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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第四章 パリと神戸の空の下で

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第47話 マウンド上の不協和音 ~陽斗視点~

 照りつける陽光が、均一に整備された内野の土を白く焼き、逃げ場のない熱気がマウンドから陽炎となって立ち昇っている。俺は今、市営球場という名の非合理極まりない空間の中心に立たされていた。


「浅井さん、本当に手加減してくださいっすよ……? こっちは数年のブランクがあるんすから、突き指でもしたら週明けのデバッグ作業に致命的な支障が出るっす!」


 ホームベース付近で、身体のサイズに合っていない重苦しい防具を纏った高橋が、マスク越しに情けない泣き言を漏らしている。

 

(……全く。休日という貴重なリソースが、泥と汗にまみれた不毛な球戯に侵食されるとは。計算外にも程がある)


 

 事の始まりは、数日前の職場でのことだ。

 三つのモニターが放つ光に囲まれ、複雑に絡み合うソースコードの海へと深く潜行していた俺の背後から、足音が接近してきた。

 

「浅井君、少しいいかな?」


 振り返れば、そこには我が社の常務が、逃げ場を完全に封鎖するような満面の笑みを浮かべて立っていた。修正案件の進捗報告か、あるいは次期フェーズの予算検討か。俺は即座にビジネスの土俵を用意したが、飛んできたのは、学生時代のスポーツ経験という、業務外のパラメータ確認だった。


「……高校時代は陸上部で、中長距離を専門としていました」

 

「ほう、陸上か。持久力がありそうだな。……ちなみに、野球の経験は?」


 その単語を聞いた瞬間、俺の脳内ストレージの深淵に封印していた、前職・貝村興産での忌まわしきログが強制復旧される。

 

「……最悪の部類に入る経験ならあります。前職にて、強制的に野球部へ編入させられ、休日を搾取された過去が。レフト、そして、消去法でピッチャーを務めていました」

 

「おお、そうか! 実はな、明日の試合、エースが自宅の風呂場で転倒して全治一ヶ月という信じがたいエラーを犯したんだ。君、助っ人で投げてくれないか?」


 当然、俺は即座に断るのだが、常務の説得は粘り強く、というよりは執念深かった。俺は即座に、隣のデスクで気配を消し、端末の陰に隠れていた後輩の高橋へと鋭い視線を走らせる。


「常務。私がマウンドに立つのであれば、受ける捕手も相応のスペックが必要です。幸い、ここにもう一人、貝村興産で俺の球を処理し続けていた『元被害者』がいます」

 

「ひっ……!? 浅井さん、何を勝手なこと言い出すんすか! 僕は絶対に嫌っすよ!」


 高橋が椅子から飛び上がり、必死の抵抗を試みる。

 

「自分、もうキャッチャーミットの重さも忘れたっす! 明日は溜まってたアニメを一気見するって決めてるんすよ!」

 

「高橋。俺の投球データの蓄積があるお前が捕るのが、最もエラー率が低い。これは論理的な帰結だ」


 押し問答が続く中、常務は懐から切り札を取り出すかのように、不敵な笑みを深くした。

 

「二人とも、そう固いことを言わんでくれ。今回の件は、会社としての緊急事態だ。そこでだ……もし明日、君たちがバッテリーを組んで出場してくれたなら、特別に『特別報奨休暇』を二日間、進呈しよう。もちろん、公休とは別カウントだ。どうかな?」


 その言葉を聞いた瞬間、高橋の動きが止まった。

 

「……特別、休暇……二日間?」

 

「ああ、好きなタイミングで取得して構わない」

 

「……浅井さん。二日間ですよ。二日あれば、アニメどころか聖地巡礼まで行けるっす」

 

 現金なものだ。先ほどまでの絶望が、コストパフォーマンスの計算へと書き換えられていく。


「常務。その『特別休暇』は、確約をいただけますね?」

 

「もちろんだ。私が保証する」

 

 二日間の自由時間。そのリソースがあれば、詩織との通信時間や、彼女の帰国に備えた準備に充てることが可能だ。

 

「……分かりました。その条件であれば、引き受けましょう。高橋、異論はないな?」

 

「異論なんてあるわけないっす! 二日間の休暇のためなら、たとえ火の中、球場の中っすよ!」



―――― 

 そして現在、俺はマウンドの土を踏みしめ、ホームベース付近にいる高橋を見据えていた。スタンドを見渡せば、本来の草野球の観客動員数からは考えられない異常事態が発生している。


「キャーッ! 浅井さん、立ち姿からして素敵すぎますーっ!」

 

「見て、あの無駄のない動き! 浅井さん、こっち向いてー!」

 

「高橋君も頑張ってー! 浅井さんを支えるのは君しかいないわ!」


 職場の女子社員たちが大挙して押し寄せ、バックネット裏から内野スタンドまでを占拠している。彼女たちは手作りのボードまで持参し、不協和音のような黄色い歓声を上げながら、この不毛な球戯を一種のイベントへと変貌させていた。


 しかし、その黄色い歓声の矛先は、マウンドの俺たちだけに留まらない。

 

「佐藤さんも、今のスライディング最高でしたー!」

 

「鈴木さん、お腹出てるけど守備範囲広いー! 頑張ってー!」


 普段はデスクで丸まっている他の野球部の社員たちも、その凄まじい声援を受け、明らかに限界を超えたパフォーマンスを発揮していた。息を切らし、顔を真っ赤にしながらも、彼女たちの視線を意識して必死に白球を追いかけている。

 その異様な熱気が、ベンチに座る監督である常務の鼻息をさらに荒くさせていた。


「浅井君、高橋君! 見ろ、この盛り上がりを! 我が社の結束力は今、最高潮だぞ!」

 

 ベンチから身を乗り出し、メガホンを叩いて興奮する常務。それに対し、至近距離でその熱を浴び続けている高橋が、ついにマスクを剥ぎ取って叫んだ。

 

「常務、いい加減にするっす! こっちは命がけなんすから、その歓声がプレッシャーになるっす!」


 高橋の魂の叫びも、女子社員たちの「高橋君、吠えてる姿も可愛いー!」という無慈悲な声にかき消されていく。


「無駄口を叩くな、高橋。お前はミットを構えていろ。貝村興産時代と同じだ。余計な思考を排除し、反射に専念しろ」

 

「あの暗黒の日々を思い出させるのは勘弁っす……! 浅井さんの球、捕るだけで寿命が縮むんすから!」


 プレーボールの宣告。俺は高橋のサインを待たず、最短距離を射抜く軌道でストレートを叩き込んだ。

 パァンッ! という乾いた衝撃音が静寂を粉砕し、球場に響き渡る。

 

「ストライク!」

 

「いてて……相変わらず容赦ない球投げるっすね、この人は!」


 精密な演算に基づいた投球。高橋は悲鳴を上げ、不満を垂れ流しながらも、身体に刻まれた記憶を頼りに俺の球を捕球し続ける。女子社員たちの歓声は、イニングを追うごとにボルテージを上げていく。俺が求めているのは、こうした無秩序な賞賛ではない。砂埃にまみれたこの右腕を、一刻も早く浄化し、俺の”砦”を正常に再起動させる必要がある。



 

――――【詩織への報告メール】――――


件名:今日の出来事

送信者:浅井陽斗

宛先:瀬戸詩織


 ようやく帰宅して、泥と砂にまみれた体を洗い流したところだ。

 実は今日、市営球場のマウンドに立たされた。


 事の経緯を話すと、数日前に職場の常務から、野球部の試合に出てほしいと頭を下げられたんだ。エース投手が風呂場で転倒して負傷したという、あまりに間抜けな理由でね。

 俺が以前の職場で無理やり野球部に入れられていたことは伏せていたはずなのだが、なぜか俺に経験があることを見抜かれてしまったらしい。


 当然断ったのだが、常務から「特別休暇を二日間付与する」という条件を出された。さらに、隣で気配を消していた後輩の高橋も巻き込み、彼にも休暇が出るということで、なんとか納得した。

 以前の職場で俺の球を受けていた高橋と、再びこの神戸でバッテリーを組むことになるとは、予想外の事態だったよ。


 試合そのものは、高橋との連携が以前のままだったこともあり、危なげなく完全試合で終わらせた。

 ただ、問題はスタンドだ。職場の女子社員たちが大勢押しかけていて、俺や他の社員が動くたびに耳を突き破らんばかりの黄色い歓声を上げていた。高橋などは、一部で妙な人気が出ていたようだ。


 俺が求めているのは、あのような無秩序な騒がしさではない。

 君が絵筆を握り、キャンバスに向き合っている時の、あの凛とした空気だけだ。


 帰国した後に、もし誰かが今日の試合のことを大げさに話していても、聞き流してほしい。俺にとっては、休暇を得るための単なる作業に過ぎなかったのだから。


 早く帰ってきてくれ、詩織。

 俺がこの腕で本当に捕らえたいのは、白球などではなく、君が描き出す鮮やかな世界だけなんだから。

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