第42話 異国の朝 ~詩織の独白と手紙~
シャルル・ド・ゴール空港という名の巨大な金属とガラスが複雑に絡み合う迷宮に降り立った瞬間、私の肺を満たしたのは、吸い慣れたポートアイランドの柔らかな海風とは決定的に違う、ひどく乾いた土の粒子と、幾星霜もの歴史が幾層にも積み重なって放つ、重苦しくも知的な特有の匂いだった。
入国審査の長い列に並び、周囲から聞こえてくるフランス語の鋭い響きに、自分が本当に取り返しのつかないほど遠い場所へ、戻る術を一時的に失った旅人のように来てしまったのだと、自身の心臓が刻む痛烈な鼓動によって思い知らされてしまう。
パリの街並みは、どこを切り取っても絵画のように完成されている。タクシーの窓から眺める景色は、私にとっては彩度を落とした古い映画のようで、どこか現実味を欠いているように感じた。石造りの重厚なアパルトマン、歴史の重みを湛えた街灯、行き交う人々の洗練された装い。そのすべてが、今の私にとっては正解を突きつけてくる冷たい教師のように感じられる。
アパルトマンに荷物を下ろした最初の夜、私は窓を開けてこの街の空気を吸い込む。聞こえてくるのは、知らない街の喧騒。知らない言語のざわめき。
私は独り、自分の存在がこの巨大な歴史の海に飲み込まれてしまいそうな不安に駆られ、震える指先でペンを握り、あの砦にいるあなたへ宛てた言葉を綴り始めたのだった。
―――【陽斗さんへの最初の手紙】――――
石造りの古いアパルトマン。その高い天井の下に位置する、長い年月を経てわずかに歪んだ木枠の窓から差し込む光には、神戸の海が乱反射するような、あの特有の親密な煌めきは欠片もありません。ただ、網膜を刺すように鋭く、どこまでも透き通った無慈悲な純白。それが、今の私の世界を構成している色彩のすべてであり、私の孤独を縁取る冷淡な輪郭でもあります。
あの日、関西国際空港という名の境界線を越える直前。
行き交う多国籍な群衆の波に紛れ、巨大な円柱の影に、まるで気配を消した忍者のようにして私を見守っていたあなたの姿を、私は決して見逃しませんでした。
サングラスでその険しい表情を隠しているつもりでも、私には手に取るように分かってしまうのです。本当は山積みの仕事があるだなんて嘘を並べ立てて、わざわざ密かに有給休暇まで取得し、あんなにも惨めで、あんなにも切実な顔をして私を見送っていた、世界一の大嘘つき!
本当は、その場ですべての荷物を放り出して、今までのささやかな平穏も、これから手に入れるはずの栄光も、すべてを投げ打ってあなたの胸に飛び込みたかった。
「行かないでくれ」
たったその一言を、私は喉の奥まで出かかった悲鳴とともに、狂おしいほどに待っていました。
それなのにあなたは、最後まで不自然なほどに感情を押し殺した仮面を被り通し、私に自由という名の重すぎる翼を、まるで逃れられぬ呪いのように押し付けた。
世界一の嘘つきで、そして、世界一優しい……私の、たった一人の大切な人。
陽斗さん、今の私は怒っています。それはもう、目の前のキャンバスが熱量で燃え尽きてしまうほどに。
私が今、この孤独なアパルトマンの窓辺で、指先を絵具で汚しながら筆を握っていられるのは、あなたが私を突き放してくれたからです。
もしあの時、あなたが安っぽい情に流されて私を引き止めていたら、私は、自らの才能を一生の間、呪い続けたでしょう。叶わなかった夢の残骸を抱えながら、あなたの隣で、日に日に色彩を失って枯れていく……そんな、死よりも残酷な未来を、あなたは見越していたのですね。
あなたは私を真の意味で救うために、あえて最愛の人から憎まれる悪役になる道を選んだ。
あの日、私に浴びせたあの鋭利な言葉の数々を、私は私のやり方で許さないことに決めました。この猛烈な憤り、この胸を焦がすような孤独こそを、私は唯一の燃料にして、いつかあなたを絶望させるほどの、圧倒的な色彩を描き上げてみせます。
返信はいりません。あなたの貴重な時間を、私のために一秒だって割かないでください。
パリの部屋は、あまりに静まり返っていて、自分の耳鳴りが聞こえるほど耳が痛いんです。
ここには、キャンバスに向かう私の背後で、重厚な油絵具の匂いを共有してくれる人はいない。淹れたてのアールグレイの香りに、『淹れ方が甘い。茶葉の抽出時間の計算が合っていない』と、贅沢で小癪な文句を言う人もいません。
あのアトリエで、壁一枚隔てた向こう側から絶え間なく聞こえていた、あなたの規則的で無機質なタイピング音。あれが私の心臓の鼓動の一部、生を実感するためのリズムになっていたのだと、失って初めて気づかされました。今はただ、夜が深まるたびに、遠い異国の幻聴として耳の奥で、寂しげな余韻を鳴り響かせています。
あなたが『生活に支障はない』と言い切った、あの無機質で、けれど私にとってはこれ以上なく愛おしかった日常。
私は、その断片を一日だって忘れたことはありません。あなたが淹れたコーヒーの鼻に抜けるような苦味も、ふとした時に触れた手の意外なほどの温度も、すべてが私の中に澱のように重く溜まっています。
今日、私は初めてルーヴル美術館を訪れました。
そこには、人類が何世紀にもわたって積み上げてきた数えきれないほどの”正解”が、壁を隙間なく埋め尽くすように、傲慢なまでの威厳を纏って並んでいました。どれもが完璧で、どれもが圧倒的で、けれど私の探している色は、まだそこにはありませんでした。
古今東西の名画の数々を眺めながら、私が確信したのは一つだけ。
私が描かなければならない色彩は、あの日、あなたが水平線を見つめていた時の……あの凍りついたような瞳の奥に宿っていた、絶望と希望が激しく混ざり合った、祈るような『白』なのだということです。
陽斗さん。
あなたが、私がいなくなったあの広すぎる部屋で、せいぜい寂しさに震え、眠れない夜を過ごしていることを切に願っています。
一年後。私があなたを、あなたの作り上げた無機質な世界を、跡形もなく塗り替えてしまうほどの暴力的なまでの色彩を、必ず神戸に持ち帰ります。
その時まで、あなたはあなたの戦場を、あの砦を、誰にも侵されない孤独の中で、独りぼっちで守り続けてください。
追伸。
冷蔵庫の奥に、少しだけ高い紅茶の葉を隠しておきました。
仕事に行き詰まって、どうしようもなく孤独を感じたら、それを飲んで、私のことを思い出して後悔してください。
私をパリに追いやったこと、一生分の時間をかけて、私に償ってもらいますから。
それから、陽斗さん。パリのパンはとても美味しいですが、あなたが焼いてくれたあの少し焦げたトーストの味には、どうしても及びません。そんな些細なことでさえ、私にとってはあなたを憎む理由になるのです。覚悟しておいてくださいね!
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