閑話 口止め料 ~高橋視点~
三宮のオフィスフロアに、定時を告げる無機質な電子音が鳴り響く。
その瞬間、フロアの喧騒がふっと凪いだ。デスクの島を割り、一分の隙もない仕立ての良いジャケットを翻して、こちらへ向かってくる男、浅井陽斗。その整った横顔が見えた瞬間、周囲の社員たちが一斉に「始まった」と言わんばかりに視線を逸らし、息を殺した。
(おっと、お出ましだ。このフロアの温度を三度下げる男、我らが浅井さんの定時巡回だ)
浅井さんは俺のデスクに辿り着くまでに、いくつかの島で足を止めた。
「佐藤。そのテストコード、異常系の処理が抜けている。通常ルートが通るのは当然だ。ネットワーク遅延やメモリ不足が起きた際、ユーザーにどうフィードバックを返すかまで設計しろ」
「えっ、あ、はい。すみません」
「ここだ。この例外処理を一段噛ませるだけで、堅牢性が格段に上がる。書き直してみろ」
「鈴木。その納期は厳しいな」
「申し訳ありません……」
「いいか、メインのロジック構築だけに集中しろ。周辺のドキュメント整備と環境設定は俺が引き取る。迷ったらすぐ訊け。お前の手が止まるのが、プロジェクトにとって最大の損失だ」
低く、地を這うような厳しい声。若手たちはその視線の鋭さに蛇に睨まれた蛙のように硬直しているが、実はその指摘は常に具体的で、解決への最短距離を示している。実際、フロアの連中は「浅井さんに詰められるのは怖いが、その通りに直せば絶対に失敗しない」と、恐怖心はありながらも、全幅の信頼をおいて彼を頼っていた。
さらに言えば、どうしても納期が間に合わない絶望的なタスクが、翌朝には何食わぬ顔で完了していることが何度もある。浅井さんが深夜、誰にも言わずに片付けたのだ。
「あ、あの、浅井さん……! これ、終わってます! ありがとうございます!」
「次は自分で終わらせろ。効率が悪い」
背後で震えながら感謝を伝える社員に、彼は振り返りもせず冷たく言い放つ。
(おいおい、みんな。あの人がどれだけお前らの尻拭いをしてるか分かってんのか? 言葉は氷点下だけど、やってることは一番温かいんだよ)
やがて、彼は迷いのない足取りで俺のデスクに辿り着くと、さらに一段トーンを落とした声を放った。
「高橋。仕事の進捗はどうだ?」
周囲の連中が「高橋君、また捕まった……」「かわいそうに」とヒソヒソ話しているのが聞こえる。だが、俺は内心でニヤリと笑った。
「おっ、浅井さん。進捗ならバッチリですよ。指示されたところ、前倒しで完了済みっす。全部終わらせてますから。ほら、この通り」
「ふん。ならいい。余計な手戻りが発生していないか、後で確認させてもらうがな」
いつもならここで背中を向けるはずの男が、今日は違った。
「準備しろ。行くぞ」
「はい?」
「飲みに連れて行けと言ったのは、お前だろうが」
その言葉が落ちた瞬間、フロア全域に激震が走った。
「えっ、浅井さんが自分から『飲み』に……!?」
「高橋君を? 仕事の説教じゃないの?」
「あの浅井陽斗が、誰かを誘うなんて……世界が終わるんじゃないの?」
驚愕に満ちた社員たちの視線が、俺と浅井さんの間を行ったり来たりする。
(悪いな、お前らは明日も浅井さんの鉄仮面に震えてろ。俺だけは、この人の『本当の顔』に触れに行ってくるからよ)
俺は大急ぎでカバンを掴んで立ち上がり、隣のデスクで固まっている同期に、軽くウィンクしてやった。
新人の頃からこの人に世話になり、誰よりも厳しく、そして誰よりも真摯に導かれてきたのは俺だ。周囲には面白おかしく「人の皮を被った精密機械」なんて吹聴しているが、その鉄仮面の奥にある、言葉足らずで不器用なまでの優しさを俺は知っている。
皆が恐れるこの男の特別枠にいるという圧倒的な優越感。それを隠しながら、俺は悠然とエレベーターへと向かう浅井さんの背中を追った。
――――
夜の三宮。北野坂へと続く緩やかな坂道を上りながら、俺は獲物を仕留めた猟犬のような気分でいた。
「高い店、高い店……! いやあ、浅井さん。期待してますからね。さっきの昼飯、生田ロードであんな話聞かされたせいで、味が全くしなかったんすから」
背後からの能天気な連呼に、浅井さんは露骨に苦々しい顔をしている。辿り着いたのは、路地裏にひっそりと佇む一見さんお断りのステーキハウス。重厚な扉を開ければ、官能的なまでに芳醇な肉の香りが鼻をくすぐる。
「ここでいいか」
「うわ、マジっすか。流石は浅井さん、チェック済みっすね。高い店、万歳!」
カウンターに座り、運ばれてきた極上の神戸牛を前にしても、浅井さんはどこか上の空だ。俺はワイングラスを揺らしながら、確信犯的な笑みを浮かべて身を乗り出した。
「それにしても、『しおちゃん先生』か。あの浅井さんをそこまで狂わせる女性、一度拝んでみたいっすね」
「黙って食え。肉が冷める」
冷めたって美味いっすよ、これ。俺は心の中で毒づきながらも、この『論理の権化』がどうやってあんなバグを起こしたのか、その真相を暴きたくてたまらなかった。
「『友達でいいなんて嘘だ!』……でしたっけ? 昼間、生田ロードで女子高生たちから聞いた時は耳を疑いましたよ。あの浅井さんが、仕事放り出して数時間も校門に張り付いて、ネクタイも髪もボロボロの状態でそんなセリフ吐いたってマジっすか? 不審者扱いですよ、普通」
「高橋。貴様、俺に解雇通知書を書かせたいのか」
「あはは! 顔、怖いっすよ。耳まで赤いのに。でも、そこだけは詳しく教えてくださいよ。効率を考えたら、美術教師とエンジニアなんて共通言語もないし、ましてや遠距離なんてコストに見合わないじゃないですか。それを『嘘だ!』とまで言い切らせた決定的な要因は何だったんすか?」
「結論などない。直感だ。ただ、彼女が出てくるのを待っていたあの数時間、俺の全システムは既に崩壊していた。彼女を失うという予測値が出た瞬間、論理も、プライドも、すべてが機能不全に陥った。……ただ、それだけだ」
あの浅井陽斗が、『システム崩壊』を認めた。俺はゾクっとした。あの完璧な男をフリーズさせるほどの出力。
(この人、本当に完敗したんだな。一人の女性に)
だが、俺にはもう一つ、どうしても聞きたいことがあった。新人の頃からこの人の背中を見てきた俺だからこそ、あの貝村興産を去った本当の理由を知りたかった。
「で、もう一つ。これが一番聞きたかったんすけど。浅井さん、なんで最大手の『貝村興産』、あんなにあっさり辞めちゃったんすか?」
その瞬間、浅井さんの指先が微かに震えたのを、俺は見逃さなかった。返ってきたのは、想像を絶するほど泥臭く、屈辱的な過去だった。野心の対価としての政略結婚。もっと条件の良い男が現れた瞬間の手のひら返し。
「絨毯の上に放り出された手切れ金を、俺は這いつくばって拾うしかなかったんだ。同僚たちは俺を『泥亀』と呼んで嘲笑った。……だから俺は、その屈辱の金と全財産を注ぎ込んで、今のマンションを買った。奴らの汚れが及ばない、俺だけの隔離された砦にするためにな」
淡々と語られるその言葉の裏側に、どれほどの孤独があったのか。でも、今のこの人の目は、もう死んでいない。
「浩美という歪んだ鏡ではなく、彼女の光に照らされて、俺は初めて自分という個体を取り戻せたんだ」
「浅井さん。それ、バグどころか、完全にOSの入れ替えっすね」
俺は心からそう思った。誰よりも合理的な判断を下してきたこの人が、不合理の極みである”愛”に救われたのだ。
彼女は今、パリにいるという。期間は一年。浅井さんは、仕事だと言って突き放しておきながら、結局有給を使って関空まで追いかけ、サングラスで柱の影に隠れて見送ったらしい。
「あんなに惨めで、無様な露呈はなかったが……彼女は俺に向かって頷いてみせたんだ」
(『嘘つき』。浅井さんの独白に重なるように、俺の脳内でもその言葉が再生された)
「へぇ……。なんだか、映画みたいっすね。でも、いいっすね。今の浅井さんを見てると、よっぽどいい出会いがあったんだなーって思いますよ」
「余計な感想は不要だ。早く食え」
ぶっきらぼうな言い草。でも、その耳がほんの少し赤い。俺は窓の外、夜の三宮の街を見下ろした。
明日、オフィスでみんなが俺に「昨日は、何があったの!?」って詰め寄ってくるのが目に浮かぶ。その時、俺はなんて言ってやろうか。
(「浅井さんは、ただの人間だったよ。それも、最高に優しいヤツだ」……なんて言っても、誰も信じないだろうけどな)
俺はワインを一口飲み、この最高に贅沢な夜を噛み締めた。
鉄の仮面の内側で、誰よりも純粋で熱い情熱を燻らせているこの男のことを、新人の頃からずっと見続けてきた俺だけが理解しているという実感が、俺を誇らしくさせた。
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