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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第四章 パリと神戸の空の下で

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第48話 鉄の貴婦人と独りきりの対話 ~詩織視点~

 パリの夜気は、石造りの壁を伝って容赦なく私の体温を奪っていく。でも、胸のうちは今日一日で書き殴った膨大なスケッチブックと同じ、逃げ場のない熱量を帯びたままだった。

 使い古された木製の机の上に広げられたクロッキー帳には、黒々と、時には紙を突き破らんばかりの筆致で、あの巨大な構造体の断片が刻みつけられている。


(……これだけ描いても、これほどまでに紙を埋め尽くしても、まだ足りない。エッフェル塔が放つ、あの傲慢なまでの威厳を、私はまだ半分も捉えきれていないわ)


 今日、私は日の出よりも遥か前にアパルトマンを飛び出した。

 まだ深い眠りから覚めきらないパリの街は、霧に包まれて幻想的な静寂を保っていた。セーヌ川のほとりを、石畳を踏みしめる自分の足音だけを道連れにして歩き、私はあの巨大な『鉄の貴婦人』の前に陣取った。

 朝露に濡れた冷たい芝生に腰を下ろし、霧を含んだ乾いた空気で肺を満たす。

 最初は、ただその圧倒的な全体像を俯瞰で捉えようとしていた。しかし、一枚、また一枚とページをめくるうちに、私の視線は細部へと、より深い深淵へと引きずり込まれていった。


 鉄骨の複雑な継ぎ目、幾千、幾万と打ち込まれたボルトの頭。

 百年以上の歳月を経て、剥がれかけた塗料のざらついた質感や、金属が酸化して帯びた独特の鈍い光沢。私はそれら一つひとつに、病的なまでの執着を持って目を凝らし続けた。

 

 太陽が地平線から顔を出し、光の角度が分刻みで変化していく。それに呼応するように、塔の肌は鮮やかな橙色から、深い赤銅色、そして冷淡な紫へと変遷していく。その一瞬の移ろいを、瞬きすることさえ惜しんで私は追いかけた。

 鉛筆を動かす音だけが、私の世界を支配する唯一の鼓動だった。


 持参したクロッキー帳のページが風に煽られてめくれる音だけが、私の耳に届く現実の全て。

 道行く人が食べているクロワッサンの芳醇な香りにさえ反応せず、水筒の中で冷めきったコーヒーを口にする時間さえも、今の私にとっては描画のリズムを乱す不純物でしかない。

 

 周囲で観光客が楽しげに記念撮影をしていようと、幼い子供が私の周りを無邪気に走り回ろうと、私の網膜にはあの鉄の幾何学模様しか映っていなかった。

 この塔を支えるリベットの数は二百五十万個。その一つひとつに、設計者の狂気が宿っている。私はその狂気を、自分の筆先へと転写しなければならなかった。

 

 エッフェル塔を構成する無数の三角形の反復。

 それは、あのアトリエで、壁一枚隔てた向こう側から絶え間なく聞こえていた、あなたのタイピング音に似ている。

 規則正しく、一切の情を排した無機質な積み重ね。その正確さが積み重なることで、天を突き、雲を裂くような巨大な構造体を作り上げている。

 

 私は、その鉄の隙間から零れ落ちる光の一筋、影の一片を、自らの指先の感覚を麻痺させてでも描き写そうと躍起になっていた。鉛筆を握る指の付け根が痛み、炭の粉で真っ黒に汚れた手のひらが、皮膚の一部のように馴染んでいく。

 紙の上に積み上がる黒い層は、私があなたから離れて手に入れた、最初の孤独の質量だった。


 

 夕刻、塔が沈みゆく陽光を一身に反射して、まるで自ら発光しているかのような、暴力的なまでの黄金色に燃え上がった瞬間、私は震える指先でパステルをキャンバスに叩きつけた。

 爪の間に炭が深く入り込み、肌がどれほど汚れようとも、そんなことはどうでもよかった。

 

 ――私が今、ここで生きているという証を。――

 

 あのアトリエで、あなたが背後で見守ってくれていた時以上の密度で、この紙の上に刻みつけなければならないのだと、何かに突き動かされるようにして筆を走らせ続けた。

 喉は乾ききり、視界は極限の集中によって狭まっていた。世界には私と、この鉄の塔と、そして描き出すべき色彩しか存在しなかった。


 気づけば周囲は夜の帳に包まれ、エッフェル塔がシャンパンゴールドの光を放ち、一時間おきにダイヤモンドのように瞬くシャンパン・フラッシュの輝きが街を照らしていた。

 私は数えきれないほどのスケッチの山を腕に抱え、魂を削り取られたような疲労感と、それを上回る高揚感の中で、ふらつく足取りでアパルトマンの重い扉を潜った。



――――【陽斗さんへの返信メール】――――

 

件名:Re:今日の出来事

送信者:瀬戸詩織

宛先:陽斗さん


 完全試合の達成、おめでとうございます。

 二十七人の打者を一人も塁に出さず、完璧な円を描いて幕を閉じる……。

 あなたのことですから、きっとマウンドの上で周囲の喧騒など一切耳に入らぬかのように淡々と、まるで最適化されたプログラムを遂行するかのように正確に、一球ごとに『正解』を叩き込んでいたのでしょうね。その冷ややかなまでの集中力こそが、私の知る浅井陽斗という人の真髄です。


 でもね、陽斗さん。

 あなたが休暇という、目に見える形での報酬のために、大勢の観衆の前に自分をさらけ出したという事実は、私にとってはどんな精密な理論よりも雄弁に、今のあなたの本心を物語っているように思えてなりません。

 高橋さんを道連れにしてまで、あなたが必死に埋めようとしたものは何ですか?

 隣の部屋から聞こえてくるはずの私の筆の音が消え、耐え難いほどの空虚に包まれたあの砦から、一時的に逃げ出したかったわけではありませんよね?


 私は今日、エッフェル塔の真下で、太陽が地平線から姿を現してから、再び深い闇に沈むまで、食事の時間さえ惜しんで、ひたすらペンを走らせていました。

 天高く、複雑に、そしてあまりに精緻に組み上げられたあの鉄の骨組みを見上げていると、なぜかあなたの姿が思い浮かびました。

 緻密な計算の上に成り立つ、傲慢なまでの造形美。それは、どこかあなたに似ていて、少しだけ意地悪な気分になりました。


 理屈や数式では決して説明しきれない、この光の幾重にも重なる魔法のような色彩を、あなたの瞳に直接焼き付けてあげたい。

 いつか必ず、あなたと一緒にここへ来たい。いえ、絶対に連れてきますからね!


 あなたが手に入れたその二日間の特別休暇、一秒たりとも無駄にしないでください。私のいない部屋で、せいぜい独りぼっちの自由を満喫してくださいね。

 ただ、忘れないで。あなたが休暇を消化している間も、私はこの異国の地で、あなたの想像を絶するような激しい色を、執念深く、血を流すような思いで生み出し続けているということを。


 あなたが捕らえた白球の無機質な感触が消える頃。

 私の筆が、あなたが守り続けてきた灰色の世界を、完膚なきまでに鮮やかに塗り替えてみせます。

 一年後、私が神戸に持ち帰るのは、あなたがどんな計算式を用いても解き明かすことのできない、圧倒的な美しさの暴力です。

 

 覚悟しておいてくださいね、陽斗さん。


追伸。

 泥だらけになったユニフォーム、まさかそのまま放置していませんよね?

 しっかり汚れを落としておかないと、あなたの性格ならその不完全さを一生後悔するはず。高橋さんには私からも『お疲れ様』と伝えておいてください。

 彼こそ、あなたの我儘に付き合わされた、今回の真の功労者なのですから。


……陽斗さん。寂しくなったら、いつでも床の傷を撫でて。そこには、私の祈りが残っているから。

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