第45話 演算不能 ~陽斗視点~
パリから届いたメールの末尾、その最後に括られた一文を読み終えた瞬間、俺は無意識に端末をデスクへと伏せていた。
「……撫でておけ、だと?」
独り言が、誰もいないリビングに空虚に響く。
視線を落とせば、窓から差し込む午後の光が、フローリングの上に刻まれた小さなイーゼルの脚跡を照らし出していた。それは彼女がこの”砦”で格闘し、迷い、そして俺と共に生きた証としての消えない傷痕だ。
撫でるなどという行為に何の意味があるのか。俺の思考回路は即座に”無価値”という結論を出す。だが、その結論とは裏腹に、俺の身体は吸い寄せられるようにしてその跡へと歩みを進めていた。
指先で触れた木の凹凸は冷たく、それでいて彼女の筆致を思わせる独特の熱量を秘めているような錯覚を覚える。
「……馬鹿げているな」
俺は吐き捨て、その場に力なく腰を下ろした。
――――
騒動の始まりは、数日前の昼食時だった。
栄養補給だけを目的に事務的に食事を済ませようとする俺を、部下の高橋が「たまには外の空気吸いましょうよ」と無理やり三宮の繁華街へと連れ出したのだ。
センター街を抜け、生田ロードへと差し掛かったあたりで、突然、騒がしい集団に突き当たった。
「あッ! 陽斗さんじゃないですか! しおちゃん先生、本当に行っちゃったんですね……」
駆け寄ってきたのは、スケッチブックを抱えた女子高生たちだった。数人からなるその集団、詩織が以前勤めていた高校の美術部員たちは、俺と高橋の前に立ちふさがると、ひどく落胆した様子で溜息をついた。
「陽斗さん。先生がいなくて私たち、完全に『しおちゃん先生ロス』なんですよ。昨日も美術室の片付けしながら、みんなで泣いちゃったんですから」
「先生がパリで修行してる間、陽斗さんが浮気とかしてないか見張ってろって、部長からも厳命されてるんです。変な動きしたら即、エッフェル塔までチクりますからね!」
次々に浴びせられる純粋ゆえの脅しに、俺は眉間を押さえた。だが、それ以上に理解不能な点があった。
「ちょっと待て。……なぜ、君たちが俺の名前を知っている? 面識はないはずだが」
俺の問いに、香奈と呼ばれた少女が「何言ってるんですか」と呆れたように笑った。
「忘れたんですか? あの日、陽斗さんがボロボロのスーツ姿で校門の前に数時間も立ち尽くして、先生が出てきた瞬間に『友達でいいなんて嘘だ!』って叫んだこと。あの時、しおちゃん先生も泣きながら『陽斗さん!』って思いっきり呼んでたじゃないですか。私たち、あの一部始終を特等席で見てたんですよ?」
「……っ!」
脳内の演算が、一瞬にして停止した。
あの日の記憶が蘇る。理性をかなぐり捨て、泥にまみれた靴で、数時間も立ち尽くした挙句、衆人環視の中で剥き出しの感情を晒したあの醜態。まさか、それを彼女たちが『陽斗』という固有名詞と共に、物語のワンシーンのように記憶していたとは。
「あの時の陽斗さん、ネクタイもぐちゃぐちゃで、モデルみたいに綺麗なのに必死すぎて……。私たち、あの『聖戦』以来、二人をセットで応援してるんですから」
「そうですよ! 『陽斗さんを信じるよ!』って、みんなで拍手したの覚えてないんですか?」
言うだけ言って、女生徒たちはどこかへ行ってしまった。それも、俺が呆然としている間にだ。
耳の付け根が火傷しそうなほど熱くなる。以前の俺なら一瞥して黙らせていたはずだが、今の俺には反論する術がない。隣では、高橋が、信じられないものを見るような目で俺を凝視していた。
「……浅井さん。今、あの女子高生たち、なんて言いました? 『しおちゃん先生』? それに、あの……『先生』って。浅井さんの恋人って、高校の教師なんすか?」
「……気にするな。単なるエラーだ」
「いやいや! あの鉄壁の浅井さんが、高校教師相手に校門で愛を叫ぶなんて。それ特大のバグを通り越して、もはや新世界の創造っすよ!『しおちゃん先生』って呼び方、最高に響きがいいっすね!」
高橋の目は、最高級の獲物を見つけた猛獣のように輝いていた。
「……高橋。今の話は、忘れるんだ。いいな」
「えー、どうしようかな。このネタ、社内で共有したらアクセス数すごいことになりそう……」
「……今日の仕事終わり、三宮で一番高いメシを奢る。酒も好きなだけ頼め。それで、この件は永久に墓場まで持っていけ」
「交渉成立っすね! 流石、浅井さん、決断が早い!」
屈辱的な口留め料を支払う約束をさせられたことで、俺のプライバシーの防壁には決定的な亀裂が入ってしまった。以来、高橋は二人きりの時に限って、この呼び名とエピソードを引き合いに出して俺を揶揄うようになったのだ。
――――
そして今日。オフィスに出社した俺を待っていたのは、業務上の課題ではなく、理解し難い人間関係の嵐だった。
「浅井さん、おはようございます! あの、これ、よかったら食べてください」
「浅井さん、今夜もしお時間あれば、美味しいお店を見つけたんです。一人で寂しいかなって」
出社して一時間も経たないうちに、社内の女性陣から次々と声がかかった。
社長が飲み会で『浅井は今、抜け殻だ』と漏らした結果、彼女たちの間では『鉄の砦が今、無防備になっている』という誤った解釈が共有されたらしい。
「……あ、いや。その店に行く理由がない。差し入れも、今は必要ないんだ」
思わず後ずさりしながら断るが、彼女たちは引かない。
「でも、浅井さん。寂しい時は誰かといた方が気が紛れますよ?」
「……寂しい? 俺がか?」
心外な指摘に、俺は言葉を詰まらせた。その集団から逃げるように自席につく。
その動揺を見透かしたように、デスクの向こうで作業をしていた高橋が、追い打ちをかけるようにコッソリと口を挟んできた。
「浅井さん、隠しても無駄ですよ。あの美術部の女子高生たちにもしっかり監視されてるんでしょ? しおちゃん先生。あっ、陽斗さんでしたっけ? 恋しくてパリの天気予報チェックしてたの、僕見ちゃいましたしね」
「……高橋、貴様、いつから見ていた」
「浅井さんがブラウザに『パリ 降水確率』って打ち込んだ瞬間に確定演出っすね。そんなに心配なら、仕事放り出して会いに行けばいいのに。しおちゃん先生に怒られますよ?」
高橋からの容赦ない揶揄いに、俺は反論を諦めた。そこへ、さらに女性陣が畳み掛けてくる。
「そうですよ、浅井さん! 気分転換、大事ですって!」
再び、包囲網が狭まり、俺が窮地に陥ったその時、背後から重みのある足音が近づいてきた。
「やめておきなさい。君たちのそのアプローチは、時間の無駄だよ」
通りかかったのは、常務だった。
彼は足を止めることさえせず、手に持った資料に目を落としたまま、断定的な口調で彼女たちに告げる。
「浅井君の心は、もう一年先までパリの住人に予約されている。他の誰かが入り込む隙間なんて、これっぽっちも残っていないさ。なぁ、浅井君、そうだろ?」
常務はそれだけ言うと、颯爽と廊下の向こうへ消えていった。
あとに残された女性たちは、俺のあまりのなびかなさと、常務の言葉の重みにようやく悟ったのか、深いため息をついて散っていった。
高橋だけは、笑いをこらえていたが……。
(……予約だと? 常務まで……)
俺は激しい頭痛を覚えたのだった。
――――【詩織への返信メール】――――
件名:Re:Re:Re:異国の朝
送信者:浅井陽斗
宛先:瀬戸詩織
指定された紅茶の銘柄は手配した。
注文時に指先が迷ったというのは君の思い込みだ。自惚れるのもいい加減にしたまえ。
それから、街中で君の元教え子だという美術部の連中に遭遇した。由紀や香奈といった面々だ。
あの日、俺が君を待っていた校門前での醜態が、彼女たちの間で完全にデータベース化されていることを知った。彼女たちが君を『しおちゃん先生』と呼び、俺を『陽斗さん』と呼んで監視役を気取るせいで、高橋にすべてを、こいつはバカ部下なんだが、君が高校の教師であることまで含めて、勘繰られる羽目になった。
結果、俺は今日、奴に高価なメシと酒を振る舞うという、極めて非合理的な口止め料を支払う羽目になっている。君の交友関係の広さが、俺の平穏なオフィスライフに深刻なデバッグ作業を強いていることを自覚してほしい。
イーゼルの跡については、処置に困っている。
君が『撫でろ』などと言うから、掃除の際、その部分を確認する手間が増えた。床の傷は資産価値を損なう要因でしかないが、君が帰ってくるまで、修復は保留しておく。それが、君という存在を受け入れた”砦”の現在の状態だ。
社内では望まぬ騒がしさが増しているが、安心していい。俺の心は、君という『唯一の存在』以外には、絶対に開放されないようになっている。
常務にまで『無駄だ』と断言される始末だ。君がいないからといって、俺の隣に座れる人間など、この世界には君以外に存在しない。
一年後。
君がどんな姿で帰ってくるのか、俺も楽しみにしておこう。
その時まで、この場所を維持し、君がいつでも戻れる場所を守り抜く。
追伸。
クッキーは、半分も食べていない。
箱を開けるたびに、君が以前このブランドを好きだと言っていたことを思い出してしまい、食べるのが進まない。
残り半分は保存しておく。君が帰ってきた時、その賞味期限が切れているのを、二人で確認するためだけに。
……早く、君にしか描けない絵を見せてくれ。俺の思考を、木っ端微塵に破壊するほどの色彩をな。待ってるぞ。
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