第43話 機械から人間へ ~陽斗視点~
彼女がいなくなってからのこの二週間、俺の生活はかつてないほど精密に、そして絶望的なまでに効率化されていた。
ポートアイランドの二十五階。かつてアトリエとして機能していたリビングの半分は、今や冷たいフローリングが剥き出しになり、ただの空虚な空間としてそこにある。キャンバスを立てていたイーゼルの脚が床に刻んだ僅かな凹みだけが、そこに誰かがいたことを証明する唯一の座標となっていた。
朝、アラームが鳴る前に覚醒し、寸分の狂いもなく計算された栄養素のサプリメントを流し込む。
以前のように『朝はトーストとアールグレイの香りがしないと力が出ない』などという、非論理的な抗議を受けることもない。俺のタイピング音を『心臓の音みたい』などと形容する、妙な感性の同居人もいない。
これこそが、俺が再定義したはずの砦の真実。誰にも侵されず、感情という名の不確定要素を完全に排除した、純粋な演算領域。
(……支障はない。一切の誤算なく、俺の日常は回っている……筈だ)
そう自分に言い聞かせ、俺は貝村興産の内部調査資料が流れるモニターを見つめた。だが、網膜を滑る数字の羅列が、時折ふとした瞬間に、彼女が置いていったあの『高い紅茶の葉』の缶の色に見えてしまうことがある。
俺の脳という名のハードウェアは、どうやら一部のセクタに修復不可能な”瀬戸詩織”という名のバグを抱え込んだまま、再起動を繰り返しているようだった。
週に一度の定例報告会議。
かつての俺なら、一切の無駄を省いた厳格な報告で場の空気を凍りつかせていたはずのその場所で、俺は柄にもなく、専務の言葉に反応が遅れるという失態を演じていた。
「――おい、浅井。聞いてるのか?」
「……失礼しました。もう一度、今のセクションの数値を願います」
眉間に皺を寄せて問い返すと、会議室の空気が一瞬だけ緩んだ。
正面に座る専務、俺の過去も、今回の事件もすべて知っているあの男が、愉快そうに隣の社長と視線を交わし、ニヤリと口角を上げる。
「なんだ、案の定、魂が半分くらいパリまで飛んでいってるようだな。エンジニアの癖に、自分のサーバーの同期も取れないのか?」
「専務、不確かな憶測による発言は慎んでいただきたい。私は至って正常です」
「正常な奴は、報告書の途中にアールグレイの抽出時間なんてメモを書き込まんよ」
社長にまで笑い混じりに指摘され、俺は自分のタブレットを凝視した。隅の方に、彼女の手紙への反論を考えていた痕跡が、消し忘れたスクラップとして残っている。
「……バグです。後ほど削除しておきます」
「ははは! まあいいさ、今の君は以前の精密機械だった頃より、ずっと話しやすくなったと評判だぞ。部下たちも、君に話しかけるタイミングを見計らう必要がなくなったと言って喜んでいる」
専務のその言葉は、俺にとっては不本意極まりない評価だった。
会議が終わってオフィスを歩いていると、確かに違和感があった。以前なら俺の姿を見るなり視線を逸らし、蜘蛛の子を散らすように去っていった部下や同僚たちが、今日は足を止め、気さくに声をかけてくる。
「浅井さん、お疲れ様です。……あの、これ差し入れです。パリの有名な店のクッキーだそうで。いかがですか?」
差し出された箱のラベルに躍る『Paris』の文字を見た瞬間、俺の思考回路がショートした。
「……嫌味か?」
低く、地を這うような声で吐き捨てると、部下は「えっ?」と目を見開いて固まった。
「今の俺に対して、パリの土産を渡すことがどれほど高度な嫌がらせか理解して言っているのか? それとも、俺の神経を逆撫ですることで業務効率を下げようとする他社のスパイか何かか?」
「ち、違います! ただ、社長が先日の飲み会で……」
部下の口から漏れた衝撃の事実に、俺は絶句した。
聞けば、俺が欠席した先日の親睦会で、酔った社長が「いやぁ、浅井君も大変だよ。最愛の彼女がパリに羽ばたいちゃって、今や抜け殻同然だからな!」と、全社員の前で高らかにぶちまけたらしい。
「…………社長が、そう言ったのか?」
「は、はい。みんな『あの鉄仮面の浅井さんが!?』って、もう感動の嵐で……。だから、せめて応援の気持ちを込めて……」
人生で初めて、足元から崩れ落ちるような感覚を味わった。
完璧に管理していたはずの俺のプライバシーが、あの中年男の不注意な一言によって、パブリックドメインと化していたのだ。
周囲を見渡せば、遠巻きにこちらを伺う社員たちの目が、以前のような恐怖ではなく、迷子になった子犬を見守るような慈愛に満ちているかのようだ。
「浅井さん、寂しい時はいつでもランチ誘ってくださいね!」
「パリなんてすぐですよ、今は飛行機で十四時間ですから!」
次々と投げかけられる人間らしい温かな言葉。それが今の俺には、どんな罵倒よりも鋭く、深く突き刺さる。
俺は奪い取るようにクッキーの箱を掴むと、真っ赤になった顔を隠すようにして、逃げるように家路へと逃げ戻った。
(……支障しかない。社長の口の軽さは、わが社のセキュリティにおける最大の脆弱性だ)
静まり返ったリビング。デスクに置いたクッキーの箱が、夕暮れの光の中で忌々しく輝いている。
俺は、先ほど届いたばかりの、あの青臭い手紙への返信を、端末に叩きつけるように打ち込み始めた。
――――【詩織への返信メール】――――
件名:Re:異国の朝
送信者:浅井陽斗
宛先:瀬戸詩織
手紙は届いた。
わざわざ時代錯誤なアナログの手段を選び、俺の視神経を無駄に消耗させるあたり、君の嫌がらせの精度は相変わらず高いと言わざるを得ない。
君が懸念、あるいは期待している通り、この部屋は驚くほどに静かだ。
君がいなくなったことで、自律走行掃除機の稼働時間は劇的に減少し、水道代も光熱費も、俺が事前にシミュレーションした通りの数値に正確に収束している。
「支障はない」という俺の言葉が、何ら誤りではなかったことが、家計簿のデータによって証明され続けている。
だが。
君が冷蔵庫の奥に隠していった紅茶の葉は、確かに発見した。
君の失踪後、一度も起動させていなかったティーメーカーを、茶葉の劣化を防ぐという保守目的のためだけに、やむを得ず稼働させる羽目になった。
君の言う通り、品質は悪くない。だが、淹れ手が悪いのか、あるいは部屋の湿度のせいか、君が淹れていたものとは決定的に何かが違う。その何かを特定するために、俺は無益な試行錯誤を繰り返している。一級のエンジニアとしては、極めて不本意なリソースの浪費だ。
パリの朝が白くて冷たいのは、君がまだその街のプロトコルに馴染んでいないからだろう。
ルーヴルに君の色がないのは当然だ。数世紀前の遺物の中に、これからの未来を描くべき人間の色彩を求めること自体、論理的ではない。
君はただ、目の前のキャンバスだけを見ていればいい。
俺のことは、忘れてくれて構わない。
君が俺を『世界一の嘘つき』と憎むことで筆が進むのなら、俺は喜んで、君の人生における最大の障害であり、悪役であり続けよう。
俺はここで、俺の戦いを続ける。
君が帰ってきた時、この街の汚泥が、君が手に入れた純白の靴を汚さないように。
君がただ自由な画家として、何の憂いもなくキャンバスに向き合える場所を、俺はこの砦ごと守り抜く。
……有給の話は、二度とするな。
あれは、システム上のバグで発生した、単なる不具合だ。
それから、社内で余計な情報漏洩が発生している。君の不在による不具合を周囲が過剰に解釈しているようだが、すべては統計上の誤差に過ぎない。
風邪を引かないように。
パリの冬は、神戸よりもずっと残酷だと聞く。
君が体調を崩せば、俺の『見送り』という名の投資がすべて無駄になる。
追伸。
今日、部下からパリのクッキーを、嫌味のように渡された。
本来なら君と食べるべきなのだろうが、賞味期限の都合上、俺が一人で処理することにする。
君は、本場の焼きたてを食べて、せいぜい太って帰ってくればいい。
それから、冷蔵庫の紅茶が切れたら、銘柄を教えろ。自分で注文する。思い出して後悔するなどという非効率な真似、二度とさせないためにな。
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