閑話 不敵な守護者たちの思惑 ~重鎮の視点~
週に一度の定例報告会議。会議室を支配するのは、無機質な数字と張り詰めた静寂だ。だが、私の正面に座る男、浅井陽斗の様子は、明らかに”いつも”とは違っていた。
手元の端末を凝視しているようでいて、その瞳の焦点は数ミリほど画面の手前で止まっている。今までの彼であれば、一切の無駄を削ぎ落とした精密機械そのものだった。報告書のフォントの乱れ一つ許さなかった男が、今は同じページを表示させたまま一五分間、指先一つ動かさない。
(ふむ。……仕事のトラブルでも体調不良でもないな。この、どこか遠くを眺めるような目は――)
私は隣で面白そうに、そして獲物を狙う鷹のような目で浅井を観察している専務と短く視線を交わし、手元の資料を閉じた。
「浅井君、少し。社長室へ来なさい。……専務、君もだ」
社長室の扉が閉まっても、浅井は直立不動のままだ。全館禁煙のこの部屋には、紫煙の濁りはない。代わりに、彼が纏う張り詰めたような、それでいてどこか空虚な空気が部屋を満たしている。
「さて、浅井君、座りたまえ。そんなところに突っ立っていられては、私が落ち着かん」
「失礼します。……急ぎの案件でしょうか。午後の調査資料の修正が残っておりますので、手短に願います」
相変わらずの素っ気ない物言い。だが、その声には以前のような鋭利な響きがない。私は珈琲を一口啜り、彼を真っ直ぐに見据えた。
「今日の君は、どうもピントが合っていないようだが。何があった。らしくないミスでもしたか?」
「……いえ、業務に支障はありません。些細な体調の波です。すぐに立て直せます。大丈夫です」
また「大丈夫」か。その言葉を聞いた瞬間、隣に座る専務が我慢しきれないといった様子で鼻で笑った。
「おいおい、浅井君、その『大丈夫』はエンジニアの吐く嘘としては三流だぞ。君の脳内ログには、明らかに処理しきれていない異常値が出ている。隠しても無駄だ」
実は意外なほど他人の色恋沙汰に目がない専務は、身を乗り出し、獲物を追い詰めるような笑みを浮かけて問いかけた。
「一ヶ月も前から、随分と用意周到に取得申請していたあの『有給休暇』。あれは、てっきり重要な外部折衝か何かだと思っていたが、そうではなく、恋人と会ってたのかな?」
専務の確信を突いた追撃に、浅井の眉が大きく跳ねた。彼は何かを言いかけ、唇を固く結ぶ。
「……否定はしません。ですが、個人の私事です。業務に関係のない事柄をここで報告する必要はないかと」
「まあそう堅いことを言うな。これでも君の心身の健康を心配しているんだ。……で、どうなんだ? 君が仕事より優先した相手だ。どこでどう出会えば、君のような理屈の塊が陥落するんだ?」
専務の誘導尋問は、さながら熟練の取調官のようだった。浅井は苦渋に満ちた表情を浮かべ、喉の奥で言葉を何度も飲み込み、やがて観念したように視線を落としながら、ポツリポツリと呟くように話し始めた。
「美術教師とエンジニアか。対極の存在だな。君が彼女の感性に感化されたと?」
「……彼女の描く世界は、私には計算できない光を持っていました。ですが、画家として本場で学びたいという彼女の意志を、私が縛るべきではないと考えただけです。だから、パリへ行く彼女を、私が判断して送り出しました」
淡々と、しかしどこか熱を帯びた声で語る浅井。美術教師の彼女か。あの徹底した合理主義者が、正反対の属性を持つ芸術家に惹かれ、あろうことか自らの手でその背中を押したとは。
「期間は?」
「……一年です」
浅井の答えに、私は思わず苦笑いを浮かべた。
「なんだ、たった一年か。一年なんて、仕事をしていればアッという間だぞ。何をそんなに世の終わりのような顔をしている。君らしくもない」
専務が追い打ちをかけるようにニヤリと口角を上げる。
「案の定、魂が半分くらいパリまで飛んでいってるようだな。エンジニアの癖に、自分のサーバーの同期も取れないのかい? 今の君は、ただのバグの塊だぞ。……まあ、そのバグも人間らしくて悪くないがね」
私は浅井の肩を一度だけ強く叩いた。
「そうか。随分と遠いところへやったな。寂しいなら寂しいと、情けない顔をしていろ。部下たちも、その方が君を助けやすいだろうさ」
浅井は苦渋に満ちた表情で一礼し、逃げるように部屋を去っていった。
その後、定時を過ぎた頃。私は専務と共に、以前から予定されていた部署の親睦会へと足を運んだ。会場は若手社員たちの活気で溢れていたが、そこに浅井の姿はない。やはり、今日の彼は、そんな気分ではなかったのだろう。もっとも、納期が迫っている高橋君だけは、泣く泣くデスクに残って作業を続けていたようだが。
数杯のグラスを空け、宴が盛り上がってきた頃。誰からともなく浅井の事を話し出す。
「今日の浅井さん、一段と怖かったですよね」
「あの冷たい視線に射殺されるかと思いましたよ」
そんな愚痴が漏れ聞こえてきた。それを見た専務が、私の耳元で楽しげに囁いた。
「社長、さっきの話。社員たちにも教えてやったらどうですか? あの鉄仮面の意外な一面を知れば、部下たちの愚痴も消えて喜びますよ。あいつを『人間』に戻してやるいい機会だ」
「ふむ、そうだな。あいつの完璧すぎる壁を少しは壊してやらんと、部下も息が詰まるだろうしな」
私は専務に背中を押されるようにして、グラスを高く掲げた。
「皆、聞いてくれ! 実は今日欠席した浅井君だが……。あいつも今、大変なんだよ。美術教師をしていた最愛の彼女が、画家の勉強でパリに羽ばたいちゃってな! 前々から準備してたあの有給も、彼女を空港まで送り届けるためだったんだ。今や抜け殻同然だからな! 明日からは、優しくしてやってくれ!」
その瞬間、会場の喧騒がピタリと止まった。
コンマ数秒の静寂の後、爆発のような騒ぎが巻き起こる。
「ええっ!? うそでしょ! あの論理の塊みたいな浅井さんが、恋愛ですか!?」
「しかも相手は美術教師って……。感情より効率を優先するあの人が、芸術家肌の人と付き合ってたなんて、どんなバグだよ」
「もしかして、一ヶ月も前から申請してたあの有給って……そういうこと? 仕事の整理も完璧だったから、てっきり最新技術の勉強会にでも行くのかと思ってたのに……」
「パリに見送ったってことか……? あの徹底して無駄を嫌う浅井さんが、そんな情緒的なことしてたのか。ちょっと、急に親近感湧くなぁ」
あちこちで部下たちが顔を寄せ合い、驚愕と興奮の混じったヒソヒソ話が止まらなくなる。
「明日、高橋君にも本当か聞いてみようか?」
「ダメダメ、高橋君って案外口が堅いのよ。あんなに浅井さんに振り回されてるのに、肝心なところは絶対バラさないんだから」
「でもさ、あの浅井さんが遠距離恋愛なんて。計算外の寂しさに耐えられるのかな」
「じゃあ、明日こっそり浅井さんのデスクにパリのガイドブックでも置いとく?」
「逆効果だって! 『業務に不要なデータを持ち込むな』って、論理的に詰められるのがオチだよ」
驚きはやがて、彼に対する猛烈な親近感と、お節介な慈愛へと変わっていく。
(……浅井、君にとっては地獄のような状況だろう。だが、これが人間の組織というものだ)
明日の朝、フロアが”どんな温かな包囲網”で溢れかえるか。その騒動を想像しながら、私と専務は、夜の神戸の街で愉快にグラスを重ねた。
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