閑話 北野坂の空気が止まった日 ~生徒視点~
六月の湿った風が、重厚な講堂に吹き込んでいた。
全校集会。いつもの退屈な訓示が始まるのだと、私を含めた美術部の生徒たちはスケッチブックの隅に落書きをしながら、放課後の予定を小声で話し合っていた。
だが、壇上の校長先生がマイクを叩き、その一言を発した瞬間、講堂内の空気が一瞬にして凍りついた。
「――本校の美術教諭、瀬戸詩織先生が、フランス・パリの美術学校への研修留学のため、今月をもちまして休職されることとなりました」
……え?
私の隣で、パステルを弄んでいた香奈の指が止まった。
講堂全体に、さざ波のような動揺が広がっていく。それは単なる驚きというよりも、畏怖に近いものだった。
「ちょ、ちょっと待って……パリ!? あのしおちゃん先生が!?」
「うそうそ、陽斗さんとはどうなるのよ! せっかくあの事件を乗り越えて、ポーアイのタワマンで同棲始めたばっかりなのに!」
美術部のネットワークは、校内の誰よりも早かった。
あの伝説の告白から、泥だらけの陽斗さんが校門で数時間も先生を待ち続けた聖戦、そしてあの執着心の塊のような女との決着まで、私たちはすべてを『しおちゃん先生守り隊』として見守ってきたのだ。
あの二人が、欠陥品同士で支え合うと言って、世界で一番大きなアトリエという名のタワマンでようやく幸せを掴んだことを、私たちは自分のことのように喜んでいた。
それなのに、パリ。
せっかく手に入れた二人暮らしを置いて、先生は海を渡るというのか。
「瀬戸先生は、自らの筆一本で、世界という巨大なキャンバスに挑む道を選ばれました。皆さんも、彼女の勇気と……」
校長先生の言葉は、もう私たちの耳には入ってこなかった。
壇上の袖に立つ瀬戸先生の姿が見えたからだ。
彼女は、二年前、この学校に赴任してきた時とは決定的に違っていた。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、窓から差し込む六月の光を全身に浴びて立つその姿は、まるで自らが発光しているかのように眩しい。
その瞳は、もっと遠く、水平線の向こう側にある色彩を追いかけている。それは、誰かに守られるだけの女性ではなく、一人の画家として立つ者の眼差しだった。
「……ねえ、見てよ。先生のあの顔」
部長の由紀が、震える声で呟いた。
「悲しんでる顔じゃないよね。……これ、確実にあのお兄さんに『背中を蹴飛ばされた』顔だよ」
そう。私たちは知っている。
あの陽斗さんという人は、甘い言葉で先生を繋ぎ止めるような人じゃない。
時に冷酷なまでに正論を突きつけ、泥だらけになっても守り抜き、そして、彼女が一番輝ける場所へ、たとえ自分が孤独に戻ることになっても突き放すことができる男なのだと聞いている。
瀬戸先生がマイクの前に立ち、ゆっくりと一礼した。
「……皆さんに、一つだけ伝えたいことがあります」
静かだけれど、芯の通った声。
「世界は、あなたが思うよりもずっと残酷で、そして……驚くほど美しい色彩に満ちています。もし、誰かに冷たく突き放されても、自分の色を否定される日が来ても。どうか、自分の中にしかない光を、信じることをやめないでください」
その瞬間、先生がほんの一瞬だけ、誰かに宛てるようにして、慈しむようにも、最高に勝ち誇ったような、不思議な笑みを浮かべたのを私たちは見逃さなかった。
(……あぁ、やっぱり。先生、あのお兄さんに、最高の『嘘』をつかれたんだ)
直感した。
氷のような言葉で突き放されたに違いない。でも、それが先生の才能を信じ切っている陽斗さんなりの、命がけの愛の形であることを、先生はちゃんと理解しているのだ。
――――
全校集会が終わった後、私たちは誰に指示されるまでもなく美術室へと走り出した。
普段なら『廊下を走るな!』と教頭先生に怒鳴られるところだけれど、今日だけは特別だ。階段を一段飛ばしで駆け上がり、重い木製の扉を勢いよく開ける。
そこには、既に教壇で私物を整理し始めていた、しおちゃん先生がいた。
「あら、みんな。そんなに急いでどうしたの?」
いつもと変わらない、少しおっとりとした声。けれど、その足元には大きな段ボール箱が置かれ、そこには私たちがよく知る、少し使い古された美術書や資料が詰め込まれていた。その光景が、先生が本当にパリへ行ってしまうのだという現実を、鋭いナイフのように突きつけてくる。
「先生! 酷いよ! 全校集会でいきなりなんて!」
「そうですよ! パリなんて、そんな遠いところ! 陽斗さんは!? あの”砦”のアトリエはどうなっちゃうんですか!?」
香奈が泣きそうな声で詰め寄ると、先生は困ったようにはにかみ、それから大切そうに自分の左手の指先をさすった。
「……彼にはね、『君が去っても、俺の生活に支障はない』って、それはもう清々しいくらい冷たく突き放されちゃったわ」
「ええっ!?嘘でしょー。陽斗さん最低!」
「あんなに校門前で待ってたのに、そんなこと言うんですか!?」
部員たちが口々に憤慨する中、部長の由紀だけは、先生の瞳の奥に宿る穏やかな光を見逃さなかった。
「……先生。それ、陽斗さんなりの『行ってこい』って意味なんですよね?」
先生は一瞬目を見開き、それから観念したように、これまでで一番幸せそうな溜息を吐いた。
「……そうね。彼は、私が自分の夢を諦めて彼の隣に居続けることを、何よりも嫌がったの。自分の存在が、私の色彩を濁らせる原因になることを恐れたみたい。……本当に、救いようのないほど不器用な嘘つきさんよね」
先生の言葉を聞いて、美術室に温かな沈黙が流れた。
あの日、泥だらけの姿で現れたあの騎士は、今度は自分の心を泥塗れにしてまで、先生の背中に翼を授けたのだ。
「……でも、先生。私たち、寂しいです」
一年の舞衣が、先生のエプロンの裾をぎゅっと掴んだ。
「先生のいない美術室なんて、色のない塗り絵みたいです。私たちが描く迷った線、誰が直してくれるんですか……?」
先生の瞳が、一気に潤んだ。彼女は床に膝をつくようにして、私たちと同じ目線に合わせると、一人一人の手を優しく包み込んだ。
「みんな、聞いて。私がここを離れても、ここで一緒に見つけた色は消えたりしないわ。それにね、私はあのアトリエを引き払ったわけじゃないの。あそこには、今も彼がいて、私の帰りを待つための”砦”を守ってくれている」
先生は窓の外、ポートアイランドの方角を見つめた。
「一年後、私がもっと強くなって、もっと見たこともないような色彩を抱えて帰ってきたとき……。あのアトリエで、またみんなと一緒に絵を描きたい。それが、私と彼の……そして、私とみんなとの約束よ」
「約束ですよ。絶対ですよ!」
由紀が代表して、部員全員で用意していた一冊のスケッチブックを差し出した。
それは、私たちが数日間かけて密かに描き溜めた、先生への寄せ書きデッサンだった。
「これ、持って行ってください。パリで寂しくなったら見てください。私たちの今の精一杯の色です」
先生は震える手でそれを受け取り、表紙を撫でた。
「……ありがとう。これがあれば、エッフェル塔の高さも、セーヌ川の冷たさも、きっと怖くないわ」
西日が差し込む美術室。油絵具の匂いと、少しの涙の跡。
私たちは、先生の旅立ちを『寂しい』という言葉ではなく、『誇らしい』という想いで送り出すことに決めた。
先生が最後に見せた笑顔は、あの日タワマンの窓から見たという、あの希望に満ちた空の色そのものなんだろう。
一年後、この扉が再び開くとき。
先生はどんな”光”を連れて帰ってくるのだろう。
私たちは、その日を信じて、再びパレットに自分たちの色を置き始めた。
陽斗さん、先生の”砦”を、よろしくお願いしますね。……私たちの先生、世界一の画家になって帰ってきますから!
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