第40話 嘘つきな砦 ~詩織視点~
フランスからの招待状を差し出した私に、陽斗さんは一切の躊躇もなく、鋭利な氷のような眼差しを向けた。
それは、この二十五階の砦で共に暮らし始めてから、一度も向けられたことのない、温度を完全に剥ぎ取られた無機質な拒絶だった。
「その程度のチャンスで迷うなら、プロとして失格だ。君が去っても、俺の生活に支障はない」
突き放すような、残酷な言葉。
鼓膜を叩いたその響きは、かつて五年付き合った彼氏から『君は重荷なんだ』と一方的に別れを告げられたあの日、私の世界からすべての色彩を奪い去った絶望の調べに酷似していた。
でも、今の私にはわかる。
陽斗さんは今、あえてあの最低な男と同じ悪役の仮面を被り、私を突き放そうとしているのだ。
(……陽斗さん、あなたは本当に、救いようのないほど不器用な嘘つきだわ)
私に負い目を感じさせないために。私が『自分のせいで詩織の未来をつぶしてしまう』という罪悪感に囚われないために。あなたはわざと自分を汚し、冷血な男を演じて、私の背中を外の世界へと押し出そうとしている。
私を想うがゆえに自分を悪役にする、その最高に不器用な嘘。
絶望の淵にいた私を掬い上げ、このマンションで再び筆を持たせてくれたあなたの優しさが、今は何よりも残酷で……そして、心の底から許せなかった。
「……そう。支障はないのね」
私は震える拳を、爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめた。
リビングの大きな窓から差し込む旭日が、私たちの間に引かれた境界線のように床を割っている。私は、冷え切った彼の横顔を真っ向から見据えた。
彼は一度もこちらを見ようとしない。ただ、窓の向こう側に広がる水平線の彼方を睨みつけるように固定された視線が、かすかに強張っているのが分かった。そのわずかな筋肉の震えこそが、彼が今この瞬間も、自分自身の心臓を素手で握り潰しながら言葉を紡いでいる証拠だった。
「なぜ……今頃になって、こんなものが届くのよ……っ!」
喉の奥から漏れたのは、自分でも驚くほど掠れた、悲鳴に近い呟きだった。
この研修の切符は、すべてを失い、日本にいることさえ息苦しかった私が、逃げ場を求めるようにして出願した”過去の遺物”だ。すべてを捨てて、一人で異国へ消えるための最終手段だった。
だけど、陽斗さんと出会い、この砦で共に過ごし、奪われていた色を取り戻した今となっては、それは救いではなく、私たちを引き裂くための呪いのように思えてならない。
「陽斗さんは、私のことなんて、もう必要ないって言いたいの? 私がいなくても、この部屋の空気は変わらないと? 一年前、どん底にいた私を拾い上げてくれたあの言葉も、ここで一緒に過ごした時間も、全部……その場しのぎの気まぐれだったって、そう言うのっ!」
私の叫びが、広すぎるリビングの静まり返った空間に虚しく反響する。
それでも陽斗さんは、凍りついた彫像のようにピクリとも動かない。冷酷な仮面の下で、どんなに激しい後悔が渦巻いていたとしても、彼はそれを表に出すことを自分に禁じている。
「プロなら結果ですべてを証明しろと言ったはずだ。感傷で足が止まるなら、最初からそんな夢は追うな。……君がここにいても、俺にとってはただの居候が増える以上の意味はない。一人分の食費と光熱費が浮く程度の話だ」
――嘘。全部、真っ赤な嘘だ。――
陽斗さんは、私がアトリエとして使わせてもらっている部屋から漂う油絵の具の匂いが、この無機質な砦を家にしてくれると言ってくれた。私が淹れるアールグレイの香りに、凍りついていた心が溶けていくと言ってくれた。あの夜、二人で見たポートタワーの光を、自分を救ってくれた永遠の色彩だと誓ってくれたのに。
溢れ出しそうになる涙を、怒りで無理やり押し戻す。
私のために自分を殺してまで嘘をつくその高潔さが、今の私には耐え難いほど自分勝手なエゴに思えた。
「勝手に一人で完結しないでよっ! 私を救ったのはあなたなのに、今度は私を突き放すことで守ったつもりになって……そんなの、ただの自己満足じゃない! 私の気持ちなんて、最初から置き去りにして!」
激しい感情が胸を突き上げ、視界が熱く歪む。
彼が私の未来を信じているからこそ、この機会を逃させまいとしているのは痛いほどわかる。私がパリに行けば、きっと新しい世界が開けるだろう。前の男への未練も、過去の傷も、すべてを過去にできるかもしれない。
でも、今の私にとって一番大切な色は、パリの空の下にあるんじゃない。この無機質で、少し寂しくて、けれど陽斗さんの体温が宿っているこの場所にあるのに。
それを『支障はない』なんて言葉で切り捨てられることが、何よりも悲しくて、悔しくて、腹立たしかった。
「……分かりました。そこまで仰るなら、私は行きます。パリでもどこへでも、あなたの視界に入らない場所まで行って、あなたが私の価値を、私の存在を嫌というほど思い知るまで描き続けてやります! あなたが二度と、そんな生意気な嘘をつけないくらい、世界中に私の色を叩きつけてきます!」
私はテーブルの上の許可証をひったくるように掴み、彼に背を向けた。
振り返れば負けだ。今の彼の瞳に宿っているであろう、隠しきれない絶望と、私を追いかけてしまいそうな脆さを見つけてしまったら、私は二度とここから動けなくなる。
私はリビングを飛び出し、この家に用意された自分のアトリエへと駆け込んだ。
以前、引き払った家から持ってきた、数少ない画材とキャンバス。陽斗さんが私のために揃えてくれた、最高級のイーゼル。
視界に入るすべてが、彼の偽りのない慈しみで満たされている。その慈しみが、今の私の心をナイフのように切り刻む。
「……嘘つき! 大っ嫌い……! なんで、もっと素直に寂しいって言ってくれないのよ……!」
私はアトリエの重いドアを背中で押し閉め、内側から鍵をかけた。
崩れ落ちるように床に膝をつくと、胸の奥が引き裂かれるような痛みに襲われる。
(……待っていてなんて、絶対に言わない。一年後、私が最高の色彩を持ってこの部屋に戻ってきた時、あなたがどんな顔で私を迎えるか……その嘘の代償、たっぷりと払ってもらいますからね。その時まで、この部屋の寒さに震えていればいいわ)
私はキャンバスの影で、声を殺して泣いた。
それは悲しみの涙ではなく、彼への猛烈な怒りと、そして、どうしようもないほどの愛おしさが爆発した結果だった。
陽斗さん、あなたが守ろうとした私の翼は、あなたを置き去りにするためじゃなく、もっと広い世界の色を、あなたと一緒に見るためにあるのだと……いつか必ず、証明してみせる。
あなたが「支障はない」と言ったその日常が、どれほど私に依存していたのかを、私のいない空白期間という残酷な鏡で突きつけてやる。
「見てなさいよ、陽斗さん……。あなたが後悔して、土下座してでも私を呼び戻したくなるような、とんでもない絵を描いてやるんだから……! 誰にも真似できない、あなただけが理解できる、最高の色彩を!」
リビングから聞こえてくるはずの彼の足音やキーボードを叩く音は、もう聞こえない。
厚い壁一枚を隔てた向こう側にいる彼との距離が、今は何千キロも離れた異国よりも遠く感じられた。
私は泣きながらも、傍らにあったスケッチブックを掴み、狂ったように鉛筆を走らせ始めた。
この痛みも、怒りも、彼への断ち切れない想いも、すべてを塗り込めて。
紙が破れんばかりの筆圧で刻まれる線は、そのまま私の心臓の鼓動だった。
窓の外、無慈悲なまでの白銀に輝く海は、私たちの決別を祝福するように、ただ眩しく光り輝いていた。一年後、この海の色が、私たちの目にどう映るのか。その答えを見つけるために、私はこの砦から飛び立つ決意を固めた。
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