第41話 空港にて ~陽斗視点~
詩織がこの二十五階の砦を飛び出してから、四日が過ぎた。
リビングに漂っていたアールグレイの香りは、無機質な空気清浄機の循環風によって無慈悲に掻き消され、アトリエから漏れ聞こえていた、あのキャンバスを削るような繊細な筆音も、今はもう俺の脳裏で繰り返される幻聴の中にしかない。
視界に入るすべてが、彼女という鮮やかな色彩の欠落を際立たせるためだけに設えられた装置と化していた。
(……「支障はない」と言い切ったはずじゃないか。この静寂こそが、俺が本来望んでいたはずの誰にも侵されない『砦』の真実の姿だったはずだろう)
デスクに向かい、動画配信を見続ける。指先を機械的に動かし、次から次へと動画をザッピングしていく。だが、網膜を滑る内容は、頭には入ってこない。
胃の奥を、ドロリとした鉛のような重苦しさが支配している。彼女に浴びせたあの嘘という名の鋭利な刃が、時間差を置いて今、俺自身の心臓を正確に貫き、止まらない出血を強いているのだ。
今日は、本当なら重要なプロジェクトの最終確認に追われているはずの日だ。
だが、俺の手元にあるスマートフォンには、数週間前、彼女がフランス行きの切符を手に入れた時に、密かに申請し、受理されていた有給休暇の通知が残っている。
詩織には、仕事が詰まっているから見送りには行けない、自分には自分の果たすべき責任があるのだと、氷のような声で告げていた。それもまた、彼女をこの部屋から解き放つために積み上げた、幾重もの嘘の一つに過ぎない。俺は彼女がこの部屋を出た後、彼女が関空の対岸、りんくうタウンのホテルに身を寄せ、窓の外に広がる海を眺めながら、静かに旅立ちの時を待っていることを知っている。彼女がどの便に乗り、何時何分に日本の空を離れるのか。そのすべてを、俺は最初から、ストーカーのように把握していたのだ。
(俺は、彼女を救った男でありたい。彼女の未来を奪う、あの執拗で醜悪な連中と同じ側には、死んでも堕ちない)
そう自分に言い聞かせ、俺は動かないキーボードを親指で強く叩き続けた。
……だというのに。
気がつけば、俺は黒い上着を掴み、この無機質な砦を叩き出すように飛び出していた。
――関西国際空港、出発ロビー――
大阪湾の真ん中に浮かぶ巨大な要塞のようなその場所は、外界へと繋がる、この国で最後の関門だ。
四階の国際線出発フロア。建築家レンゾ・ピアノが手掛けた、緩やかに波打つ大屋根の下。世界中へ飛び立つ翼が集うこの凄まじい喧騒の中、俺は身を隠すように、冷たいコンクリートの巨大な円柱の影に潜んでいた。サングラスを深くかけ、行き交う群衆の中に己の存在を溶け込ませる。これほどまでに見苦しく、惨めで、情けない見送りが他にあるだろうか。
自動ドアが開閉するたびに、潮風の香りを孕んだ春の湿り気がロビーに流れ込む。
巨大な電光掲示板には、世界各国の都市名が冷淡に並び、その中の一列、「PARIS / CDG」の文字が、まるで死刑宣告のように俺の網膜を灼く。
多国籍な言語が飛び交う喧騒、重いスーツケースが硬い床を叩く不規則なリズム、カートの車輪が立てる軋み音。そのすべてが、俺の焦燥を際限なく煽り立てていた。
「……いた!」
心臓が、肋骨を突き破らんばかりに跳ねた。
エールフランスのチェックインカウンター、長蛇の列の中に、一際小さな背中を見つけた。
俺が揃えてやった最高級の画材を詰め込んだのであろう、重そうなキャリーケースを引く彼女。数日間、海沿いのホテルで一人、何を想って過ごしていたのか。その細い肩にかかる重圧を、今すぐ駆け寄って代わってやりたいという、狂おしいほどの衝動が全身の筋肉を硬直させる。
彼女は一度も振り返らなかった。
あの日、俺が浴びせた残酷な拒絶を、彼女は正面から、逃げることなく受け止めたのだ。そして、それを自らの翼を動かすための憤りという名の燃料に変えようとしている。俺という不器用な過去を振り切り、一人で水平線の向こう側へと漕ぎ出す覚悟。その、あまりにも美しく、孤高な後ろ姿に、俺は息をすることさえ忘れて見惚れていた。
(いい。それでいい、詩織。俺のことなんて、独りよがりの冷酷な男だと憎んだままでいい。その怒りを、色彩に変えて、パリの空の下で世界を塗り替えてこい。君の描く色は、こんな灰色の場所で腐っていいものじゃないんだ)
手荷物検査場へと向かい、彼女がパスポートを提示する。
その背中が、セキュリティゲートの向こう側に吸い込まれ、視界から完全に姿が消える瞬間を、俺は心臓の鼓動を止めるようにして、永遠に刻み込むように凝視した。
これで、俺の役目は終わった。彼女は自由になり、俺は再び、この凍りついた孤独の檻へと帰る。
踵を返し、逃げるように、這い出すようにその場を去ろうとした、その時だった。
ふと、彼女の足が止まった。
予感。あるいは、魂の呼応だろうか?
彼女がゆっくりと、まるで何かに吸い寄せられるように、背後を……俺のいる方向を振り返る。
「……あっ」
広大なロビーを行き交う何百という群衆の間、柱の影に潜む俺の姿と、彼女の視線が、一直線に重なった。
距離にして数十メートル。届くはずのない距離。遮るものはいくらでもあるはずの距離。けれど、彼女の大きな瞳に、みるみるうちに光る涙が溜まっていくのがはっきりと見えた。
サングラス越しでも、彼女には分かっているのだ。
仕事だと言って突き放し、生活に支障はないと言い切ったはずの男が、結局は有給まで使って、這うようにしてここまで追いかけてきて、無様に、卑怯に、影から覗き見ているその滑稽な矛盾を。
俺の積み上げた嘘が、あまりにも無様に、そして鮮やかに露呈した瞬間だった。
彼女は、今にもゲートを逆走して駆け寄りそうな仕草を見せて――。だが、唇を強く噛み締め、その場に踏み止まった。
そして、泣き笑いのような、酷く複雑で、だが、最高に美しい表情を浮かべ、俺に向かって短く、力強く頷いてみせたのだ。
『分かっているわよ、世界一の嘘つきさん』。
声にならないその言葉が、空港の喧騒を、風を、重力を突き抜けて、俺の胸の真ん中を射抜いた気がした。
彼女は今度こそ、一度も振り返ることなく、その翼を広げるようにしてゲートの向こうへと消えていった。
独り残された出発ロビーで、俺は崩れ落ちそうになる膝を必死に堪えていた。
あの日浴びせた冷酷な言葉。それをすべて無効化し、嘲笑うような、俺の無様な見送り。
けれど、水平線を越えていく彼女の後ろ姿を見つめながら、俺の心には、かつてないほど激しく、純粋な誓いが灯っていた。
(……待っている、なんて甘い言葉は言わない。だが、一年後、君が最高の絵を携えて帰ってくるこの場所を、俺は誰にも壊させない。この街のルールも、腐った秩序も、すべてを俺の手で塗り替え、君がただ画家として、誰に頼ることなく生きていける世界を、俺が必ず用意してやる)
窓の外、エンジンの轟音と共に、一筋の銀翼が関西の空を切り裂いて飛び立っていく。
俺は、彼女を乗せたその翼が、光の中に消えていくのをいつまでも見上げていた。
それは、失恋の傷跡を共有し、共に歩むことを選んだ二人が、それぞれの戦場へと赴くための、あまりに過酷で、そして誇り高い誓別の儀式のように感じた。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




