彼しかいないとのことでした。私は一も二もなく了承しましたよ。これほど確実な勝利を約束する戦力を確保できるのであれば、安い投資と言えるでしょう。まだ、高橋君からは了承を貰っていませんが、彼は特別休暇を与えれば大丈夫でしょう」
私は椅子の背もたれに深く体を預け、窓の外を見遣った。
浅井君。本業の技術者として超一流の成果を出し続け、今やスポーツという分野においてさえ、その万能性を知らしめてしまった。非の打ち所がない、まさに完成された人間。
しかし、それゆえに我々の心には、一つの拭いきれない好奇心が持ち上がっていた。
「専務、常務。君たちは、浅井君に苦手な物があると思うか?」
私の問いに、二人は顔を見合わせた。まず、専務が口を開く。
「仕事、私生活、それから野球。どこを切り取っても、彼には綻びというものが見当たりません。もし弱点があるとするならば、それは我々にとって最大の関心事となりますね」
専務は一度言葉を切り、考え込むように顎に手を当てた。
「あの完璧な振る舞いの裏側に、人間らしい隙間があるのかどうか。気になって仕方がありません」
その言葉を引き継ぐように、常務が身を乗り出す。
「彼の完璧主義の裏に、何か弱点があるのかどうか。精密機械にも、実は我々と同様の不器用な一面があるのではないか」
一度気になり始めれば、それを解明せずにはいられないのが我々の気性だ。私は内線電話を取り、秘書に指示を出した。
「浅井君を社長室へ呼んでくれ。先日の試合の労いと、今後の業務に関する重要事項の確認という名目でな。至急だ」
――――
数分後、正確なノックの音と共に、浅井君が室内に現れた。
彼は一点の乱れもないスーツ姿で一礼し、私の正面に立った。その表情は相変わらず鉄面皮のように理知的で、感情の揺らぎを一切感じさせない。
「社長、お呼びでしょうか。次期業務の進捗確認であれば、資料は既に共有済みの場所に配置しておりますが」
浅井君は淡々と言葉を重ねる。
「補足が必要であれば、即座に説明を開始いたします。お時間を取らせることはございません」
「いや、まずは先日の親善試合の件だ。常務から聞いたよ。完全試合という、我が社の歴史に残る快挙を成し遂げてくれたそうだな」
私は彼をソファに促した。浅井君は迷いのない所作で腰を下ろし、背筋を正す。専務と常務もその脇を固める。表向きは労いの席だが、室内の空気は密室での尋問に近い、独特の緊張感を帯び始める。
「常務からの熱烈な勧誘にも、条件付きで応じてくれたと聞いている。君のような万能な人材が、我が社の結束を高めてくれるのは心強い限りだ」
私は一度言葉を切り、彼の反応を窺う。
「だが、浅井君。これほど完璧な君を見ていると、一つだけ、個人的な興味が湧いてくるのだよ」
私は身を乗り出し、彼の瞳をじっと見つめた。
「仕事も、運動能力も、容姿も、君は何一つ欠けていない。そんな君に、理屈では克服できない苦手な物など存在するのだろうか?」
私はさらに言葉を重ね、彼の心の壁に触れようと試みる。
「これは業務とは無関係な、私個人の純粋な疑問だ。君という人間の本質を、より深く理解したいと考えている」
浅井君は一瞬だけ視線を泳がせた。いつもの鋼のような眼差しが、ほんの僅かに揺らぐ。彼は一つ、深い呼吸を置いてから、慎重に言葉を選び始めた。
「……社長。私とて、あらゆる物事に精通しているわけではありません。ただ、無駄な事象を排除して生きているに過ぎません」
浅井君は一度言葉を切り、膝の上に置いた拳を軽く握り込んだ。
「期待される役割を、最適な判断に基づいて遂行しているだけです」
それでも、と彼はさらに声を落として続けた。
「道理や理屈が一切通用しない、不条理な存在が……極めて苦手です」
「不条理な存在?」
常務が声を弾ませる。浅井君は苦い薬を噛み締めたような顔で語り始めた。
「幼少期の出来事です。親に連れられて行った遊園地で、お化け屋敷という非合理の極致に放り込まれました」
浅井君の眉間に深い皺が刻まれる。
「暗闇、不気味な音響、そして予測不可能なタイミングで現れる理解不能な造形物。それ以来、幽霊の類が、どうしても受け付けないのです」
我々三人は、一瞬、呆気に取られて沈黙した。あの浅井君が、幽霊を怖がっているというのか。部屋を通り抜ける風の音さえ、今の彼の耳には不穏に届いているのかもしれない。浅井君はさらに声を潜め、視線を落とながら言葉を繋いだ。
「ホラー映画のように、あらかじめ作り物として構成された映像であれば、冷静に鑑賞することは可能です。……問題は、テレビの特番などで流れる実際の映像や、心霊写真の類です」
浅井君の指先が、微かに震え始める。
「画面の隅に映り込んでしまった正体不明の影や、あるはずのない手足。あのようなものは、一切ダメなのです。視覚情報を正しく整理できず、思考が止まってしまいます」
浅井君はさらに身を縮めるようにして、戦慄を隠しきれない様子で付け加えた。
「中でも、いわゆる心霊スポット探索のような企画は最悪です。自ら進んで不条理な場所へ足を踏み入れるなど、理解の範疇を超えています。私にとっては、この世で最も恐ろしい行為の一つと言わざるを得ません」
浅井君が語る声が、明らかに震えていることに私は気づいた。ふと彼の腕に目をやると、めくり上げたシャツの袖口から覗く肌に、ぷつぷつと鳥肌が立っている。
「監視カメラの不鮮明な映像に映る、存在理由の不明な不具合……。説明のつかない現象に直面すると、生理的な拒絶反応が止まらなくなります」
浅井君は必死に冷静さを取り戻そうとするが、言葉は途切れがちだ。
「私にとって、それは世界の理を揺るがす恐怖そのものなのです。道理で説明のつかない現象は、私の思考を根底から停止させます」
あまりの怯えように、私は少し意地悪な好奇心が湧くのを禁じ得なかった。私は少し声を低め、彼に問いかけた。
「……ところで、浅井君。その……幽霊が苦手だという話、君の彼女さんは知っているのかい?」
その問いを聞いた瞬間、浅井君は意外なほど激しく首を左右に振った。先ほどまでの怯えとは異なる、強固な拒絶の意志がそこにはあった。
「いいえ、言っておりません。そして、今後も絶対に、彼女にだけは言わないつもりです」
彼は断固とした口調で言い切った。
「彼女の前では、常に頼りがいのある、隙のない自分でありたいと考えています。このような非論理的な弱みを晒すことは、私の矜持が許しません」
浅井君は深く、重々しい溜息を漏らした。その表情には、これまでの自信に満ちた影はなく、剥き出しの困惑と、切実な秘密を抱える者の苦悩が滲んでいる。
「どうか、この話はここで終わりにしてください。私の印象に、多大な損傷を与えかねませんので」
彼は懇願するように、我々を一人ずつ見つめた。
「他言無用、切にお願い申し上げます。もし社内で広まるようなことがあれば、私は二度と野球のマウンドに立つことはできないでしょう」
真剣な面持ちで打ち明ける彼を見て、私は思わず笑い出しそうになるのを、信頼の微笑に変えて受け止めた。
精密機械とまで称される彼が、心霊写真や映像に怯え、腕に鳥肌を立てている。その人間味に溢れた綻びに、驚きと同時に、言いようのない愛おしさが湧き上がってくる。
「ははは! 浅井君、君にもそんな人間らしい弱点があったのか! いやぁ、驚いた。だが、それでこそ安心したよ」
私は彼の肩に手を置き、優しく言葉をかけた。
「君が我々と同じ、温かな血の通った人間だと再確認できた。幽霊に怯える姿、実に魅力的ではないか。君の完璧さに、ようやく親しみという彩りが加わったよ」
常務が膝を叩いて笑い、専務もまた深く頷いた。
「そこまで心を開いて話してくれたことが、何よりも嬉しい。浅井君、約束しよう」
専務は力強く断言した。
「君が打ち明けてくれたこの弱点については、我ら三人の胸の内にのみ、厳重に秘匿する。今後、冗談でも話題に出すような真似はさせない」
常務もそれに続く。
「ああ、約束する。君の完璧な経歴に、幽霊ごときで泥を塗らせるわけにはいかないからな。これは経営陣としての、いや、君の仲間としての誓いだ。君の弱点は、我々が守り抜く」
私の言葉に、浅井君は安堵したように、僅かに口角を上げた。その表情は、今までのどんな計算された笑顔よりも、はるかに温度を感じさせるものだった。
完成された姿の奥底に隠されていた、確かな人間としての怯え。
それを共有したことで、我々の絆は以前よりもずっと、深く揺るぎないものへと書き換えられたのだ。
私は彼を退出させた後、背もたれに深く沈み込み、この奇妙で愛おしい秘密を、社長室の静寂の中に大切にしまい込んだ。
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