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<全98ep> 婚約破棄されたSEと、恋を捨てた美術教師は恋をしないはずだった  作者: 第三ひよこ丸
第四章 パリと神戸の空の下で

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第44話 重なる筆致 ~詩織視点~

 パリ六区、サン・ジェルマン・デ・プレ。

 かつてサルトルやボーヴォワールといった哲学者たちがカフェの片隅で果てしない議論を戦わせ、ピカソやモディリアーニが時代を塗り替えるための色彩を血眼になって模索したこの街は、今もなお、呼吸を吸い込むたびに知性と芸術の芳香が肺の奥深くまで染み渡るような錯覚を覚えさせる。

 

 迷路のように入り組んだ路地、歴史の重みに耐えかねてわずかに傾いた石造りのアパルトマン。その喧騒を少し抜けた先にあるその美術学校は、私が学生時代から幾度となく夢に見て、色褪せた画集の余白にその名前を、まるで切実な祈りのように書き記してきた聖地そのものだ。


 歴史の重圧で歪んだ、高く重厚な鉄門をくぐり抜けると、そこには使い込まれた油絵具の重たい香りと、数えきれないほどの学生たちの情熱が染み付いたテレピン油の匂いが、幾層もの地層のように澱んでいる。その特有の香りを、冷たく乾いた空気とともに肺いっぱいに吸い込んだ時、ようやく私は教師という安全な肩書きを脱ぎ捨て、一人の無力な画家としてこの街に放り出されたのだという実感が、指先の微かな震えとなって伝わってくる。


 私のフランス語は、まだお世辞にも流暢とは言えない。でも、学生の頃からいつか必ずこの場所へ来ると信じて、独り北野坂のアトリエで、擦り切れた参考書をめくり続けてきた孤独な時間は、決して私を裏切らない。

 

「|Bonjour,jesuisShioriSeto.Enchantée.《こんにちは、瀬戸詩織です。はじめまして》」

 

 たどたどしくも、真っ直ぐに教官の目を見据えて告げた挨拶に、白髪の老教授は眼鏡の奥で悪戯っぽく瞳を細める。

 

「君のデッサンは言葉よりも饒舌だ。だが、その饒舌さが牙を剥き、私を噛み殺そうとする瞬間を期待しているよ。ここでは美しさなど、ただの退屈な飾りに過ぎないのだから」

 

 少しだけ癖のある、けれど慈愛に満ちたその発音に、私は身が引き締まるような思いだった。


 

 研修先のクラスは、まさに世界中の魂を煮詰めたような場所だった。

 ここでは日本の授業のような静寂の中での模倣など、ただの準備運動にさえなりえない。

 

 隣のイーゼルでは、セネガルから来たという逞しい腕の青年が、キャンバスを突き破らんばかりの鮮烈な原色を、叩きつけるような筆致で置いている。床に激しくはねた絵具さえも自分の作品の一部だと言わんばかりに豪快に笑う彼の傍らで、背後では北欧出身の静かな少女が、北極圏の淡い光の粒子をすくい取るような、透き通った繊細な筆致で、現実と幻想が溶け合う境界線を描き出していた。


「シオリ、君の絵には『迷い』がない。だが、同時に『狂気』も足りない。君はまだ、自分を美しく整えようとしすぎている。その整った殻を、いつ自分で叩き割るつもりだ?」


 教官の鋭い、刃のような指摘に、私は思わず握っていた筆を止めてしまった。

 日本で教師として生徒たちに”正解”を説いていた時のような、調和や配慮を求める生ぬるい空気は、ここには一切存在しない。あるのは、己の魂をどうやってその四角い布の上に定着させるかという、剥き出しの生存本能と執念だけ。

 完璧に管理され、誰からも賞賛されてきた私の技法が、ここではあまりに型に嵌まった退屈な優等生に見えて、初日の講評の帰り道、私は悔しさのあまり唇を血が滲むほど噛み締めてしまった。


(……でも、陽斗さん。私はここで、まだ誰にも見せていない自分を見つけられそうです。いえ、見つけなければ、あなたの隣に帰る資格さえない気がするのです)


 放課後、私はセーヌ川に架かる最古の橋『ポン・ヌフ』を渡った。

『新しい橋』という、そのあまりにも矛盾した名を持ちながら、実際には十六世紀末に建設が始まった四百年以上の重厚な歴史を刻み込んだその石造りの橋は、かつて多くの画家たちがその袂に立ち、刻々と移ろいゆく空の色と、川面の煌めきの中に永遠を捉えようと格闘し続けた場所だ。

 橋の中ほどに張り出した、半円形のテラスに腰を下ろすと、眼下には冬の泥を巻き込みながらも力強く、悠久の時間を湛えて流れるセーヌの川面が広がっている。


 映画の中で恋人たちが愛を誓い、あるいは人生の絶望を投げ打ってセーヌの泡となったこの場所で、冬の冷たさを孕んだ鋭い風に吹かれていると、不意に彼の声が脳裏に響いてくる。

「効率の悪い感傷はやめろ、さっさと筆を動かしてキャンバスを埋めろ」と、あの無機質な、だけど誰よりも私の心に深く届く温かい声で。

 その幻聴に背中を押されるように、私は急いでアパルトマンへ戻り、冷え切った指先を温める間も惜しんで、スマートフォンを開くのだった。



―――【陽斗さんへの返信メール】――――


件名:Re:Re:異国の朝

送信者:瀬戸詩織

宛先:陽斗さん


 メール、読みました。

 相変わらずデジタル信号のような冷たい言葉の羅列で、一行読み進めるたびにパリの夜空がさらに数度、凍りつくかと思いました。

 でも、あのバグの話。ふふ。あなたがそんなに分かりやすく、まるで再起動に失敗したプログラムのように動揺しているなんて。それを想像しただけで、私の脳内のパレットは、今までにない華やかなピンク色に塗り潰されてしまいそうです。社長さんには、今度日本に帰った時、最高級の神戸牛でも贈らなければいけませんね。私の大切な”砦”の主が、実はとっても不器用な寂しがり屋なのだと、公式に世界へ証明してくださったのですから。


 こちらの学校は、あなたの想像以上に過酷で、そして暴力的なまでに刺激的です。

 私の描く線は、ここではまだ『静かすぎる』と一蹴されてしまいました。あなたの隣で、あなたのキーボードの打鍵音を心地よい子守唄のように聞きながら、穏やかな幸せの中に安住していた私では、まだ見つけることのできなかった『牙』が、ここには溢れています。

 でも、少しも落ち込んではいません。

 悔しくて、指先が火傷しそうなほど熱くて、今すぐにでもあなたに見せびらかして驚かせたくなるような、新しい白色を、今日描いた一枚のスケッチの中に見つけたからです。


 

 クッキーは、本当に全部一人で食べたのですか?

 あなたが健康管理のパラメーターを崩して倒れたりしたら、私の帰るべき座標が消えてしまいます。

 せいぜい、私が帰るその日まで、その不本意な親しみやすさというバグを維持して、部下の方々から存分に愛されておいてください。


 紅茶の銘柄は、追伸に詳しく記しておきますね。

 それを注文する画面で、私の名前を入力するあなたの指先が、ほんの少しでも迷い、躊躇ってくれることを願いながら。


 

 追伸。

 パリの焼き立てのパンは確かに驚くほど美味しいですが、私にとっては、あなたの焼いてくれた、あの少し焦げたトーストの味には、どうしても及びません。

 あれは、私の特別なレシピを以てしても決して再現できない、世界で唯一の『完璧な失敗作という名の大傑作』でしたから。


 一年後の私のパレットに、あなたが一体どんな顔をして、どんな色彩を纏って並ぶことになるのか。

 今から楽しみで、夜も眠れないほどです。


 もし、どうしようもなく寂しくなったら。私の代わりに、あのアトリエの床に残った、あのイーゼルの跡を撫でておいてください。そこには、私の祈りが染み付いているはずですからね。

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