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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第四章 パリと神戸の空の下で

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第46話 セーヌの風と ~詩織視点~

 パリの朝は、少しだけ焦げたような、香ばしいバゲットの香りと共にやってくる。

 北野坂の霧とは違う、どこか乾いた、けれど歴史の重みを感じさせる冷たい風が、アトリエの窓を叩いていた。


(……あ、また私、自分の頬を触ってる)


 ふとした瞬間に、右手の指先が自分の右頬をそっとなぞる。

 それは、あの日、校門前で陽斗さんが触れようとして、けれど躊躇(ためら)って止めてしまった指先の残像を追いかけるような癖。

 メールの中で彼が『イーゼルの跡を撫でる手間が増えた』なんて文句を言っているのを読んで、あの”砦”に残した私の気配を彼が指先でなぞっている光景が、痛いほど鮮明に浮かんでしまったのだ。


 私は無意識に、右手の指先で左手の甲を撫でていた。

 そこにはもう、彼が触れた時の熱も、あの”砦”の静かな空気もない。ただ、キャンバスに向かいすぎて画材の汚れがついた、私の指があるだけだ。

 

 陽斗さんから届いた返信メールを、私はもう何度目か分からないほど読み返していた。

 

 「自惚れるのもいい加減にしたまえ」

 「非合理的な口留め料」

 

 画面越しに聞こえてきそうな、あの低くて少しぶっきらぼうな声。

 由紀ちゃんや香奈ちゃんたちに捕まって、あんなに大切に隠していた校門前の聖戦がバラされてしまった時の彼の引きつった顔。それが手に取るように分かって、私は思わずクスクスと笑い声を漏らした。


(陽斗さん、三宮のレストランで高橋さんに高級な食事を奢らされて、眉間に皺を寄せているんだろうな……)


 その光景を想像するだけで、胸の奥が温かくなる。

 けど、読み進めるうちに、ふと視界が滲んだ。


『君がいないからといって、俺の隣に座れる人間など、この世界には君以外に存在しない』


 ……ずるい。

 

 あんなに冷たく私を突き放して、『君がいなくても支障はない』なんて嘘をついたくせに。

 そんな、世界で一番甘くて重い鎖を、メール一本で私に巻き付けてくるなんて。


「……バカね、陽斗さん。そんなこと言われたら、私、もっと欲張りになっちゃうじゃない」


 私は、彼に指定したアールグレイを淹れるために席を立った。

 パリのスーパーで見つけた、彼が手配したと言っていたのと同じ銘柄。

 

 沸騰したお湯をポットに注ぐ。

 茶葉が躍る様子を見つめながら、私はあの日、彼が校門前で見せたボロボロの姿を思い出していた。

 完璧な鎧を脱ぎ捨てて、泥だらけの靴で、ただ私という光を求めて震えていたあの人。

 「しおちゃん先生、ガンバ!」と叫んでくれた生徒たちの拍手の中で、私たちは確かに、お互いという欠陥を認め合った。


 あの時、彼は私に『翼』をくれた。

 私が私の色を見失わないように。

 彼という重力に縛られず、もっと遠くへ羽ばたけるように。


 ポットから立ち上がる湯気の中に、彼と過ごしたポートアイランドの夜が浮かぶ。

 一緒に食べた焦げたトースト。

 イーゼルの脚が床につけた、小さな傷跡。

 彼はそれを『撫でろ』という私のわがままに呆れながらも、修復せずに守ってくれているという。


(待っていてね、陽斗さん)


 一口含んだ紅茶は、まだ少し、彼が淹れてくれたものより苦かった。

 蒸らし時間が足りないのか、それとも水が違うのか。

 ……たぶん、その両方で、そして決定的な何かが足りないのだ。

 

 私は再び、真っ白なキャンバスの前に座り直した。

 まだ何の色も置かれていない、恐ろしいほどに純粋な白。

 今の私には、彼の演算回路を木っ端微塵にするような絵を、まだ描くことはできない。

 

 だけど、セーヌ川の冷たさを知るたびに、エッフェル塔の影が夕日に伸びるのを見るたびに、私の中に新しい色が生まれていくのを感じる。

 それは、誰かに守られているだけだった頃の淡くて脆い色じゃない。

 

 孤独を知り、渇望を知り、それでもなお、誰かを愛し抜こうとする者の色だ。


「一年後、驚かせてあげるから」


 私はパレットに、鮮やかな青を置いた。

 あの日の北野坂の空よりも深く。

 ポートアイランドの窓から見下ろした海よりも澄んだ、一筋縄ではいかない青。


 陽斗さん、貴方の隣が『私の席』であるように。

 私の隣も、貴方以外には座らせない。

 

 高橋さんにどれだけ揶揄われても、常務に『予約済みだ』なんて言われても、どうかそのまま、私の”砦”を守っていて。

 

 私は筆を握り、ゆっくりと最初の一線を引いた。

 

(早く会いたい。……でも、まだ帰らない。帰れない)


 貴方が私を愛したことを、後悔させないくらいの最高の一枚を抱えて帰るまで。

 

 パリの空に、少しずつ朝の光が溶け込んでいく。

 私はもう、迷わない。

 この場所で、私は私という画家を、完成させてみせる。


(……陽斗さん。クッキー、賞味期限が切れる前に、ちゃんと全部食べておいてね。私の『好き』が詰まってるんだから)



――――【陽斗さんへの返信メール】――――


件名:Re: Re: Re: Re: 異国の朝

送信者:瀬戸詩織

宛先:陽斗さん


 紅茶の手配、ありがとうございます。

 指先が迷っていないと言い切るところが、いかにも陽斗さんらしいですね。でも、届いた箱の詰め方がほんの少しだけ几帳面すぎたのを見て、私は勝手に「あ、陽斗さんの温度だ」なんて思ってしまいました。これも統計学的な誤差に含まれますか?


 それから……ふふっ、由紀ちゃんたちに見つかっちゃったんですね。

 あの日の校門前での陽斗さんは、本当にかっこよかったんですよ。あんなにボロボロになって、私の名前を叫んで……。美術部のあの子たちにとっては、一生ものの名シーンになっちゃったみたいですね。

 高橋さんへの口止め料、高くついてしまってごめんなさい。でも、陽斗さんが後輩を飲みに連れて行くなんて、以前の貴方からは想像もできない変化です。それもきっと、この一年という時間が必要な理由の一つなのかもしれません。


 イーゼルの跡、撫でてくれたんですね。

 「確認する手間が増えた」なんて文句を言いながら、ちゃんと修復せずに置いておいてくれる……。そんな貴方の優しさが、今の私の、何よりの筆の糧になっています。

 床の傷はいつか直せても、あのアトリエで二人で積み上げた時間は、誰にも上書きできませんから。


 社内での予約済み宣言についても聞きました。

 常務さん、素敵な表現をしてくださるんですね。陽斗さんの心が、一年先まで私に占有(フルアクセス)されているなんて。その言葉、大切に胸にしまっておきます。

 私も、こちらで何度か食事に誘われたりしましたが、すべてお断りしています。私の隣の席は、世界で一番不器用な『砦の主』のために空けてありますから。


 一年後。

 貴方の完璧なトーストに、私の新しい色彩を添えて、朝食を食べましょう。

 その時、貴方の演算回路が予測不能だと悲鳴を上げるくらい、私はもっと自由に、もっと欲張りに成長して帰ります。


 

 追伸。

 クッキー、無理して保存しなくていいんですよ?

 賞味期限が切れるのを一緒に確認するのも素敵だけど、貴方がそれを食べて「甘すぎる」って眉を寄せる姿を想像する方が、今の私には元気が出ます。

 半分食べたら、残りの半分は……そうね、私との約束だと思って、少しずつ楽しんでください。


……陽斗さん。寂しくなったら、いつでも床の傷を撫でて。そこには、私の祈りが残っているから。

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